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[No.998]
Re: 昭和生まれの立場から
投稿者:
投稿日:2009/04/30(Thu) 23:23
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善兵衛さん
> 昭和生まれの俺たちには過去を懐かしむ喜びはない。
御同情申し上げます。 然し、昭和はホントに長すぎた。
変蝠林(1917-)
[No.997]
昭和生まれの立場から
投稿者:善兵衛
投稿日:2009/04/30(Thu) 18:46
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俺たちが現役のころ先輩OBが職場にぶらりと懐かしがって訪れることがあった。
古い先輩であれば面識のない方のときもある。それでも椅子を進めて茶の一杯もたてて
手の空いている者があれば昔話をお聞きする。みんなが忙しければ『長』が聞き手を勉める。
お帰りには門までお見送りした。明治、大正生まれは幸せだった。
俺たち昭和生まれがたまたま昔働いた職場の前を通って懐かしさの余り近付いても、
敷居が高いと言うか声をかけられる雰囲気はない。
いつまでも眺めて居ると後ろにパトカーがそっと近寄って、いきなり前に割り込む。
警官が2〜3人降りてきて前後から、言葉やんわり、けれども不審尋問に変りはない。
昭和生まれの俺たちには過去を懐かしむ喜びはない。
[No.995]
Re: 戦前の「黒いマスク」
投稿者:マーチャン
投稿日:2009/04/28(Tue) 18:21
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変蝠林さん
> 当時から読みの早い商人が存在して居たのですね。
スペイン風邪のときに、必要上はやりだしたのではないでしょうか。
> 最近のマスクは何種類か御存知ですか。当時は着物以外は白と黒だけでした。
いまは、花粉症向け、インフルエンザ向けに大別されているようです。
[No.994]
Re: 想い出話
投稿者:
投稿日:2009/04/28(Tue) 13:09
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satyan768 さん・・・
> 私はマレー半島西方の山中で敗戦を知り、南下してジョホール州のクルアンで検問を受け、無蓋貨車でシンガポールに着き、倉庫の軒下で一夜を明かし、赤道直下の無人島
> 「レンパン島」にて10か月の抑留生活を経験しました。
運命いろいろですねぇ。
私の場合:
暴露侵攻にて上海近郊の大倉鎮で非常呼集駆足で昆山駅迄。
待機の貨物車にて南京駅で昼の飯上げ。陛下の御言葉有り
と聞いたが、揚子江を渡り更に北上。途中八路の襲撃数回。
為に、前車は山海関を越えたのに我が列車は天津駅で下車。
敗戦後、蒋 介石の懇請であの年末まで天津警備の完全軍装。
全廠完備の天津のこと、山の如き糧秣廠から米砂糖菓子煙草
が連日山の如く配給、吸いきれぬ煙草が垣根越しに高粱酒に
化け、酒と煙草は今でも免疫になって仕舞いました。
唯、LST乗船の日、中村姓の兵が呼び止められて朝鮮人の
取調べ官が机上に靴の侭、ウイスキーを呷りながらの取調べ。
直立不動の姿勢十数分の間は生死の分れ目、緊張しました。
釈放されて漸くLSTの船底に数日、長崎南風崎に上陸し
全身真っ白けで山越え、三日後に大枚300円を頂戴して
帰還列車に乗車、窓越しに買った蜜柑が一個十円也に吃驚。
静岡駅に下車したら家族全員が出迎えて居るのに判らぬ様。
拾壱貫九百の半病人が拾六貫で現れ様とは無理も無き次第。
当時帰還兵は殆ど解雇の住宅事情、偶々静岡支店開設の折。
直ちに静岡店勤務の辞令が定年迄楽々勤務の僥倖に繋がる。
誰に感謝すべきか?
変蝠林(1917-)
[No.993]
Re: 想い出話
投稿者:
投稿日:2009/04/28(Tue) 11:08
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BUPさん・・・今朝は異常な寒さで、春の遅い信州でも桜は殆ど葉桜に成って仕舞いました。話は又々終戦後の事ですがBUPさんは 検問や抑留生活はしませんでしたか? 私は
マレー半島西方の山中で敗戦を知り、南下してジョホール州のクルアンで検問を受け、無蓋貨車でシンガポールに着き、倉庫の軒下で一夜を明かし、赤道直下の無人島
「レンパン島」にて10か月の抑留生活を経験しました。
然し今になって考えてみると飢餓と病気に苛まれながらジャングルの開拓をした事が
現在何事にも耐え抜く「不撓不屈の精神力」をもって此処まで生き延びて来られたと思うのですが・・・ご健康を心から祈念致します。
[No.992]
Re: 戦前の「黒いマスク」
投稿者:
投稿日:2009/04/28(Tue) 08:34
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> ところで、戦前も、よくマスクをしている人を見かけました。
> 黒くて先がとんがっていて、どう見てもあまり格好がよくなかったように記憶しています。
> インバネスを着た老紳士などがつけているのを、ときどき見かけました。
当時から読みの早い商人が存在して居たのですね。
最近のマスクは何種類か御存知ですか。当時は着物以外は白と黒だけでした。
[No.991]
戦前の「黒いマスク」
投稿者:マーチャン
投稿日:2009/04/28(Tue) 08:07
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いま、豚インフルエンザで大変ですね。
もちろん、私はスペイン風邪を経験していませんが
あれも、パンデミックであったといわれていますね。
ところで、戦前も、よくマスクをしている人を見かけました。
黒くて先がとんがっていて、どう見てもあまり格好がよくなかったように記憶しています。
インバネスを着た老紳士などがつけているのを、ときどき見かけました。
若い女性がつけているのは見かけたことがありませんでした。
[No.990]
Re: 大正人何処?
投稿者:
投稿日:2009/04/27(Mon) 11:24
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変蝠林さん
何時も激励のお言葉、有り難うございます。これに応えて何か書き込まねばと思いながら、ちっとも実行できず、申し訳ありません。
私の思い出と言えば、昭和12年以後は書き始めた日記により、そしてそれ以前は当時の写真などによるものです。
私は大正9年、草津温泉の旅館の生まれですが、実はその頃の思い出話は1996年、
夏子さんがシスオペの頃書き込んだ覚えがあります。これと重複してはいけないと思い,中々書けませんでした。
また、昭和12年以降のことは何人かの恋人に対する話が多く、恥をさらすに忍びず、これも書くのはどうかと思っていました。
生を受けて89年、省みると懐かしいことも一杯ありますが、他方あの時はこんな事をして悪かったと後悔することが更に一杯です。ドウすべきか、もう少し考えてみます。
[No.989]
大正人何処?
投稿者:
投稿日:2009/04/26(Sun) 06:05
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大正生まれの諸兄姉よ。
折角大正人の部屋を造って戴いたのに此の此の閑散は何故。
先の大戦は我等の責任に非ず。
昭和の子供の父母達よ。
最後を飾る意味で大いに声を挙げようではないか!!
変蝠林(1917-)
[No.988]
Re: 想い出話
投稿者:
投稿日:2009/04/23(Thu) 23:23
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satyan768 さん
> 私がモンゴルを訪れたとき、モンゴルの娘さんたちは民族衣装で大勢がバスの駐車 場に集まり歓迎の儀式をしてくれました。乾杯の酒を強いられたのは苦痛でしたが、
一般家庭を訪問しても親切な対応で楽しかった2日間は忘れられません。
>(5年はど前のことです)
私が厚和豪特を再訪したのは2005年6月でしたが1944年6月から60余年の
変貌は筆舌の域を外れ残ったのは行かねば良かったの慙愧のみでした。
変蝠林(1917-)
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