大正の部屋  ー温故知新ー 

大正・昭和初期の実体験を 話す・語り合う・聞く・訊く
その時代の伝聞(親・親戚・知人より)を披露し合う
主役は上記時代お生まれの世代ですが、参加は老若広く
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  • [No.581] 滑り込みで「大正生まれ」に間に合った方々 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/04/23(Wed) 20:02
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     大正15年12年25日にお生まれになった方々です。

     「スーダラ節」で一世を風靡した、植木 等さんも、そのお一人でした。

     彼は「父が出生届を出すように頼んでおいた人が、出生届を出したのは二年後だった」といっていたそうですがーーーこれは下記によるものです。

     ・大正15年12年25日、大正天皇が崩御されました。
     ・翌日、26日には、昭和元年がスタートしました。昭和元年は31日までです。
     ・元旦からは、昭和2年。
     というカラクリによるものです。

     それはそうとして、昭和元年の生まれた方は非常に少ない、同様、昭和64年生まれの方も少ないのですね。


     

     


    [No.580] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:Pan  投稿日:2008/04/23(Wed) 00:40
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     唐辛子 紋次郎さん、みなさん、こんばんは。

     すっかり忘れていた三十八式を聞いて色々と当時を思い出しました。
     
     旧制中学に入った時、何かの班(今で言うクラブ)に入ることが義務づけられました。
     
     入学試験の時、プライマリー(初級)グライダーのあることを見付けていたので、一番に希望しましたが、グライダーのできる先生が招集されて不在だったので、第二候補の射撃班に入りました。
     部員は上級生も含めて5人程で、1年生は私だけだったようです。 剣道や柔道へ入った人が圧倒的に多かったですね。

     窓に鉄柵の入った銃器庫には黒光りした本当の銃が合計40丁程置かれていました。 何種類かの機種がありましたが、三八式の歩兵銃の名前はその時始めて覚えました。

     最初の日には、いきなりその三十八銃の分解組み立てを習いました。  分解は教えられた通りに簡単にできましたが、組み立てはどうしても組み込めない部品があって、手こずりました。
     しかし、何回か繰り返し練習する内に確実にできるようになりました。

     何故か菊の御紋は削り取ってありました。 今思うと、もう実用にならない不良品だったのかも知れませんね。 

     その銃も数ヶ月後には全部徴用されました。 従って実際に触ったのは三回ほどだったと思います。 最後の時に、教練の教官が一発だけ私達の前で撃って見せました。

     標的を設置した射撃場もありましたが、私達生徒は、実弾も撃ったことが一度もありません。 砂袋の上に銃を置いて照準の訓練はしました。

     教練の時間は全員木銃でしたから、同期入学生の中で本当の銃の分解組み立て経験のあるのは私だけでした。
     
     入学した年の五月には、いきなり60数キロの行軍があり、最上級生だけは本当の銃を持って参加しました。  数の足りない分は交代していたようです。
     普通なら叱られる斜めに担いだ形で歩いていましたね。

         ***** Pan *****


    [No.579] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:   投稿日:2008/04/22(Tue) 16:53
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    唐辛子紋次郎さん、みなさん、

     私が中学生だった頃(昭和7〜12年3月)には、体操とは別に「教練」という時間がありました。実際に銃を手にしたのは3年生からだったかも知れませんが。教練の時間になると、先ずゲートルを巻いて、中学の武器倉へ行き、三八銃を持って集合しました。そして配属将校に指揮で授業が始まりました。こういう状態は、確か高校時代も大学時代も続いたと思います。

     銃の実際の射撃訓練は、実弾射撃は金がかかりすぎるので、主に狭窄射撃でした。これは弾薬の量を少なくし、弾も空気銃の弾ぐらいで射撃距離も20m位。これで的に命中させれば実弾で数百m先の的に命中させたのと同じということでした。

     銃を担いでの長距離行軍、また夜間訓練を兼ねた演習など、みな三八銃に関連する思い出です。

     三八銃は5発弾を装填し、一々ボルトを操作して1発づつ発射します。命中率は良いかも知れませんが、良く映画で見るような米軍の自動小銃には適いません。ノモンハン事件(昭和15年)の際のソ連軍も自動小銃を使ったのではないかと思いますが、38銃は逐次旧式兵器となりつつありました。尤も日本が自動小銃を採用したとしても、とても弾丸の補給能力が無かったでしょうが。


    [No.578] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:   投稿日:2008/04/22(Tue) 06:59
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    紋次郎さん カッコウさん

