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続 表参道が燃えた日 (抜粋)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/8 6:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 忘れられない五月二十五日
 岩崎 栄子(いわさき えいこ)


 
 私の家はJR原宿駅竹下口から二、三分、駅前の通りからも竹下通りからも一、二分のところにありました。近くの東郷神社は子供達のよい遊び場でした。戦争が激しくなり、私どもは、父一人を原宿に残し、福島県平市に疎開しましたが、昼間留守になる家を守らなければと、平と東京を行ったり来たりしていました。学校も東京と平の両方に席がありました。

 五月二十五日は家族みんなで東京にいました。B29がすごい数で、すごい速さでやってきたので、私は防空壕に入るのが間に合わないくらいでした。妹二人は家の中に取り残され、父が助けに行き、抱えて外に出た時には家は燃え出し、父は軽いやけどを負ってしまいました。ドブ板の下にはガソリンが川のように流れていました。

 父は警防団員なのでみんなと一緒に逃げられません。父と十六才の兄は近所の人や家を守るために残りました。母は九カ月の大きなお腹で、三才の妹をおんぶし、次男十一才は四才の妹をおんぶしました。八才の私は水を入れたバケツを持って逃げました。

 遠くには行けないので、すぐ近くのお召し列車が使うホーム(現在も残っている宮廷ホーム)の中に逃げ込みました。角ばった焼夷弾がホームの屋根を突き抜き、降るように落ちて来ました。逃げようにも柵がぴったり閉まっていて出口がわかりません。はしからゆすり、ようやく出ることが出来ました。

 安全な場所を探し延命寺のところまできた時、解き放たれた軍隊の馬が何十頭もすごい勢いで逃げて来ました。恐ろしさに壁にはりついて、通り過ぎるのを待ちました。そしてまた線路の所まで戻りました。

 身軽な人は止まっている列車の下をくぐり、明治神宮の石垣を登り神宮の森の中に入って行きました。私達は登ることも出来ないので、ホームとお寺さんの百mくらいの間をうろうろするだけでした。よその家の庭の木の下にかくれて夜が明けるのを待ちました。ふとんが燃えているのも知らず頭からかぶっていましたが、木の下でバケツの水で消してやりました。

 私達は駅で待ち合わせることにしていました。家から五、六十メートルの所にいるとは思わず、誰に聞いても知らない、見ていないといわれながら父と兄は遠くまで捜し歩いたそうです。そして、会えた時の、無口な父の嬉しそうな顔が今でも目に浮かびます。

 焼けてしまった家の縁の下に保存していたお米、味噌、野菜を近所の人と一緒に煮ましたが、イブ臭くて食べられませんでした。
 母のお腹は大きく、いつ陣痛があるか心配なので、その日に、空気の抜けたリヤカーに母と妹二人を乗せ、父と兄が引いて、下の兄と私は後押しをし、上野駅まで歩きました。焼け跡の惨状に何度も目をつぶりました。一生忘れる事の出来ない光景でした。

 どうやって平に着いたか思い出せません。平でも警報が出て、身重な母はのろいので怒られながら避難したりしました。
 六月二十六日、無事に弟が生まれ、皆で喜びました。おむつを持って防空壕に入り、泣き声を気にして口をふさぎ壕の入口に坐ったりしましたが、そのあとは家の中で静かにかくれて、避難はしませんでした。

 もうひとつ忘れられないのが五月二十三日の夜の空襲で、B29が撃墜され、その一部が家のすぐそばに落ちたことです。駅前の通りのところです。機体の下に黒こげの頭が見えて、アメリカ人と思い蹴飛ばす人もいましたが、日本人と分かり手を合わせました。ご近所の息子さんでした。

 B29は三つに分解し、他の一つは明治通り近くに、もうひとつは神宮橋近くの大禮会館の所に落ちたそうです。

 戦争が終わり嬉しかったです。
 この文を書きながら、いろいろ思い出され涙が流れます。七年後神宮前に戻って来ました。

 その後、父は五十二才で、母は八十七才で亡くなりました。兄二人と弟も亡くなり、今、五人はあの夜さまよった延命寺に眠っています。当時の家から五、六分のところです。私も七十三才になりましたが、今住んでいる相模原から妹とふたりで年に五、六回お参りに行っています。

