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[No.499]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:マーチャン
投稿日:2008/03/29(Sat) 20:06
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唐辛子 紋次郎さん、みなさん
> この歌劇団誕生に大きな役割を果たしたのが、阪急電鉄の専務(当時)有名な小林一三だと聞く。明治の終わりに何もなかった田舎町、宝塚に、あらたに温泉場を作り、元号の変わった翌年の大正元年には、パラダイスという名の娯楽場までオープンさせた、とある。
残念ながら「宝塚」へは行ったことがありません。
ただ、学童疎開をしていたときに、宝塚のから慰問団が来てくださったのを憶えています。
長野県の鹿教湯温泉でした。
しかも、私たちの寮は「腸チフス」に汚染されて隔離されていたので見に行くことが出来なかったです。
それは可哀想とわざわざ旅館の広間で我々のためだけに危険を冒して(感染する可能性がありましたから)上演してくださったのです。
たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。
一生、忘れられません。
[No.498]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 15:41
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伸さん、みなさん、こんにちは。
> 皆さん、よく宝塚の事をご存じですね。私めは大阪で戦災にあい、丹波に疎開し、
> そこから現役召集で海軍に行き、敗戦でまた丹波に帰り、その年の終わり頃に、
> 宝塚まで引き返してきまして、3,4年間、栄町通りという歌劇の劇場の近くに
> 住んでいました。
歌劇場のちかくですか、そりゃまたスゴイですね。(@_@;)
> 宝塚ではコネがあって毎月のように歌劇を見に行き、時には新国劇なども見に行き
> ましたが、もう60年も前のことですから、ほとんど忘れています。あの時分は、
> なんと言っても春日野八千代の時代で、彼女が舞台に立つとすごい拍手と声援で、
> 敗戦後の窮乏生活は、この宝塚大劇場の中ではどこへ行ったかと云う感じでした。
春日野の人気は絶大だったんですね。(^_-)-☆
> 天津乙女は春日野よりも先輩で、貫禄がありましたね。私の印象深かったのは深緑
> 夏代のカルメンで、赤い薔薇をもてあそびつつ唄うハバネラはいまも印象に残って
> います。
う〜ん、カルメンですか、赤いバラを口に咥えた姿はさぞ、かっこよかったでしょうねぇ。それにまた、あの唄はメロディーがいいですよ。蓮っ葉で、威勢のいいスペイン女が歌うには打ってつけですよ。
> 春日野のあとに出てきた越路吹雪の人気もなかなかのものでしたね。やはり宝塚は
> 男役に人気が集中していたよう思います。
女の子も男役に憧れたんでしょうね。しかも、宝塚はニッポン独自の文化で、西洋には、ああいう、女だけで演じる歌劇ってのはないです紋ね。(^_-)-☆やっぱ、スゴイですよ。(^_-)-☆
[No.497]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 15:06
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唐辛子 紋次郎さん、こんにちは。
皆さん、よく宝塚の事をご存じですね。私めは大阪で戦災にあい、丹波に疎開し、
そこから現役召集で海軍に行き、敗戦でまた丹波に帰り、その年の終わり頃に、
宝塚まで引き返してきまして、3,4年間、栄町通りという歌劇の劇場の近くに
住んでいました。
宝塚ではコネがあって毎月のように歌劇を見に行き、時には新国劇なども見に行き
ましたが、もう60年も前のことですから、ほとんど忘れています。あの時分は、
なんと言っても春日野八千代の時代で、彼女が舞台に立つとすごい拍手と声援で、
敗戦後の窮乏生活は、この宝塚大劇場の中ではどこへ行ったかと云う感じでした。
天津乙女は春日野よりも先輩で、貫禄がありましたね。私の印象深かったのは深緑
夏代のカルメンで、赤い薔薇をもてあそびつつ唄うハバネラはいまも印象に残って
います。
春日野のあとに出てきた越路吹雪の人気もなかなかのものでしたね。やはり宝塚は
男役に人気が集中していたよう思います。
[No.496]
Re: 壱粒300米。
投稿者:夏子
投稿日:2008/03/29(Sat) 14:07
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紋次郎さん、みなさん、こんにちは
> 形状は、珍しい立体的なハート型である。 キャラメルは飴などと比べて軟らかいため、型抜きでハート型を作るのは難しかったが、ローラーを用いることによりこれを可能にした。 これは業界初の試みであった。 なお、1953年から1987年の間は大量生産によるコスト削減のため角型に変更されていた。
>
> と書いてあり、もともとはハート型、のちに1953年角型となり、また1987年昔懐かしいハート型に戻った、とあります。あっしの思い出の中では
> 永久に『ハート型』です。(^_-)-☆
そうでしたか(^^ゞ 先日娘が来たので、グリコキャラメルって、ハート形だったっけ?と聞いたところ、普通のキャラメルみたいな角型だった記憶が・・・と言っていました。それは違うよ、と言ったけど、娘の時代はそうだったんですね。
やっぱり私の記憶違いだったかな。白兎山人さんと同じくカバヤと混同しているのかも・・・ 変蝠林さん、カバヤのホームページ行って見たけど、箱の写真はあってもキャラメル自体の形は分かりませんでした(^^ゞ
グリコ・カバヤ・森永キャラメル・・・どれも懐かしい!!