    御蔭様で懐かしい時代を想い出しました。更に
    >http://taka25th.cathand.com/newpage224.htm
    で久し振り三八銃さまに御眼に掛かる事も。

    御経験の様にあれの掃除は実に大変な作業です。

    変な御話ですが学生時代に演習で数十発撃った
    のに従軍中には一発しか撃って居ないのです。

    暗号班だったので大同近辺の討伐行には四度も
    参加し一回半月程の山野行は楽しいハイクでした。

    状況は何れ又の機会に。
                          変蝠林(1917-)   
     

     

     
     

     


    [No.577] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:   投稿日:2008/04/21(Mon) 23:09
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        カッコウさん、こんばんは。初めまして。

    > 中学(勿論旧制です、今で言えば高校の1・2年生でしょうか)の時、軍事教練で
    > かついで草原を走り、長距離行軍をしました。おっしゃるとおり、性能はなかなか
    > 良く、演習で実弾を撃ちましたが、かなりいい点数を取った記憶があります。三八
    > 式とは明治38年式ということです。

     的中率と云うのか、演習でいい点を取られたとは、なかなかの腕前ですね。銃と云うのは担いだことはありませんが、相当重いものでしょうね。草原を走るとなると結構体力が要りますね。

    > 驚いたのは一丁のドライバもなく素手で完全に分解組み立てが可能であったことで
    > す。もっとも今の銃はみなそうなっているそうですが。欠点は当時機械工作の精度
    > が悪く、組み立ては1挺毎にすりあわせで作られていたことです。従って他の銃の
    > 同じ形の部品をもってきても合いません。

     では部品を一個でも無くしたら、完全にお手上げですね。
    >
    > 当時日中戦争で徐州会戦というのがありました。これは歌にもなったし、日本は勝
    > った勝ったと宣伝しましたが、実際は大敗で日本軍は銃を捨て算を乱して壊走しま
    > した。追ってきた中国軍は拾った三八式歩兵銃をバラバラにしてゴチャゴチャに捨
    > てたそうです。そうすれば銃は二度と使えないことがわかっていたのです。これは
    > 戦地帰りの配属将校から聞いた話ですから本当でしょう。この将校も硫黄島で戦死
    > しました。

     日本軍が敗走の際には、大量の武器弾薬を置き去りにしたはずですが。彼らがそれを使った形跡はないのですか?もったいないような気が…。

    > 私は大きい方だったので軽機関銃も持たされましたが、これは重くて大変でした。

     重機関銃と云うのは、たしか4人で運んでいたような気がしますが、軽機はひとりですか、そりゃあ大変ですねぇ。 99式とかいうやつですか?あっしらの学校には銃はなく、家から竹槍を持ってきて教練をやりました。村外れの山ろくで配属将校の指導で、「傘型展開」だの「匍匐前進」などをやった記憶があります。 

    >                                  


    [No.576] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:   投稿日:2008/04/21(Mon) 22:51
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    日吉丸 さん、初めまして。威勢のいいのは、実は名前だけでして…。紋次郎などとはおこがましいといわれそう。
    (-_-;)

    >  命中率は確かに高かったですね、軍隊での実弾射撃訓練は300メ−トル先が標的、
    >
    > 愚生、甲種予科飛行練習生当時の実弾射撃訓練は臥射ちで100メ−トル先が標的でした、

     あの、勇猛果敢な「予科練」のご出身ですか。(@_@;)

    > 暗夜に霜が降る如く、「弾きがね」を引く要領でした。勿論旧制中学にはありました。
    >
    > 配属将校が配置され、学年の教科には教練科目がありました。部活に射撃部あり。
    > 太平洋戦争の頃、銃身付近に二股の支えがあり軽量なゼロ式小銃が、少数ですが
    > 配置されました。

     実際にその銃を手に射撃を体験された方の証言は、なかなか迫力がありますね。(@_@;)

     
                                


    [No.575] 大正人がまた又ふたり 投稿者:   投稿日:2008/04/21(Mon) 21:35
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    ひとりは、ファッション界の大立者、小篠綾子さん(大正2年生まれ)。たまたま、あっしの持っているバッグが長女のHiroko Koshino、だったのでよけい取り上げる気になった。三人の娘が、すべて世界的なデザイナーとして独立し活躍しているなど、素晴らしいファミリーだ。そのグレートマザーぶりは、94年のテレビドラマでも仔細に紹介されている。