 (渋谷区竹下町)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/7 6:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 私の大東亜戦争
 松田 豊彦(まつだ とよひこ)
 

 当時、私は大学理工学部建築学科に在学していた。
 昭和十八年十月二十一日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が文部省主催で行われた。東候首相の激励の辞のあと、私は三八式歩兵銃を担ぎ、腰に帯剣、ゲートル姿で、泥水をはねあげながら分列行進をした。

 理工系の我々はその後もしばらくは通常の授業を続けたが、翌十九年五月からは学徒動員で、陸軍軍需品本廠研究部に配属された。陸軍の種々の物品の調達を行う部署で、建築物も担当していた。後楽園球場の北側、木造のバラック建てだった。グランドには高射砲が数門据えられていた。

 出張先の岩手県で発熱、急性腎臓炎とのことで、昭和二十年の正月は駿河台病院で迎える事になってしまった。退院し仕事に復帰直後の三月十日、下町が大空襲に見舞われた。翌朝すぐ羅災地の調査に出掛けたが、手の出しようがない。唯々被害の大きさに驚くばかりだった。一面の焼け野原、累々と横たわる死体、防空壕の中、防火用水のコンクリートの箱の中で丸まっている裸の焼死体…。初めて見る惨状に、日本の行く末を見た思いであった。

 四月には小石川の役所が羅災し、急遽山梨に疎開することになり、我々は水道橋駅前の府立工芸学校の校舎で、東京事務所として留守業務を担当した。

 五月二十五日の夜、私はちょうど宿直当番であった。机を並べてベッドとし、学生服のまま休んでいると、いつもの様に空襲警報が鳴り響き、しばらくするとB29の爆音と共に、西の空が一面赤くなり始めた。今日はどこが被害を受けたかと思いながら、当直の夜が明けるのを待った。

 原宿駅近くの穏田の自宅に帰ろうと思うが、国電は全面不通という。歩くより致し方ない。水道橋、飯田橋、四谷と、現在の東京マラソンのコースを歩く。次第に焼け野原が広がり、三月十日の本所、深川と同じような惨憺たる光景である。薄煙の中から表参道まで見渡せる。所々に薄煙が広がり、焼け跡にチョロチョロと出ている水道。あちこちに転がっている焼死体。穏田のわが家はどうなってしまっただろうかと案じながら、表参道交差点までたどり着いた。明治神宮の燈籠と安田銀行との間に数多くの焼死体が折り重なっていた。表参道の樺並木も燃え、同潤会アパートも外観は保っていたが、中は焼失してしまったようだ。無惨な姿になった竹下通りを急いで、わが家を目指した。

 焼野が原の一角に三、四軒だけが焼け残っていた。北隣りの家作(かさく)は全焼、南側の家作二軒と向いの一軒とわが家だけが建っていた。
 義兄は家族を福井へ疎開させ、義兄と甥と私の三人が家を守っていたのだが、当夜はたまたま義兄一人だった。わが家に命中した焼夷弾四発を、義兄は孤軍奮闘、すべて消し止めた。女中部屋の畳には穴があき、納戸の和箪笥は直撃弾が貫通し、和服が重なったまま丸いこげ穴を残していた。家の真ん中あたりに落ちた焼夷弾は屋根、床を貫通して土の中に埋まっていた。それが不発弾だったのは幸運だった。しかし、吹き倒されそうな烈しい熱風と戦いながら、隣家からの類焼を防ぐのはさぞ大変だったと想像された。偶然のこととはいえ、義兄をひとりにしたことへの申し訳ない思いでいっぱいだった。

 二十六日からしばらくは、ご近所の焼け出された方々の緊急避難所のような役目を果たすことになった。多くは明治神宮の森に逃げ込んだようだった。第一鳥居をくぐって避難したり、線路をまたいで土手を登り、森に逃げ込んだりして、一夜を明かしたとのことだった。原宿駅の駅舎と、駅からの参道沿いの三軒の売店がかろうじて焼け残ったが、あとはすべて焼き尽くされた。わが家の無事を心から感謝した。

