私の従軍記 飯塚 定次 13
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私の従軍記 飯塚 定次 (編集者, 2015/3/30 8:56)
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編集者
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さて、私と栗原中尉は各部隊の経理部と本部の担当者を集めて現況把握に入った処、既に近くのなだらかな山野を開き、開墾を始めていたのを基本計画の基軸とし草の生えない酸性土壌を中性土壌に改良する為、切り開いた土地一坪当りを一山として深さ三十~四十センチに掘り起し下部にシダ類を敷き、その上に中心に煙突を仕組み上を雑木を切りさき燃え易い土釜にして、下から火をつけて焼土作戦を開始した。人手があるが食料不足の作業できびしかったが思ったより順調に進み、シンガポールの二十五軍本部より甘藷の苗、タピオカの苗等を引取り開拓の出来た処から植付けを始めたのであります。私はこれらの収穫期迄残りませんでしたので戴くことは出来ませんでしたが一面甘藷畑になった開墾地をみて感無量でした。
肥沃な島が沢山ある中でわざわざ草も生えない無人島を選んで我々を追い込む聯合軍に人間としての尊厳を無視した聯合軍の意図に許せんとする強い反感を禁じ得ませんでした。
地図に載らない二百余の島々は今どうなっているのだろと気になります。この島々を結ぶ水路にワニが沢山います。この時分に二名の方がワニの攻撃を受けて亡くなられました。
何回目かの帰還船が次々出航してゆきました。その間四月二十九日の天長節の祝日を記念して演芸会を舞台を作って行いました。その頃は日常生活も兵舎が出来て人並の環境になっていまして、食糧も聯合軍の野戦食オーストラリヤレーションが時折配給されたりし、以前の様に長期のための特別備蓄なども考えずに平常になっていました。
五月に入りまして帰国の番に組入れられまして下旬だったと記憶しておりますが、乗船、南紀の田辺港に六月八日に入港いたしました。東京都麻布の村松達二郎君と司令部在籍者の中で仲の良い友達として生活していました。彼は私より三年年長で東京商大卒業、繊維の大手メーカー「郡是(グンゼ)」のニーヨーク支店に勤務中召集され近歩三へ入隊。御自宅は東京麻布区林町でしたので無論大空襲で焼失しているだろうという事で二人で久しぶりで京都へ行って和食で日本を味わおうという事になり、受取った三百円、二人で計六百円あれば良かろうと昔和菓子一個一銭か二銭だった頃の頭で考えて話していた。ところが当ってびっくりした事は饅頭が一個十五円、ザツと三千倍となっている。とても六百円で豪遊等とんでもないという事で東京の御宅へ電話したら通じて御住居は大丈夫で残っていらっしゃる。分散した家財の内、横浜倉庫分は全焼、群馬分散の方は安全、御自宅の庭を掘って格納された分は防湿不充分で傷んだものが多いという事が判明。私の田舎の家へひとまず落ち付こうという計画も必要なくなりまず一安心となり、彼は東京実家へ私は静岡へ直行となった。