     つぎは変わって男の大正人だ。ところで、あの斉藤一家と云うのも独特だと思う。父親の茂吉も変わっているけど、息子の北杜夫だってすごく変てこなひと。そのまた兄貴の茂太さん(大正5年生まれ)だって、普通じゃあない。精神科医は表向きの看板だけど、あっしが感心するのは、趣味道楽の世界だ。飛行機会社の旅行かばんのコレクションなどというかなりお宅の分野で、なんと世界ランキング入りしていること。(@_@;)

     かれの著書のタイトルだって面白い。「不完璧主義」だの「快老生活の心得」「モタさんの快老物語」など、ついつい手に取りたくなるようなタイトルだ。人柄が本のタイトルにもばっちり表れている。

     それから、今はどこの代理店に行っても、大型船によるクルーズばやりだが、今から17年も前の1991年に、本格的なクルーズ本を出すなど完全に時代を先取りしている。しかもこの共著者が凄い。あの人気キャラ、アンクルトリスを創作した壽屋の柳原良平なのだ。ちょっと持ち上げすぎの批判もあるかもしれないが、モタさんという愛称もあっしには好感が持てる。(^_-)-☆


    [No.574] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:カッコウ  投稿日:2008/04/21(Mon) 21:35
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    紋次郎さん。三八式歩兵銃と聞いて這い出してきました。カッコウです。

    中学(勿論旧制です、今で言えば高校の1・2年生でしょうか)の時、軍事教練で
    かついで草原を走り、長距離行軍をしました。おっしゃるとおり、性能はなかなか
    良く、演習で実弾を撃ちましたが、かなりいい点数を取った記憶があります。三八
    式とは明治38年式ということです。

    驚いたのは一丁のドライバもなく素手で完全に分解組み立てが可能であったことで
    す。もっとも今の銃はみなそうなっているそうですが。欠点は当時機械工作の精度
    が悪く、組み立ては1挺毎にすりあわせで作られていたことです。従って他の銃の
    同じ形の部品をもってきても合いません。

    当時日中戦争で徐州会戦というのがありました。これは歌にもなったし、日本は勝
    った勝ったと宣伝しましたが、実際は大敗で日本軍は銃を捨て算を乱して壊走しま
    した。追ってきた中国軍は拾った三八式歩兵銃をバラバラにしてゴチャゴチャに捨
    てたそうです。そうすれば銃は二度と使えないことがわかっていたのです。これは
    戦地帰りの配属将校から聞いた話ですから本当でしょう。この将校も硫黄島で戦死
    しました。

    私は大きい方だったので軽機関銃も持たされましたが、これは重くて大変でした。

                                     カッコウ


    [No.573] Re: 三八式歩兵銃 投稿者:日吉丸  投稿日:2008/04/21(Mon) 21:11
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    唐辛子 紋次郎さん、 初めまして<m(__)m> 縞の合羽の・・・連想

    ホォ−ラムで、ご高名拝聴してました。

    >あるサイトによると、非常に命中率が高かったので、いつまでも寿命を保ったらしい。(ある証言では、100M先にあるA4大の紙に向かって10発撃って、10発とも命中したと)。また、戦争中は、どこの中学にも置いてあったらしい。
    > あっしが上級生の訓練で見たのもそれだったのかも知れない。

     命中率は確かに高かったですね、軍隊での実弾射撃訓練は300メ−トル先が標的、

    愚生、甲種予科飛行練習生当時の実弾射撃訓練は臥射ちで100メ−トル先が標的でした、

    暗夜に霜が降る如く、「弾きがね」を引く要領でした。勿論旧制中学にはありました。

    配属将校が配置され、学年の教科には教練科目がありました。部活に射撃部あり。

    太平洋戦争の頃、銃身付近に二股の支えがあり軽量なゼロ式小銃が、少数ですが

    配置されました。

                                日吉丸


    [No.572] 三八式歩兵銃 投稿者:   投稿日:2008/04/21(Mon) 15:11
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     あっしは当時、まだ多少若かったので、実際の銃で教練をやったことはないが、兄貴ら大正生まれはきっと手にしたと思う。それで名を聞いたことがあるのだが、かなりの名機で、明治生まれのクセに、太平洋戦争中もずっと使われ、現在でも、北欧のメーカーがマニア向けに作っていると聞く。

     あるサイトによると、非常に命中率が高かったので、いつまでも寿命を保ったらしい。(ある証言では、100M先にあるA4大の紙に向かって10発撃って、10発とも命中したと)。また、戦争中は、どこの中学にも置いてあったらしい。
    あっしが上級生の訓練で見たのもそれだったのかも知れない。


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