 同世代の多くの若者がこの戦争で命を落とした。顧みると、私はいくつもの幸運な廻り合わせにより、今日、米寿の目を迎えた。
 誕生日が大正十二年十二月。十一月生れの人までが繰上げ徴集で兵役に就いた。また、二十年九月に大学の繰上げ卒業を控え、陸軍技術将校試験を受け、発表待ちで八月十五日の終戦を迎えた。

 大学卒業と同時に、三井建設第一期生として就職、昭和二十二、三年には巣鴨プリズンの営繕を担当し、大東亜戦争の戦後処理にも関わったが、その後は建築技師として戦後の復興、発展に参加出来た事は幸甚であった。

 今日の表参道のファッションの先端としての繁栄や、若いギャルあこがれの竹下通りの賑わいを、当時の誰が予想しただろうか。

   平成二十二年十二月二十一日 満八十八歳の誕生日に
 
 (渋谷区穏田三丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/6 6:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 羅災の記
 島野 敬一郎(しまの けいいちろう)その3

 ここに到ってわが家の消火は不可能だと即断し、親子四人で互いに叫び声をあげながら、手をとりあい、濡れ蒲団を頭にかぶり逃げにかかったが、どこをどう通ってよいのか見当がつかない。戸外は一面に煙が立ちこめていて、眼からは涙がとめどなく出るし、呼吸すら満足にできなくなってきた。幸いなことに、裏の畑の中を数人の人たちが身体を丸めて明治神宮の方へ逃げていくのを、立ちこめる煙を通してわずかに確かめることができたので、彼らの後を追うことにした。畑の真ん中まで来たところで、雨露と降りそそぐ焼夷弾に遭遇した。私たちのまわり一面に火の雨が降りそそぎ、ブスブスと焼夷弾が地面に刺さっていく。上空を見上げると、焼夷弾の滓(かす)と思われる細かい火がバラバラと降ってきて、まるで火の粉の海の中にいるようだった。

 漸く原宿駅の前を通り神宮の入口まで辿りついて、少し落ち着くことができた。神宮の入口は、本来は暗くて淋しいはずなのであるが、周辺の火災の反映で真昼のように明るく映し出されており、そのうえ大火災から逃れてきた避難民でごった返していた。彼らは、ただ黙って不安な面持ちで脅えていた。

 あれほど幅の広い表参道には、ちょうど参道を南から北へ火勢が横断するような状態で火の波が押しよせていた。泣き叫ぶ子供を背負って逃げてくる母親や、自転車に運べる限りの家財を乗せてきた男の人、バケツを両手にぶら下げて放心して歩いてくるおかみさんなど、多くの人たちが境内に入ってきて、境内の土手に群がっていた。

 もう大丈夫だろうと、私は一人で原宿駅前の坂の上から東方を一望の下に見渡せる場所に立って見ると、穏田には残された家は一軒もなかった。広大な面積の一面に、真っ赤な狐火が静かに燃えているようで、とてもこの世では見出すことのできない美しい光景だった。まるで真っ暗な世界に、火の草花が一面に咲き競っているようで、私は思わず見とれて時の経つのを忘れたほどだった。気がついてみると、私のそばにはいつの間にか数人の人たちが集まってきていて、いずれも放心した態で眼前に展開されている情景を眺めていた。

 東京の夜間大空襲は、五月二十五日をもって最後となった。即ち、わが家は東京最後の空襲で羅災し、あえなく焼失してしまったということになる。

 (渋谷区穏田一丁目)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/5 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 羅災の記
 島野 敬一郎(しまの けいいちろう)その2

 一度空襲があると、一目おいて再び大挙来襲するというのが敵の常套戦法である。その二十五日の夜、十時ごろになって再度の空襲となった。戸外は真っ暗で強い風が吹いていたので、今夜の空襲では相当にひどい被害を蒙るかも知れぬという予感がした。とは言え、まさかあのような悲惨なことになるとは予想だにしなかったので、大切と思われた書籍を疎開させただけで、私の部屋は一切が平常の生活状態を維持させていた。即ち、机の上には学校で使用していたノート類の数々や、若干の書籍、机の中にはアルバムさえ入っていた。先の二十三日の夜の空襲以来、ラジオが通じなくなってしまったので、敵機の情報が一切入手できず、来襲の状況は専らわが眼と耳を頼りにするだけだった。

