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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 26

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 26

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/8 6:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 忘れられない五月二十五日
 岩崎 栄子(いわさき えいこ)


 
 私の家はJR原宿駅竹下口から二、三分、駅前の通りからも竹下通りからも一、二分のところにありました。近くの東郷神社は子供達のよい遊び場でした。戦争が激しくなり、私どもは、父一人を原宿に残し、福島県平市に疎開しましたが、昼間留守になる家を守らなければと、平と東京を行ったり来たりしていました。学校も東京と平の両方に席がありました。

 五月二十五日は家族みんなで東京にいました。B29がすごい数で、すごい速さでやってきたので、私は防空壕に入るのが間に合わないくらいでした。妹二人は家の中に取り残され、父が助けに行き、抱えて外に出た時には家は燃え出し、父は軽いやけどを負ってしまいました。ドブ板の下にはガソリンが川のように流れていました。

 父は警防団員なのでみんなと一緒に逃げられません。父と十六才の兄は近所の人や家を守るために残りました。母は九カ月の大きなお腹で、三才の妹をおんぶし、次男十一才は四才の妹をおんぶしました。八才の私は水を入れたバケツを持って逃げました。

 遠くには行けないので、すぐ近くのお召し列車が使うホーム(現在も残っている宮廷ホーム)の中に逃げ込みました。角ばった焼夷弾がホームの屋根を突き抜き、降るように落ちて来ました。逃げようにも柵がぴったり閉まっていて出口がわかりません。はしからゆすり、ようやく出ることが出来ました。

 安全な場所を探し延命寺のところまできた時、解き放たれた軍隊の馬が何十頭もすごい勢いで逃げて来ました。恐ろしさに壁にはりついて、通り過ぎるのを待ちました。そしてまた線路の所まで戻りました。

 身軽な人は止まっている列車の下をくぐり、明治神宮の石垣を登り神宮の森の中に入って行きました。私達は登ることも出来ないので、ホームとお寺さんの百mくらいの間をうろうろするだけでした。よその家の庭の木の下にかくれて夜が明けるのを待ちました。ふとんが燃えているのも知らず頭からかぶっていましたが、木の下でバケツの水で消してやりました。

 私達は駅で待ち合わせることにしていました。家から五、六十メートルの所にいるとは思わず、誰に聞いても知らない、見ていないといわれながら父と兄は遠くまで捜し歩いたそうです。そして、会えた時の、無口な父の嬉しそうな顔が今でも目に浮かびます。

 焼けてしまった家の縁の下に保存していたお米、味噌、野菜を近所の人と一緒に煮ましたが、イブ臭くて食べられませんでした。
 母のお腹は大きく、いつ陣痛があるか心配なので、その日に、空気の抜けたリヤカーに母と妹二人を乗せ、父と兄が引いて、下の兄と私は後押しをし、上野駅まで歩きました。焼け跡の惨状に何度も目をつぶりました。一生忘れる事の出来ない光景でした。

 どうやって平に着いたか思い出せません。平でも警報が出て、身重な母はのろいので怒られながら避難したりしました。
 六月二十六日、無事に弟が生まれ、皆で喜びました。おむつを持って防空壕に入り、泣き声を気にして口をふさぎ壕の入口に坐ったりしましたが、そのあとは家の中で静かにかくれて、避難はしませんでした。

 もうひとつ忘れられないのが五月二十三日の夜の空襲で、B29が撃墜され、その一部が家のすぐそばに落ちたことです。駅前の通りのところです。機体の下に黒こげの頭が見えて、アメリカ人と思い蹴飛ばす人もいましたが、日本人と分かり手を合わせました。ご近所の息子さんでした。

 B29は三つに分解し、他の一つは明治通り近くに、もうひとつは神宮橋近くの大禮会館の所に落ちたそうです。

 戦争が終わり嬉しかったです。
 この文を書きながら、いろいろ思い出され涙が流れます。七年後神宮前に戻って来ました。

 その後、父は五十二才で、母は八十七才で亡くなりました。兄二人と弟も亡くなり、今、五人はあの夜さまよった延命寺に眠っています。当時の家から五、六分のところです。私も七十三才になりましたが、今住んでいる相模原から妹とふたりで年に五、六回お参りに行っています。

 (渋谷区竹下町)

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