夏子
[No.495]
オペレッタ全盛時代
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 13:51
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何でもむかし、オペレッタ全盛時代というのがあったらしい。田谷力三くらいはあっしでも名を聞いて知っているけれど、詳しいことになるとマッタク無知同然。
ある本で、当時あった「日本館」だか「東京歌劇座」だかで、大正6年頃、『コロッケの唄』(「カフェーの夜」というオペレッタに出てくる)というのが大ブレークしたという。
そのころ、洋食の御三家といえば、フライ、カツ、コロッケだったそうな。この唄は三井財閥のボンボン、益田太郎の作詞・作曲だとか。
先程あるサイトを観たら、昭和61年に(2/25〜3/7)三越劇場で、こんな催しがあったらしい。オペレッタが盛んだった、その時代を蘇らせようという試みで、そのなかで歌われる曲名を見ると大変懐かしいものが多い。
「ベアトリ姉ちゃん」「恋はやさし」「ティッペラリー」「コロッケーの唄」「マドロスの恋」「小さな喫茶店」「アマポーラ」「マリネラ」「月光値千金」
このときの謳い文句をご紹介しましょう。『これは昭和五年、一九三〇年を軸に、その前後十年くらいを浅草を中心にした下町の舞台で云々』
1930年はあっしの生まれ年で、その前となると、兄貴の生まれた大正になる。(^_-)-☆
[No.494]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 13:10
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変蝠林(1917&大正6年-)さん 、さんらく亭さん、みなさん、今日は。(^_-)-☆
> 大正人ですが(^_-)
>
> 宝塚大劇場は就職直後に神戸支店勤務下命、早速脚を運びました。
> あの頃は電車を降りて櫻土手を往くと紫羽織の生徒達とサテンで同席。
紫羽織、う〜ん、いいすねぇ。
> 合宿所の先輩から淡島千景に小便掛けられたなんて話しが・・・・
> 彼女が重役さんの御嬢さんであって・・・
先輩が淡島千景に求婚ですか?これもスゴイ。しかし、彼女ってそんなにいい家柄なんですか?先輩の〇〇さん、さぞかし残念だったでしょうね。
[No.493]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 12:30
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唐辛子紋次郎さん 変蝠林さん
気になってググったらこんな記事がありました
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/yoka-takara.htm
私もそこまでは知りませんでした
さんらく亭@甲子園
[No.492]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:変蝠林(1917-)
投稿日:2008/03/29(Sat) 11:53
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唐辛子紋次郎さん さんらく亭さん こんにちは
大正人ですが(^_-)
宝塚大劇場は就職直後に神戸支店勤務下命、早速脚を運びました。
あの頃は電車を降りて櫻土手を往くと紫羽織の生徒達とサテンで同席。
合宿所の先輩から淡島千景に小便掛けられたなんて話しが・・・・
彼女が重役さんの御嬢さんであって・・・
変蝠林(1917-)
[No.491]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 11:28
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さんらく亭さん、みなさん、こんにちは。
> 4〜5才のころ(昭和11〜12)兄と一緒に母に連れられてよく見に行った記憶があり
> ます。子供心にも覚えているのは天津乙女、春日野八千代、霧立のぼる、深緑夏代、越路吹雪などの名前です
深緑夏代や、越路吹雪は、シャンソン歌手としても超一流ですね。(^_-)-☆
> 淡島千景、久慈あさみ、新珠三千代、月丘夢路などは戦後に映画スターになってからスクリーンで見ました
>
> 宝塚大劇場は戦時中は海軍に接収され宝塚海軍航空隊の予科練生の宿舎でした。兄(昭和5年生)も予科練に志願してそこで訓練を受けていました
超硬派の予科練と宝塚が、親戚というのは、こら、おもろい。
> そんな関係で宝塚歌劇と予科練は縁があり「すみれの花」と「荒鷲の歌」は一緒に
> 歌われるころがあるそうです。宝塚大劇場に通じる「花の道」には元予科練生の寄贈した植樹があります
予科練生の植樹、へ〜そんな紋が、あるんですか?へ〜〜。(@_@;)知りませんでしたねぇ。あっしは今まで、宝塚といったら「おんなだけの世界」と思っていましたが、男も観にいったんですねぇ。むかしは若い女の子はみんな、スターのブロマイドを、自分の部屋にいっぱいしまい込んで、宝物のように大事にしていたようでうすね。
あっしには、とても理解できない世界でしたが…。ところで、あの歌の「すみれ」はほんとうは「リラ」なんすて?
[No.490]
Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃)
投稿者:
投稿日:2008/03/29(Sat) 10:54
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唐辛子紋次郎さん こんにちは
大正人ではありませんが(^_-)
> あっしはこの方面には疎いが、大昔のスターには春日野八千代(大正4年生まれ)だの、音羽信子(大正13年生まれ)、淡島千景(大正13年生まれ)、月丘夢路(大正11年生まれ)などがいたとか。この方面にお詳しい、ありませんか?
4〜5才のころ(昭和11〜12)兄と一緒に母に連れられてよく見に行った記憶があり
ます。子供心にも覚えているのは天津乙女、春日野八千代、霧立のぼる、深緑夏代、越路吹雪などの名前です
淡島千景、久慈あさみ、新珠三千代、月丘夢路などは戦後に映画スターになってからスクリーンで見ました
宝塚大劇場は戦時中は海軍に接収され宝塚海軍航空隊の予科練生の宿舎でした。兄(昭和5年生)も予科練に志願してそこで訓練を受けていました
そんな関係で宝塚歌劇と予科練は縁があり「すみれの花」と「荒鷲の歌」は一緒に
歌われるころがあるそうです。宝塚大劇場に通じる「花の道」には元予科練生の寄贈した植樹があります
さんらく亭@甲子園
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