 はじめのうちは、敵機は東京湾の方角から侵入して下町方面に投弾しはじめたので、今夜の敵の目標は下町方面かと気を許していた。ただ三十分後、今度はそれとはまるで反対側の西の方から一機ずつ侵入しはじめ、しかもわが家からごく近いところへ投弾を開始したので、私は全く虚をつかれた恰好になった。敵機の飛来行動を見ていると、どうやら山の手方面に矛先を向けているようで、一列縦隊で一機ずつ飛来する敵機のすべてが投弾してゆく。間もなく近所の穏田あたりにも火の手が上がったので、少なからず身の危険を感じさせた。そのうち、B29一機が照空灯に照らされながら浮き出たかのように、なんと頭上にやってくるではないか。そしてこともあろうに、丁度頭の上でパッと焼夷弾が破裂してしまった。壕の中へ飛び込んで様子を伺っていたら、あの聞き慣れた落下音とともに一大音響がしたので、間髪を入れず壕から出てみると、あたり一帯は火で明るくなっている。それっーとばかり火の方角目指して走り出すと、丁度足もとに青い火がチョロチョロ燃えていた。そのすぐ傍らには炭などの燃料が貯蔵されている物置があったので、小屋に引火しては大変と、やっとのことでその青い火を消しとめた。

 全く予想外の瞬時の出来事だったので、大勢を判断する余裕などあるはずがなく、行き当たりばったりの焼夷弾を消すのに余分の時を費やしてしまった。気がついてみると玄関の天井から火が吹いていた。何気なしにエレクトロン焼夷弾にバケツの水を一杯かけてみたら、消火実験で経験した通り一層勢いよく火花がはね上がった。

 家の雨戸という雨戸はすべて閉めきっていたが、万一のことを想定して、たった一枚だけはあけておいた。庭から縁側にあがり、雨戸の閉めていないところから土足のままで家の中に入ってみると、応接間の方が明るい。行ってみると、玄関の天井の梁が二つに裂けており、その裂け目から猛火が天井裏を這っているのが見える。更にその下にある長い廊下には、数個の小さな焼夷弾がボヤボヤと突き刺さって並んで燃えていた。また便所の内部にも焼夷弾が落ちているらしく、ガラス越しに明るくなっていた。一瞬今夜は風呂に入ったことを思い出し、風呂からバケツに湯を汲んで、なかでも一番火勢が強い玄関の天井めがけて二、三回湯をかけてみたが、何の効果もない。廊下に並んでいる小さな焼夷弾は、バケツ二杯の湯で消すことができたが、あとはどうにもならない。数個所の火元に囲まれ、私は迷い、慌てた。広い平家の中で、私一人で数多くの落下している火と戦ってみたが、どうやら勝ち目はない。家の中は煙が充満し、息をつくのも容易でなくなってきた。「もはやこれまで」と観念し、蒲団を防空壕の中に突っこんでから蓋をし、その上に土をかけた。

 近隣の様子はといえば、向こう隣の家の物干場や、近所の二階屋根からも猛火が吹き出していた。
常々防火演習の場合では、「焼夷弾落下!」と叫ぶと、近所の人たちが集ってバケツ・リレーで水を運び消火することになっていたが、いざ本番で演習時通り叫び声をあげても、誰一人として応援にかけつけてくれる人はいなかった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/4 8:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 羅災の記
 島野 敬一郎(しまの けいいちろう)その1






 昭和二十年五月に入ると、敵機による空襲は、大森、池袋あるいは新宿というように、山手方面を目標にするようになった。

 池袋、新宿方面が空襲されたとき、その一機が明治神宮に投弾していった。JR原宿駅近くに住んでいたわが家からも、神官の森の間からパチパチという音を立てて火の粉が望見された。

