心のふるさと・村松 第三集 13
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編集者
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(二)、初めて見るアメリカ人
蒲原鉄道会社の事務所に私が初出勤したのは、一九四五年の九月二十六日、よく晴れた暑い日の朝だった。
さて、私たちの雇用主である蒲原鉄道会社は小さな私鉄で、新潟の中蒲原郡の五泉から終点の加茂まで田畑の間を縫って一時間に二本の電車を走らせていた。
始発駅から終点まで約一時間、乗客のほとんどはお百姓かそのおかみさん、村松の学校に通う中学生たちといった風で、その人たちのしゃべっている言葉は、疎開者の私にはなかなか聞きとれなかった。車窓から眺める景色は、ことにこの秋の頃は、美しかった。冬は雪に閉ざされるこの地方も秋は晴れた日が続いて、黄金色に続く稲田の彼方には青い山々が峰を連ねて、人びとを晴ればれとした気持にさせた。
この会社の本社事務所は村松駅の二階にあった。駅舎に入るとすぐ右手に二階へ通じる階段がドアにかくされてあり、階段を上ると右手の二部屋が社長と専務理事の個室で、左手の大きな部屋には数人の男女職員が机を並べていた。社長は村松町長でもある町田氏で、見たところ、四十七、八歳、背も高くなかなかハンサムであった。社長の町田氏が町長としての職務にほぼかかりきりなので、鉄道の方のことはほとんど専務の久野氏が一手に引き受けている様子だった。
歴史始まって以来初めてこの町に来るアメリカ兵たちが乗った列車は、午後一時五泉駅到着のはずだということで、改孔口前のちょっとした広場には人びとがいっぱい集っていた。町の男や女たち、それに少年少女たちも大勢いた。プラットホームには町のお偉方が並んでいた。町長、警察署長、駅長、それに町の有力者ら数人であったが、彼らが緊張の極にあることは一目瞭然であった。久野氏は派手な青い格子縞の背広をきて、絶えず落ち着かない様子でネクタイに手をやっていた。私も平静であったとはいえない。集った群衆の好奇の目が私たちに集中しているのが感じられたし、第一、四年間のブランクの後で英語がすらすら出て来るかどうか心許なかった。
息づまるような数分の沈黙ののち汽車が姿を現した。真黒い煙を吐きながら次第に近付いてくる。
一〇〇メートル、五〇メートル、十メートル、五メートル……。
機関車が目の前を通り過ぎた、と思ったとたん、ガタンと音を立てて私たちの真前に一台の貨車が止り、その開け放した戸口から、カーキ色の略装を着た金髪の、青い眼をした三人の若者がつぎつぎに跳び出して来た。
私は彼らに話しかけた。「ハウ・ドゥ・ユウ・ドゥ…あなた方のお名前と階級と年と司令官の名を知りたいのですが…」
鸞きと喜びの混った表情で、三人の若者たちは同時にしゃべり始めた。「ぼくたちは…」
三人の中で一番年上に見える一人が言葉を続けた。
「ぼくはチャールズ・ジョンソン。伍長で二十五歳。こちらはリチャード・グレイ、十九歳とアラン・ハワード、十八歳です。二人とも二等兵です」
「指揮官の名前は?」
「フロスト中佐」
「でも、ここには見えていませんね」
「いません。三条の町で 見失ってしまった」
と言いながら三人はクツクツ笑った。何か謎めいたことがあるらしい。
グレイ二等兵は私にチューインガムを差し出した。
「ここはムラマツですか」
「いいえ、村松は次の駅です。ここは五泉で、ここで私鉄に乗換えるのです」
ジョンソン、グレイと私たちが話をしている間に、一番若いハワード二等兵は、腕を上に伸ばしたり、横に伸ばしたりしながらプラットホームを行ったり来たりし始めた。それは全く自然で自由な動作であった。三人とも、百人を越える群衆の好奇な目にさらされているというような意識は全くなく、つい一月前まで敵国民であった日本人にとり囲まれているという不安や怖れは露ほどもなかった。憎しみも、軽蔑も、彼らの表情には少しもあらわれていなかった。三人のアメリカ兵たちは、まるで故国にいるように落ち着きはらって、思いのままにふるまっているのだった。
その時、突然、一人の男、日本人が貨車の奥の方から姿をあらわした。その中年男は、皺だらけのシャツを着て、汚れた下駄をはいていた.口をモグモグさせながら、手には食べかけのクッキーを持って……。それを見た私は急に恥ずかしく不愉快になった。私は彼の姿に敗戦国民を見たのだった。聞けば横浜から同行してきた通訳ということだった。これから、もしかしたら、こういうような男が巾をきかすのかもしれない。英語が少しばかりしゃべれて、日本人であることに全く誇りを持たない男たちが………。私は悲しくなった。私たちは間違った方向に導かれ、いま敗戦という未曾有の事態に直面している。しかし私は、同胞である日本人への信頼感と将来への希望は持ち続けていたのだった。
それと同時に私は、私たちが物を食べながら街を歩くアメリカ人を見ても別に何とも思わないのに、日本人が、男でも女でも大人が、口を動かしながら街を歩いているのを見ると、とたんに軽蔑の念が生じてくるのは一体どういうわけだろうとふしぎに思った。どうしてなんだろう。それに馴れていないからかもしれない。しかしこの疑問はいまだに解けないでいる。
そうこうしている間に、この貨物列車は国鉄の線路から私鉄である蒲原鉄道の線路に移動させられていた。そして私たち一同はゾロゾロと、村松行きの二輌連結のディーゼルカーに乗り込んだ。