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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 21

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 21

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/3 8:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦時中の出来事
 佐藤 銀重(さとう ぎんしげ)その2


 穏田炎上

 昭和二十年三月一目小雪の降る中、私達六年生は中学校(旧制中学)入学のため帰京した。
 四月から中学校に通いはじめたが、上級生は勤労動員に出かけ学校に来ない日が多かった。三月十日東京下町で大空襲があり、深川方面の空が真っ赤になっているのが、穏田からもよく見えた。
 次は山の手かと、大人の人がつぶやいていた。深川の空襲で焼け出された、二組の人が私達の隣組に転入して来た。空襲の怖さを色々聞かされたが、その時は実感が無かった。四月は時折空襲警報が鳴っていたけれど、軍事教練の合間をぬって勉強もしっかり出来た。そのころから本土決戦という言葉をよく聞くようになり、軍人が隣組に出向き、消火訓練や竹やりの使い方を教えていた。






 穏田は五月二十三日と二十五日の二日間で一帯が焼け野原になった。当日は寝込んだ頃空襲警報で起こされ、ゲートルを巻き、外套を着て、防火頭巾をかぶり待避していた。そのうち照明弾で外が明るくなり「ザアー」という音(大粒の雨が降る時の音と同じ)がして、焼夷弾が一斉に落ちてきた。焼夷弾の一本一本は六角形で縦五十センチ位(次貢図参照)下部に信管がついていて、落下地点で信管に何かが触れると上部の蓋が飛び、中から火のついた油脂が周囲に飛び散り大火災に発展していく。焼夷弾の一本が私の目の前で炸裂したので、今でもその時の状態を鮮明に記憶している。

 運の悪い人は、上空から落ちてくるその一本に当たり(直撃)死亡した人が大勢いる。次に、銀紙を細長く二メートル位に切り、くらげ状にまとめた物体(呼称不明)が、上空からゆらりゆらりと地上に数個舞い降りて来た。これは、敵の電波を妨害する道具だそうで、人体に被害は無いが気味が悪かった。焼夷弾が炸裂した瞬間は、各家の屋根で一斉にローソクを燈したみたいで一瞬椅麗に見えるけど、最後まで消火にたずさわった人の多くは、逃げ遅れて死亡している。

 戦時中防空壕を掘り、防火用水を備えるように指導されていたが、参道の車道と歩道の間に、欅が植えられている場所に防空壕が多数掘られていた。空襲の翌日、そこが死に場所になっていた人が大勢いた。

 商店街の道路にも逃げ遅れた黒こげの人が二~三人いたが、この中に学童疎開で同じ釜の飯を食べた同期のH君もいた。火災になると強い風が吹く、その風が火を運び人命をうばう。明治通りと表参道は火の川になっていた。運命の分かれ道で、明治神宮に逃げた人は助かっているが、青山方面に逃げた人は気の毒なことをした。

 十二歳の私は戦火の中を母に手を引かれ逃げまどったが、くたびれて行き着いたところは長泉寺の門前であった。その当時の長泉寺は今と違って敷地も広く一帯が小さな森になっていて、安全地帯であった。そこに夜が明けるまで居たが、今考えるとよく助かったもんだと思うし、すべて長泉寺のご加護の御蔭と感謝している。夜が明けると隣の救世軍(現京セラビル)で炊き出しをやっていて白米の塩むすびを貰って食べたが、おいしかったことを覚えている。

 焼け跡に掘立小屋を建て、しばらく住んでいたが、その間米軍機が飛んできてビラをまいた。
 日本兵がトラックに乗り血相を変えてとんできてビラを回収して回っていた。何が書いてあったかよくわからなかったが、日本は負けるから早く降参しろという主旨が書いてあった。


 あとがき

 今も昔も変わらないのは表参道の欅並木である。毎年春になると青い芽が吹き冬になると落葉する。戦災で何本かを残し、焼かれて植え変えられたが、焼け残った欅は参道での全ての事象を知っているけれども教えてはくれない、戦災のあったことはいずれ風化し人の話題にもならなくなる時が来るだろう。その時にこの本の価値が始めて出てくると思っている。

 戦災の後、本土決戦という言葉がもてはやされた。もう少し戦争が続いていたら我々の世代の半分は死んでいただろう。悲惨な戦争は二度と起こしてはならない。

 (渋谷区穏田一丁目)

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