 五月二十三日の夜、このところ東京にはやってこなかった敵機は、渋谷方面に焼夷弾を投下しはじめ、被爆地方面からと思われる火災が見えたので心配していたら、遥か北方の上空で、敵の一機が高射砲弾を蒙り、火焔を吐きながら東方海上方面へ逃げのびようとする姿が目に入った。敵機は間もなく空中分解を起こし、燃料の燃える薄黒い不吉な火の塊が二、三空中に舞い、落下しはじめた。その夜は北風が強く吹いていたこともあって、その主翼とおぼしき火の塊の一つが、矢庭にこちらの方へ流されながら落下してきた。翼の両端からは真紅の炎を吐き、北風に乗って独楽のようにぐるぐる大きく回転しながらこちらの方へ落ちてきた。その翼が近づくにつれて、轟々と音を立て、唸りを生じて物凄い景観を呈してきた。事態はますます険悪になってきたので、家族全員は防空壕に避難した。それでも戸外の様子が気になっていたので、壕の透き間から外をのぞいていた。すると家屋が真昼のように明るく照らしだされ、この世のものとは思えないような大きな轟音とともに巨大な主翼が落ちた。

 戸外の様子を確かめるために急いで壕から飛び出してみると、B29の主翼がわが家の向かい側の家の庭一面に、ところせましとばかりに落下炎上していた。その翼の下には防空壕があり、壕の中で救助を求めている女主人の救助に一苦労した。この作業も一段落したところで帰宅したところ、すぐそばの表参道にある大きな木造二階建ての大礼会館が、いまをさかりに燃えていた。大礼会館というのは確か結婚式場に利用されていたはずだったが、その大黒柱などが盛んに燃えているところだった。その近辺の小さな二階建て民家の一群にも火がまわって燃えていた。ラジオの電波も切れ、その後の被害情報もわからない。朝になって気がついたが、わが家の庭にも主翼の部品ともみられるものが多数散乱していた。

 朝食後、原宿皇室駅附近に行ってみたら、B29の胴体が落ちていた。その焼け爛れた胴体の中には、真っ黒になった屍骸が残され、機体から少し離れた路上には、操縦者たちと思われるいくつかの屍体が蓆(こも)に蔽われて残されていた。その蓆の端からは、うーんと右手を空中にのばしていたり、足などがはみ出しているのが見えた。機体の傍に来た一人の警官が、笑いながら棒の先で蓆から出された屍体の腕を叩くと、鈍い音がして木の枝のように硬直したまま上下に揺れた。

 午後になって恵比寿の友人を見舞った。渋谷から恵比寿にかけての被害も甚大で、見渡す限りの焼野原の中では、今日から新しい生活をしなければならない羅災者たちが、悲愴な面持ちで右往左往していた。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/3 8:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦時中の出来事
 佐藤 銀重(さとう ぎんしげ)その2


 穏田炎上

 昭和二十年三月一目小雪の降る中、私達六年生は中学校(旧制中学)入学のため帰京した。
 四月から中学校に通いはじめたが、上級生は勤労動員に出かけ学校に来ない日が多かった。三月十日東京下町で大空襲があり、深川方面の空が真っ赤になっているのが、穏田からもよく見えた。
 次は山の手かと、大人の人がつぶやいていた。深川の空襲で焼け出された、二組の人が私達の隣組に転入して来た。空襲の怖さを色々聞かされたが、その時は実感が無かった。四月は時折空襲警報が鳴っていたけれど、軍事教練の合間をぬって勉強もしっかり出来た。そのころから本土決戦という言葉をよく聞くようになり、軍人が隣組に出向き、消火訓練や竹やりの使い方を教えていた。






 穏田は五月二十三日と二十五日の二日間で一帯が焼け野原になった。当日は寝込んだ頃空襲警報で起こされ、ゲートルを巻き、外套を着て、防火頭巾をかぶり待避していた。そのうち照明弾で外が明るくなり「ザアー」という音(大粒の雨が降る時の音と同じ)がして、焼夷弾が一斉に落ちてきた。焼夷弾の一本一本は六角形で縦五十センチ位(次貢図参照)下部に信管がついていて、落下地点で信管に何かが触れると上部の蓋が飛び、中から火のついた油脂が周囲に飛び散り大火災に発展していく。焼夷弾の一本が私の目の前で炸裂したので、今でもその時の状態を鮮明に記憶している。

