心のふるさと・村松 第三集 11
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編集者
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少通と、忘れ得ぬ思い出
十三期 鈴 木 嶺 志
私は静岡県浜松市にて生を受けましたが、父の転勤に伴い小学校は泰天で中学校は旅順で過ごし中学二年終丁と共に十三期生として入校致しました。
終戦後は家族と全く音信不通となり復員する事も出来ず止むを得ず村松陸軍病院に収容され翌二十一年春まで、唯一人だけ村松の地に留まりました。
それにしても、朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまで私の人生の中で、あの頃程、真剣に且つ体力の続く限りの毎日を送った経験はありません。それが又、戦後の苦しさを堪える事が出来たバックボーンであったのは間違いありません。
特に印象に残る事は亀田小学校への野外訓練の時です。S班長殿の計いで私は先発隊として機材と共にトラックにて出発……。一区隊の面々は行軍となり、その上亀田到着直前に例の“駆け足に前へ″の号令が、かかったとか全員可成りこたえた様子でしたが、最後の気力を振りしぼって、お互いに助け合い乍ら一団となって現れ、その姿を見た私は何故か目頭が熱くなったものです。このままでは特に申し訳ないと思い私は当日の深夜の不寝番を買って出て立哨中、突如運動場の方で異様な掛声……何事かと駆けつけた所、月光に輝くグランドに十数名の女子生徒が裏白な鉢巻きも凛々しく女の先生の指導に従い裂帛の気合の下、薙刀の訓練を受けておりました。その気迫の余りの凄さに暫し茫然としていましたら先生を始め女子生徒全員が私に向かって最敬礼……。“軍務ご苦労様です。私達も頑張りますから、どうぞ祖国を守って下さい”と真剣な眼差しで挨拶され私は、万感胸に迫り只“ハイ”と云って直立不動の姿勢を取り立ちつくすしかありませんでした。忘れられない想い出です。
所で日々の生活にも漸く馴れて来た頃、三種混合の予防注射を全員医務室で受けましたが、私は完全発熱。練兵休を三日ばかり許されましたが、熱がどうして下がらず、それ以来体調をスッカリくずしてしまい楽しみにしていた遊泳演習の直前、入院を余儀なくされ従って終戦の詔書は病院で聞きました。
これから我々はどうなるんだろうと、一時病室が騒然となった時もありましたか、各自復員と云う報せが入り続々と病院を去って行き、結局私一人がポッンと取り残されてしまったわけです。そんな時、韓国出身の生徒十数名が帰国を待つ為、一時集結した事があり私も是非このグループに参加させて欲しいとW病院長に申し出たのですが〝お前は日本人でもあるし混乱している大陸へ戻るのは無謀だ、家族は必ず日本に還っで来るから”と諭され止むを得ず諦めましたが、あの時の孤独感と悲しさ無念さは生涯忘れる事が出来ません。
その中、幸運な事に名古屋の師団司令部にいた従兄弟が復員業務に従事しており、たまたま私の名前を見つけ出し、戦災で家は焼けてしまいバラック住いだが、とにかく大阪に戻り、中学に復学する様にと勧められ意を決して村松を後にしたのは終戦翌年の三月でした。そして大阪での一年を経て、翌二十二年三月、旅順を追われ大連から浜松へ全財産を失い乞食同然の姿で引揚げて来た家族と漸く再会を果す事が出来ましたが、結局、父はシベリヤ抑留の上、戦病死、祖父、祖母、姉、妹の五人を失ってしまった我が家でしたが、母を中心に姉、弟、妹と共に苦難の道を辿る出発点となったわけです。
それにしても多くの人々に助けられて、なんとか人並みの生活が出来る様になった私は幸せ者だったと痛感しておるこの頃です。