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[No.926]
Re: 婦人従軍歌。
投稿者:
投稿日:2009/02/05(Thu) 08:21
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変蝠林さん
> 日清戦争当時、作詞者加藤義清は出征する友人を見送りに新橋駅に行ったところ、同じ列車で赤十字の看護婦たちが凛々しく戦地へ出発していくのを目の当たりにし、感動してこの詞を作り、奥好義に作曲を依頼してこの曲がうまれました。とかく男子の武勇伝が歌われる事の多い軍歌の中で、それも婦人の地位の低かった明治時代に、このような婦人の働きをたたえる歌ができた事は興味深い事です。
懐かしい歌ですね。
しかし、ウェブサイトには、下記のようにも書かれています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和12年、盧溝橋事件により日中戦争がはじまり、
この時日本赤十字社戦時救護員200名が動員された。
これが、日本赤十字社の看護婦がはじめて組織的に、
戦地に派遣された時であろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私もよく、分かりませんが、少なくとも父が東京の衛戍病院で看護師の
訓練を受け、看護の仕事をしていたのは事実と思います。
ただ、そういう資格を持った男性看護師は少なかったのではないかと
思います。
[No.925]
婦人従軍歌。
投稿者:
投稿日:2009/02/04(Wed) 16:40
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まーちゃん、らめーるさん
> 亡父は、兵隊時代に東京の「衛戍病院」付属の「看護学校」のようなところに行かされたそうです。
> 当時(大正の初期)は、女性の看護婦さんが従軍することができなかったため
> 男性の看護師の資格を持った看護兵が必要であったからといっていました。
> 産婦人科と小児科以外のすべての臨床研修もしたそうです。
オヤ? こんな軍歌がありましたよ。
兵隊で火線まで行くのは衛生兵。 赤十字は多分後方勤務?
変蝠林(1917-)
婦人従軍歌 加藤義清作詞 奥 好義作曲
火筒の響き遠ざかる 後には虫も声たてず
吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色
わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
たおれし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり
やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷い行く
天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人
真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
まくや包帯白妙の 衣の袖はあけにそみ
味方の兵の上のみか 言も通わぬあだまでも
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字
あないさましや文明の 母という名を負いもちて
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字
日清戦争当時、作詞者加藤義清は出征する友人を見送りに新橋駅に行ったところ、同じ列車で赤十字の看護婦たちが凛々しく戦地へ出発していくのを目の当たりにし、感動してこの詞を作り、奥好義に作曲を依頼してこの曲がうまれました。とかく男子の武勇伝が歌われる事の多い軍歌の中で、それも婦人の地位の低かった明治時代に、このような婦人の働きをたたえる歌ができた事は興味深い事です。
[No.924]
Re: 静岡浅間神社
投稿者:
投稿日:2009/02/04(Wed) 08:31
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変蝠林さん、ら、めーるさん
こんにちは
> > 昔の兵隊さんの病院、静岡病院もそこらにありました。
>
> 衛戍病院って言うのですよ。 静岡歩兵第三十四聯隊が消えてからかな。
衛戍病院(エイジュ・ビョウイン)と伺って出てまいりました。
亡父は、兵隊時代に東京の「衛戍病院」付属の「看護学校」のようなところに行かされたそうです。
当時(大正の初期)は、女性の看護婦さんが従軍することができなかったため
男性の看護師の資格を持った看護兵が必要であったからといっていました。
産婦人科と小児科以外のすべての臨床研修もしたそうです。
演習のときは、鉄砲の代わりに薬品などの入った箱を肩からかけて「軍医殿」に
従ったそうです。
私たちが、子供のころ外で遊んでいて「切り傷」などをこしらえて帰宅すると
なれた手つきで消毒をして上手に包帯を巻いてくれました。
(昔の包帯は単なる細長い布切れでしたので、
ずれないように上手く巻くための「包帯術」という科目があったそうです)
[No.923]
『生きる』
投稿者:
投稿日:2009/02/03(Tue) 23:51
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只今NHK2で「生きる」を見終りました。
>http://www.youtube.com/watch?v=0xsqJnZcyi8
変蝠林(1917-)
[No.922]
Re: 江戸から静岡へ。
投稿者:
投稿日:2009/02/02(Mon) 09:40
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>> 徳川は駿府に始まり駿府で終わったのです。
>>
>> 家康は駿府で学び慶喜は静岡で了りました。
更にこんなのも
http://www.shizutetsu.co.jp/column/column_cya_story_03.html
茶っ切り節秘話です。
うちの親父が浮月楼の歓迎宴会に同席したと言ってました。
変蝠林(1917-)
[No.921]
Re: 江戸から静岡へ。
投稿者:
投稿日:2009/02/02(Mon) 09:20
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> 徳川は駿府に始まり駿府で終わったのです。
>
> 家康は駿府で学び慶喜は静岡で了りました。
こんなのも
>http://www.fugetsuro.co.jp/history/his_index.html
変蝠林(1917-)
[No.920]
Re: 江戸から静岡へ。
投稿者:
投稿日:2009/02/02(Mon) 09:03
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徳川は駿府に始まり駿府で終わったのです。
家康は駿府で学び慶喜は静岡で了りました。
こんなのもありました。
>>http://seikenji.com/yuisho.html
変蝠林(1917-)
[No.919]
Re: 江戸から静岡へ。
投稿者:
投稿日:2009/02/02(Mon) 08:50
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> > 徳川は駿府に始まり駿府で終わったのです。
> >
> > 家康は駿府で学び慶喜は静岡で了りました。
こんなのもありました。
>http://shizuoka-seiseikai.jp/report/06-11-study.html
変蝠林(1917-)
[No.918]
Re: 江戸から静岡へ。
投稿者:
投稿日:2009/02/01(Sun) 11:35
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> 徳川は駿府に始まり駿府で終わったのです。
>
> 家康は駿府で学び慶喜は静岡で了りました。
不取敢 下記。
>http://www.shizuoka-seiseikai.jp/report/06-11-study.html
変蝠林(1917-)
[No.916]
江戸から静岡へ。
投稿者:
投稿日:2009/01/30(Fri) 06:45
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テレビ「厚 姫」の興奮が続いて居ります。
鹿児島が新日本の出発に点火した歴史です。
徳川の時代の終焉は正に劇的でありました。
徳川は駿府に始まり駿府で終わったのです。
家康は駿府で学び慶喜は静岡で了りました。
此の事実に就いて少し検討して見ましょう。
変蝠林(1917-)
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