 運の悪い人は、上空から落ちてくるその一本に当たり(直撃)死亡した人が大勢いる。次に、銀紙を細長く二メートル位に切り、くらげ状にまとめた物体(呼称不明)が、上空からゆらりゆらりと地上に数個舞い降りて来た。これは、敵の電波を妨害する道具だそうで、人体に被害は無いが気味が悪かった。焼夷弾が炸裂した瞬間は、各家の屋根で一斉にローソクを燈したみたいで一瞬椅麗に見えるけど、最後まで消火にたずさわった人の多くは、逃げ遅れて死亡している。

 戦時中防空壕を掘り、防火用水を備えるように指導されていたが、参道の車道と歩道の間に、欅が植えられている場所に防空壕が多数掘られていた。空襲の翌日、そこが死に場所になっていた人が大勢いた。

 商店街の道路にも逃げ遅れた黒こげの人が二~三人いたが、この中に学童疎開で同じ釜の飯を食べた同期のH君もいた。火災になると強い風が吹く、その風が火を運び人命をうばう。明治通りと表参道は火の川になっていた。運命の分かれ道で、明治神宮に逃げた人は助かっているが、青山方面に逃げた人は気の毒なことをした。

 十二歳の私は戦火の中を母に手を引かれ逃げまどったが、くたびれて行き着いたところは長泉寺の門前であった。その当時の長泉寺は今と違って敷地も広く一帯が小さな森になっていて、安全地帯であった。そこに夜が明けるまで居たが、今考えるとよく助かったもんだと思うし、すべて長泉寺のご加護の御蔭と感謝している。夜が明けると隣の救世軍(現京セラビル)で炊き出しをやっていて白米の塩むすびを貰って食べたが、おいしかったことを覚えている。

 焼け跡に掘立小屋を建て、しばらく住んでいたが、その間米軍機が飛んできてビラをまいた。
 日本兵がトラックに乗り血相を変えてとんできてビラを回収して回っていた。何が書いてあったかよくわからなかったが、日本は負けるから早く降参しろという主旨が書いてあった。


 あとがき

 今も昔も変わらないのは表参道の欅並木である。毎年春になると青い芽が吹き冬になると落葉する。戦災で何本かを残し、焼かれて植え変えられたが、焼け残った欅は参道での全ての事象を知っているけれども教えてはくれない、戦災のあったことはいずれ風化し人の話題にもならなくなる時が来るだろう。その時にこの本の価値が始めて出てくると思っている。

 戦災の後、本土決戦という言葉がもてはやされた。もう少し戦争が続いていたら我々の世代の半分は死んでいただろう。悲惨な戦争は二度と起こしてはならない。

 (渋谷区穏田一丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/2 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 渋谷区穏田
   一、三丁目
   竹下町






 原宿駅 昭和16年頃 穂積和夫氏 画

 明治39年、日本鉄道の駅として開業。
 昭和20年4月と5月の空襲では駅舎は焼失を免れた。
 表参道口の駅舎は大正14年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造の駅舎では最も古い。
 宮廷ホームといわれる乗降場が代々木側にある。








 戦時中の出来事
 佐藤 銀重(さとう ぎんしげ)その1


 小学生時代

 昭和十四年神宮前小学校入学、昭和二十年同国民学校卒業、入学は小学校で卒業は国民学校と変化し、この間上海上陸とか南京陥落とか、ことあるごとに戦意を高揚させるため、表参道で提灯行列を行い隣組(町会の下部組織)を通して動員され参加させられ、戦時色一色であった。印象に残っているのは昭和十八年、小雨降る神宮外苑で開催された、学徒出陣の壮行会を小学校ぐるみで、スタンドから見送ったことである。

 日本は神国だから戦争に絶対負けない、いざというときは神風が吹くから安心しろと、担任の先生は口癖のように言っていた。そうは言っても毎月二日は、学校ぐるみで武運長久を祈って明治神官に参拝に行っていた。そして君達も大人になったら兵隊になって戦争に行って戦うんだと教育を受けていた。従って生ということに執着心は無かった。


 学童疎開

 戦火が進むにつれ、昭和十九年八月、国策で将来の戦闘要員としての学童疎開が始まった。
 疎開は縁故疎開と集団疎開があった。縁故疎開は家族の親戚縁者を頼って疎開する制度で、縁故疎開先が無い場合は集団疎開をすることになる。縁故疎開をした人は、地元の生徒達と一緒に通学し勉強したので、行った先によってはいじめられたという話を聞いたこともある。

