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心のふるさと・村松 第三集 10

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通常 心のふるさと・村松 第三集 10

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/11 6:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ところで、後述しますように、現在村松碑には八百十二柱の御霊が合祀されていますが、でも、これは戦没された方々でも、平成十三年の段階で、氏名、所属、戦没した年月日、地点等が確認出来た方に限られており、甚だ不本意ですが、今となってはこれを確かめる途は総て閉ざされているというのが実情です。
 この点、東京校の尾崎健一氏は、その「少年兵の戦争体験」の中で、「奇跡的に日本の土を踏むことが出来た生還者は自分を含めて十八名程で、他に台湾で下船して勤務した数名がいる」と記していますが、それでは村松校の場合は如何であったのか、繰上げ卒業し出陣した三百十五名のうち、秋津丸と摩耶山丸で遭難した者が百十六名であることは先刻明らかになっていますが、残りの百九十九名の消息はその後如何なっているのか等々。これについて、佐藤嘉道氏は、先般来、長期に亘って東京校の分も含め精力的.に関係者への照会を繰り返してきましたが、今回漸くその全容が明らかになったので次に記載します。


三百十五名の敢闘と生還者数

            十二期  佐藤 裏道

 私は本誌の前号に「村松少通校十一期繰上げ卒業生について」と題して、「繰上げ卒業生は三百四十七名だったが、特殊情報要員として陸軍中野学校に派遣された者を除き、実際に南方戦線に向かった者は三百十五名であった」と前置きして、門司港から出航した直後、輸送船(秋津丸及び摩耶山丸)上で遭難した者と、神州丸に乗船していて辛うじてルソン島に辿り着いた者の戦闘の経緯を明らかにすると共に、この結果、生きて再び祖国の土を踏めた者が四十一名であったと報告しました。

 しかし、生還者の数については、その時点で十名の不明者が含まれていて、私としてはこの事が気懸りで更に調査の網を広げでおりましたところ、昨年十一月に至ってふとした関係で「ルソン島生還者名簿」なるものを入手することが出来、六名の方の生還を確認することに成功しました。
 これでも、なお、四名の方の消息が不明ですが、現時点では、これ以上の調査は殆ど不可能のように思われますので、繰上げ卒業生三百十五名を、中隊ごとに、地域別に分け戦没者と生還者を表にしたものが下表で、これによりますと、三百十五名中、戦没者二百六十四名、生還者四十七名、未確認四名となります。

 ただ、比処でご留意頂きたいのは、この表では生還者を、「生還者」と「復員者」に区別している事で、これはルソン島や沖縄本島では熾烈な戦闘が行われましたが、沖縄の宮古島と台湾では敵機による空襲等はありましたものの、格別な戦闘行為に晒されることはなかった事を示しています。
 従って、言い換えれば、繰上げ卒業していった三百十五名中、戦って戦死し、再び祖国の土を踏めた者は(「復員者」十三名を除いた)三十四名に過ぎなかった(生還率十一%)とも言える訳で、輸送船上での遭難はもとよりルソン島や沖縄本島での戦闘が如何に苛酷なものであったかが窺える結果になっています。


村松校繰上げ卒業生中隊別一覧表

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