心のふるさと・村松 第三集 12
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編集者
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(付録)
終戦直後の村松 (米軍の進駐と町民たち)
女性通訳が綴る当時の村松
終戦直後の昭和二十年九月、村松少通校の武装解除を目的に米軍の一個連隊が進駐してきました。其処で当時の町民がこれを如何受け止めたか、これは私共としても極めて関心のあったところですが、偶々、福岡在住の元十二期生・柿野哲之助氏から、これらの状況を記した後藤優女史の著書「新潟県中蒲原郡村松町 昭和二十年、秋」を送って頂きましたので、その一部を再録してみました。
(一)、悪い知らせ
村松の町は新潟県のほぼ中央に位置した静かな町で、昔は城下町であったため、人びとの気風もおだやかで住みよい所であったが、戦争の激化とともに都市からの疎開者で人口も増加し、以前は数千であったのが当時は一万を超えるかなり大きな町となっていた。しかし町の大通りといえば、駅前を横に走る一本きり、端から端まで歩いても二十分とはかからなかった。
この静かな町の人びとにとっては東京は遠い所であった。まして外国などは想像もつかず、アメリカ人がどんな顔をして、どんな様子であるか考えてみたこともなかった。ある日、近所の親しくなったお婆さんが、二歳の健の絵本に西洋人が描かれているのを見て「へえー、西洋人って、本当にこんな青い眼をして高い鼻をしているんですかねえ!」と感嘆ひとしきり、子供がその絵本をとり返すまで、しげしげと見入っていたことがあった。こういう素朴な人びとであったから、九月に入ってしばらくして、この町に進駐軍が入って来るという発表があった時に、町中が右往左往、パニック状態におち入ったこともうなづけよう。この町のはずれに陸軍の通信学校があって、その施設を米軍が利用するということであった。
町の隣組ではそれぞれ緊急集会が開かれ、不安な面持ちで集った人びとは、何年ぶりかで黒布の蔽いをはずされて眩しいほど明るい電灯の下で、隣組長の読み上げる次のような通達に真剣な表情で耳を傾けたのである。
(一) 進駐軍が入って来る日は、通りの店はすべて表戸を閉ざさなければならない。外出は控えて、米兵を挑発しないように、窓や戸の隙間から覗き見することは厳禁である。
(二) 夜の間は戸外の電灯を明るく灯し、厳重に戸締りをして、明かりを暗くした室内で静かにしていること。
(三) 貴重な物品は、町から遠く離れた安全な場所に預けること。
(四)一人で家にいる時にもし米兵が入って来たりしたら、バケツでも金だらいでも、何でも大きな音のする物を叩いて隣近所に知らせ、できるだけ大勢の人に集まってもらうこと。
(五) もしも襲われたら、ボタンでも何でも、あとから証拠になるような物をもぎ取るようにすること。
(六) 米兵を怒らせないように。子供たちにはおとなしく行儀よくするように言いきかせておくこと。
(七) 女は全員もんぺを常用すること。裸足を見せないよう足袋もちゃんと履いて、米兵らが近くにいる時は、赤ん坊に乳を飲ませないよう気をつけること。
それは九月ももう半ばに近い頃であった.何となく不安な、落ちつかない空気のところへ、最近東京へ行ってきたという町の者たちが、さまざまな噂を持って帰ってきた。東京では若い娘たちはみんな、米兵に強姦されるのを恐れて、山の方に避難させられているというのだ。まさか、と私は一言のもとにそれを打ち消したのだったが、あとで聞いたところでは、男性がいないで三人の娘を抱えた主人の叔母の一家は、娘の一人が海軍省に勤めていたおかげて、海軍のトラックで山村に難をさけたということだった(そして一週間ほど経て大丈夫らしいということで帰ってみると、大きな家財道具がごっそり空巣にやられていた、ということだった)。
村松へ来る米軍部隊はニューヨーク師団に属する連隊で軍紀の厳しいことで有名だ、などと人びとを安心させることに努めた結果、一座もようやく愁眉を開き、終りには 「もし接吻なんかされそうになったら、身を守るのに一番よい方法は、あの突き出た鼻に噛みついてやることだね」「何を抜かす、誰がお前のような婆さんに目をつけるかよ」などという冗談の応酬で散会となった。
町や村の人びとの心配をよそに町の当局者たちは、米軍の駐留を迎える準備に忙殺されていた。村松に来るのは連隊本部と第一、第二大隊で、総数は約一万五千名という話であった。(実際は二千名であった)。少年通信学校の校舎は宿舎用に改修され、警察署の建物も増築され、町の通りにはそこここに新しい街燈が設置されて町の人びとを安心させた。これなら米兵も夜、暗い中で悪いことはできないだろう。