 私達の集団疎開は先生・寮母・生徒が一体となってお寺に泊まり、地元の小学校の教室を借りて勉強していたので不自由は無かった。疎開先は静岡県富士郡原田村(現、富士市原田)永明寺で、村長・住職をはじめとした村の方々に大変お世話になった。B29(米軍爆撃機)は空襲の時、グアムから太平洋上を富士山目指して飛来し静岡上空で東京方面と大阪方面に分かれるので、疎開先は飛行機の通り道になっていたので上空では年中空中戦が行われB29墜落を見たこともある。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 思い出の青山
 田中 寿子(たなか としこ)







 青山の空襲で焼け出されてもう六十五年も経ってしまいましたが、忘れられない日となりました。今八十六歳です。私の家は青山六丁目の停留所の角に大きな酒屋(灘屋)があり、その道を入った所でした。レンガの塀で、玄関と庭ポーチが付いていい家でした。父が銀行員で、借りていました。

 昭和二十年の五月、その頃は毎晩のように空襲のサイレンが鳴り、そのたびに震えていました。
 家族は父母、妹二人、弟二人、私の七人で住んでいました。妹たちはよくB29が落とした焼夷弾を消しに行ったのですが、私はこわくて防空壕に入ったり出たりしていました。

 五月二十五日の夜、父は「まだ焼けないから」と言っていましたが、渋谷方面から火の手が上がり危なくなってきたので、五人(弟たちは学童疎開でいませんでした)で手をつなぎ、呼び合って表参道の方へ逃げました。片側は強制疎開のため家が壊されていましたが、火がついて燃えていました。風がすごいし、目も痛く、銀行の傍までやっとでした。着ているものが熱いので防火用水の水を頭から何度もかぶりました。そのうち渋谷方面から馬が墓地を目がけて走って行くのをて、妹が、動物が走って行った道なら大丈夫と言うので、墓地目がけて走りました。墓地の門も火が回っていたので奥へ奥へと逃げのびました。時間は十一時頃だったと思います。

 墓地で夜を明かし、翌日二十六日に走ってきた道を我が家へと戻りました。道路には山積みになった人たちが皆、服は焼かれて蝋人形のようになっていたので、ただ驚いて何も言えませんでした。やっと助かった喜びを感謝しました。亡くなった方々にお悔やみを言いながら家へ着きました。

 我が家は全部焼けて何もありません。庭に、父が大事にしていたクラシックレコードがお皿のように黒こげになっているのを見た時は涙が出て止まりませんでした。隣組のかたを見たらお元気でしたので喜びあいました。そのかたがすぐにお米でご飯を炊いて下さったのでいただきました。

 しばらくして母が大橋方面の叔母の家を思い出してそこまで歩いて行ってみました。叔母の家は焼けないで残っていましたので、一晩畳の上で休みました。翌日は松涛(しょうとう)の母の友達の家までまた歩いて行きました。荷物はリュックにあるだけです。ここは二階家で、四世帯が一緒に過ごしました。この家から母と妹たちは田舎につてがなかったのですが、ただ行って見ました。田舎には食料があると思っても、母の着物を持って行ってじゃが芋やお米に換えてもらいます。私もリュックで買出しに行きました。ここではノミやダニに悩まされました。

 八月十五日の天皇の放送を聞き、やっと戦争が終わり、これで東京へ帰れると喜びました。また松涛の家にしばらく住みました。

 昭和二十三年十一月六日に私は明治神宮で結婚式を挙げました。小田急の祖師谷に住み三人の娘にめぐまれ、元気に過ごしてきました。今は高井戸に家を建て孫八人になり、庭付きで植木、花に囲まれて過ごしています。色々なことがありましたが、これからも戦争をなくすようにして欲しいです。あの時に亡くなられた方々のご冥福を、表参道の銀行に行った時にお祈りしたいと思います。
  
 (赤坂区青山北町六丁目)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 創業一二〇周年の山陽堂書店
 萬納 昭一郎(まんのう しょういちろう)







