続 表参道が燃えた日 (抜粋) 25
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続 表参道が燃えた日 (抜粋) (編集者, 2011/8/14 16:11)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 2 (編集者, 2011/8/15 7:36)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 10 (編集者, 2011/8/23 6:50)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 57 (編集者, 2011/10/11 7:45)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 58 (編集者, 2011/10/12 6:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 59 (編集者, 2011/10/13 6:59)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 60 (編集者, 2011/10/14 6:38)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 61 (編集者, 2011/10/15 7:37)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録 1 (編集者, 2011/10/16 9:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録2 (編集者, 2011/10/17 7:28)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録3 (編集者, 2011/10/18 7:01)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録4 (編集者, 2011/10/19 6:34)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録5 (編集者, 2011/10/20 7:21)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6 (編集者, 2011/10/21 11:32)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7 (編集者, 2011/10/22 7:49)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録8 (編集者, 2011/10/23 7:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録9 (編集者, 2011/10/24 6:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録10 (編集者, 2011/10/25 6:43)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録11 (編集者, 2011/10/26 7:07)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録12 (編集者, 2011/10/27 7:55)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録13 (編集者, 2011/10/28 7:26)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録14 (編集者, 2011/10/29 6:57)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 編集後記 (編集者, 2011/10/30 7:04)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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私の大東亜戦争
松田 豊彦(まつだ とよひこ)
当時、私は大学理工学部建築学科に在学していた。
昭和十八年十月二十一日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が文部省主催で行われた。東候首相の激励の辞のあと、私は三八式歩兵銃を担ぎ、腰に帯剣、ゲートル姿で、泥水をはねあげながら分列行進をした。
理工系の我々はその後もしばらくは通常の授業を続けたが、翌十九年五月からは学徒動員で、陸軍軍需品本廠研究部に配属された。陸軍の種々の物品の調達を行う部署で、建築物も担当していた。後楽園球場の北側、木造のバラック建てだった。グランドには高射砲が数門据えられていた。
出張先の岩手県で発熱、急性腎臓炎とのことで、昭和二十年の正月は駿河台病院で迎える事になってしまった。退院し仕事に復帰直後の三月十日、下町が大空襲に見舞われた。翌朝すぐ羅災地の調査に出掛けたが、手の出しようがない。唯々被害の大きさに驚くばかりだった。一面の焼け野原、累々と横たわる死体、防空壕の中、防火用水のコンクリートの箱の中で丸まっている裸の焼死体…。初めて見る惨状に、日本の行く末を見た思いであった。
四月には小石川の役所が羅災し、急遽山梨に疎開することになり、我々は水道橋駅前の府立工芸学校の校舎で、東京事務所として留守業務を担当した。
五月二十五日の夜、私はちょうど宿直当番であった。机を並べてベッドとし、学生服のまま休んでいると、いつもの様に空襲警報が鳴り響き、しばらくするとB29の爆音と共に、西の空が一面赤くなり始めた。今日はどこが被害を受けたかと思いながら、当直の夜が明けるのを待った。
原宿駅近くの穏田の自宅に帰ろうと思うが、国電は全面不通という。歩くより致し方ない。水道橋、飯田橋、四谷と、現在の東京マラソンのコースを歩く。次第に焼け野原が広がり、三月十日の本所、深川と同じような惨憺たる光景である。薄煙の中から表参道まで見渡せる。所々に薄煙が広がり、焼け跡にチョロチョロと出ている水道。あちこちに転がっている焼死体。穏田のわが家はどうなってしまっただろうかと案じながら、表参道交差点までたどり着いた。明治神宮の燈籠と安田銀行との間に数多くの焼死体が折り重なっていた。表参道の樺並木も燃え、同潤会アパートも外観は保っていたが、中は焼失してしまったようだ。無惨な姿になった竹下通りを急いで、わが家を目指した。
焼野が原の一角に三、四軒だけが焼け残っていた。北隣りの家作(かさく)は全焼、南側の家作二軒と向いの一軒とわが家だけが建っていた。
義兄は家族を福井へ疎開させ、義兄と甥と私の三人が家を守っていたのだが、当夜はたまたま義兄一人だった。わが家に命中した焼夷弾四発を、義兄は孤軍奮闘、すべて消し止めた。女中部屋の畳には穴があき、納戸の和箪笥は直撃弾が貫通し、和服が重なったまま丸いこげ穴を残していた。家の真ん中あたりに落ちた焼夷弾は屋根、床を貫通して土の中に埋まっていた。それが不発弾だったのは幸運だった。しかし、吹き倒されそうな烈しい熱風と戦いながら、隣家からの類焼を防ぐのはさぞ大変だったと想像された。偶然のこととはいえ、義兄をひとりにしたことへの申し訳ない思いでいっぱいだった。
二十六日からしばらくは、ご近所の焼け出された方々の緊急避難所のような役目を果たすことになった。多くは明治神宮の森に逃げ込んだようだった。第一鳥居をくぐって避難したり、線路をまたいで土手を登り、森に逃げ込んだりして、一夜を明かしたとのことだった。原宿駅の駅舎と、駅からの参道沿いの三軒の売店がかろうじて焼け残ったが、あとはすべて焼き尽くされた。わが家の無事を心から感謝した。
同世代の多くの若者がこの戦争で命を落とした。顧みると、私はいくつもの幸運な廻り合わせにより、今日、米寿の目を迎えた。
誕生日が大正十二年十二月。十一月生れの人までが繰上げ徴集で兵役に就いた。また、二十年九月に大学の繰上げ卒業を控え、陸軍技術将校試験を受け、発表待ちで八月十五日の終戦を迎えた。
大学卒業と同時に、三井建設第一期生として就職、昭和二十二、三年には巣鴨プリズンの営繕を担当し、大東亜戦争の戦後処理にも関わったが、その後は建築技師として戦後の復興、発展に参加出来た事は幸甚であった。
今日の表参道のファッションの先端としての繁栄や、若いギャルあこがれの竹下通りの賑わいを、当時の誰が予想しただろうか。
平成二十二年十二月二十一日 満八十八歳の誕生日に
(渋谷区穏田三丁目)