 リニューアルされた山陽堂書店
 平成23年5月



 表参道と青山通りの交差点にある山陽堂書店は、空襲の時多くの人を店内に避難させ、その命を救いました。オリンピックのための道路拡幅で、建物は三分の一に削られましたが、同じ地で営業を続け、平成二十三年の三月、創業一二〇周年を迎えました。

 その集いのときの萬納昭一郎さんの挨拶の一部を抜粋いたします。昭一郎さんは初代の孫に当たる方で、神奈川県生麦で山陽堂書店を開いておられます。(編者)

 創業者である、萬納孫次郎は明治元年に岡山県で生まれました。
 家業はかつて池田藩の御用商人をしており、「萬納屋善六郎」 を代々名乗っていました。祖父は幼児期に母親と死別し、その後父親は再婚しましたが、その父親も祖父も十五歳の頃他界しました。どのようないきさつからなのか、祖父は単身上京し新聞販売業などに従事し、明治二十四年頃青山で新聞販売と古書店を始めました。その後新刊書を扱うようになり、子・孫・ひ孫があとを継ぎ現在に至っております。

 以上の経過から、名字を「萬納」、屋号を「山陽堂」としたと聞いております。

 私は生まれてから中学二年の夏まで青山で暮らしておりました。(略)

 東京府東京市赤坂区青山北町六丁目十四番地が私の最初の本籍地であり、今の山陽堂がある場所です。物ごころがついた頃は山陽堂は青山通りの筋向かいにあり、今の道路の中程に建っていました。古い感じの古書店だったのではないかと思います。(略)

 山陽堂が今の場所に移転したのには事情がありました。かつて明治神宮の隣に代々木の練兵場があり、毎年、年の始め、陸軍の記念日や四月二十九日の天皇誕生日などに練兵場で観兵式が行われていました。

 天皇が馬車に乗って通って行く道すじに市電のレールがあり、馬車が通るとすべる恐れがあったのか、天皇が往復する際には市電を一時停めて、レールの上に幅三メートル、厚さ十センチ位に砂を敷き詰め、その砂の上を馬車が通っていきました。砂の量や人力などは大変なものであったろうと思います。

 そこで政府は市電の上を通らなくてもすむように新しく道路(行幸(みゆき)道路)を造ることにし、そのため山陽堂をはじめ多くの住宅が強制的に撤去されることになりました。

 祖父萬納孫次郎は移転先として今の場所を選びましたが、この場所には以前豆腐屋があって水を使っていたため井戸がありました。

 山陽堂は鉄筋コンクリート三階建てを造った際、井戸を潰さずに地下室に井戸の口をつけました。この井戸が戦災で青山一帯が火の海になったときに思わぬ威力を発揮したわけです。現在その井戸はありませんが、山陽堂の建物は今でも戦火をくぐりぬけてきた柱と壁が支えてくれています。

 (赤坂区青山北町六丁目)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/30 9:03
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 山陽堂さんに助けられて
 若林 加寿子(わかばやし かずこ)




 空襲のあった頃、私は善光寺さんの裏に住んでいました。
 五月二十五日の晩は具合が悪くて寝ていましたが、母が掻巻(かいまき)(綿入れの夜着)を掛けてくれてすぐ逃げるようにと言い、私は妹と二人で外へ出ました。母は隣組の仕事があるので見回りをしてから逃げるからと言って出て行きました。

 表参道に来たら風がひどく、掻巻があっという間にくるくると飛んで行き、球のように飛ばされ、電柱にぶつかりパッと燃えました。その時の光景が今でも目に浮かび忘れられません。

 山陽堂書店さんの戸をたたいて、何人か入れていただきました。周りを見渡しましたら姉がいましたので喜び、どんどん燃えている外を怖々見ながら、母がどうしているか心配で生きた心地がしませんでした。

 どのくらいの時間が経ったのかわからない時、ごめんなさい、ごめんなさいと二、三人の女性の声が聞こえ、中に入ってきました。その一人の声が母の声に似ているので見ると、母は両手と顔に大火傷をして入ってきました。びっくりしましたが、火傷の手当てをし、三人で母の傍にいました。父は青山墓地に逃げて助かりました。
 
 山陽堂さんには本当に、感謝しています。善光寺さんは実家の菩提寺で時々お参りにいきます。
                              
 (赤坂区青山北町六丁目)
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