大正の部屋  ー温故知新ー 

大正・昭和初期の実体験を 話す・語り合う・聞く・訊く
その時代の伝聞(親・親戚・知人より)を披露し合う
主役は上記時代お生まれの世代ですが、参加は老若広く
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  • [No.348] Re: ポン菓子 投稿者:Pan  投稿日:2008/02/14(Thu) 23:25
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    マーチャン、リフレーさん、みなさん こんばんは。

    > こんばんは。寒いですね。

     まだ数日は雪も降りそうですね。

    > 私は「ポン菓子」は存じませんが「ポン煎餅」はよくいただきました。
    > こちらも、作るときに爆発音がしました。
    > 香ばしくて美味しかったです。
    >
    > 同じものなのでしょうか。

     最近も東北の方へ出張した人の土産に頂きましたよ。(^-^)

     ポン煎餅は私が始めて見たのは昭和20年以降です。 代用食として配給されたコウリャンなどを加工していました。
     もう一世代前にもあったのかも知れませんね。  特別のハイテクとは思えませんから。

     穀物を加熱してから急に圧力を下げて膨張させるのは同じですが、機械の形も食べ物のできあがりも全く別物でした。

     今でもこれらの機械は売っているようですね。

        ***** Pan *****


    [No.347] Re: ポン菓子 投稿者:Pan  投稿日:2008/02/14(Thu) 23:21
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    白兎山人さん、みなさん こんばんは

     送信したと思っていたら、操作ミスで残っていました。(^^;

    >  しゃれた格好してますね

    蒸気機関車の形の写真を撮った記憶があるのですが、見当たりません。
     出てきたらアップします。

     何時だったか、テレビ番組で、女性の工場主が頑張ってあの機械を造って
    販売された話を見ました。 先の大戦後かな?

    >  昔の釜 安全弁なんか あったんでしょうか
    >  事故の話は聞いたことありませんけど
    >  火加減 時間など どうやって判定してたんでしょう・・・

     昔の釜は鋳物でこんな達磨型だったと思います。 安全弁はネー?  

      http://www.geocities.jp/joysunny/hukuoka/hukuoka06.htm

     破裂した話は聞きませんが、あるに違いないと思って(ポン菓子 爆発)で検索したらやはりありました。 それも最近の事で場所も近くです。

        http://ch01302.kitaguni.tv/e283244.html

     今のは圧力ゲージが付いていますが、どの程度まで上がっているのか見るのを忘れました。
     昔は何を燃料に使っていたのでしょうね? 薪か炭火でしょうか?


         ***** Pan *****


    [No.346] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/13(Wed) 23:08
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    調べて見ると 私の言わんとした風呂は
    鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです
    木製桶の浴槽に鋳鉄製の釜が外付けされているもの

    なお 浴槽全体が鋳鉄製のものを長州風呂
    周囲が木製で底だけ鉄製のものを
    五右衛門風呂と言うのが正しいのだとか


    [No.345] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/13(Wed) 22:41
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    「長州風呂」は私の記憶違いで
    敗戦後まもなく出回った長府製作所の
    木製風呂桶(小判型)と
    それ用の 外付け釜(薪)のことを
    言いたかったわけです

    関東まで広がったかどうかは
    私は知りません

    昭和30年代には 父がドラム缶で風呂をつくり
    裏山で松葉を炭俵に詰めては持ち帰り
    燃料にしていました


    [No.344] Re: 風呂事情 投稿者:瀬里恵  投稿日:2008/02/13(Wed) 20:31
    [関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

    白兎山人さん、変蝠林さん、皆さん…。

    > 北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。

    > 長州風呂なぞと言うものが広まったのは
    > ずっとあとだったような気がします

    瀬里恵の実家は瀬里恵の生まれる前から(昭和4年生れ)
    ずーっと長州風呂でした。

    構造から考えると五右衛門風呂が後から出来たのではない
    かと推測するのですが…。最も長州風呂も五右衛門風呂と
    呼ばれているようですネ…。

    でも、石川五右衛門が釜茹でされた処から五右衛門風呂と
    呼ばれたと言う事から考えると歴史は相当古い…。

     子供の頃 兄と2人で五メートルほど離れた吸上ポンプ
    からバケツで水を運んで風呂釜に水を張った思い出があり
    ます。 後にヒノキ風呂に変わりましたが、矢張り思い出は
    懐かしい…。無論 戦前のお話です。


      http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/
                瀬里恵


    [No.343] Re: 風呂事情 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/02/13(Wed) 14:03
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    > 街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。

     就職して勤務支店に行ったら合宿所に入れさせられました。
     当然其処には風呂場が有りました。
     銭湯と云うものに行った事が無かったので当初怖かった思い出が。

                                 変蝠林(1917-)


    [No.342] 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/13(Wed) 13:03
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    街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。
    北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。
    一里くらい離れた山から柴などを刈って来ていたようです
    長州風呂なぞと言うものが広まったのは
    ずっとあとだったような気がします

    敗戦後しばらく その父の生家の屋敷内のあばら家に
    家族5人で身を寄せていましたが
    生家の家族7人くらい入ったあとの五右衛門風呂は
    湯がトロンとしていました。


    [No.341] Re: 昭和初期のスキー 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/02/11(Mon) 10:47
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    画像サイズ: 460×327 (70kB)
    不虻さん、みなさん

    >  選手の物は別ですが、当時の一般のスキーは、本体がイタヤや楢、樫などの木製、最上級は北米のヒッコリー製でした。靴は私など小学生はゴム長靴、そして当時ビンディング(正確にはビンドゥンクか)と呼んでいた締具は、靴の爪先と足首をベルトで締めてスキーと靴を固定させる方式。杖は竹に丸い輪の付いた杖2本(父の頃は1本杖だったそうですが、当時は2本杖になっていました)。

     明治26年生まれの父も、会社の同僚とヘタなスキーを楽しんでいたようです。

     写真が残っているのですが、当時は、スキーウェアはなかったようですね。彼らは、これでも「格好いい」思っていたのでしょう。
     多分、この写真はアフタースキーに、茶店で「鍋物」など突きながらいっぱいつもりでやってきたところだと思います。


    [No.340] 昭和初期のスキー 投稿者:   投稿日:2008/02/10(Sun) 23:10
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    みなさん こんばんは。
     伸さんのローラースケートの話,愉しく拝見しました。それに吊られて今度は雪国の遊びを御紹介したいと思います。

     私が小学校4年の3学期、昭和5年、2月11日の紀元節を挟んで長野県野沢温泉スキー場で全国スキー大会が開催されました。今で言えば国体ですか。丁度、欧州のスキーの名手、H・シュナイダーが前年オーストリアから来日し、日本でもスキー熱が高まってきた時期でした。この大会には草津からも数人の選手が参加していましたので、父が私を連れて行ってくれました。

     選手の物は別ですが、当時の一般のスキーは、本体がイタヤや楢、樫などの木製、最上級は北米のヒッコリー製でした。靴は私など小学生はゴム長靴、そして当時ビンディング(正確にはビンドゥンクか)と呼んでいた締具は、靴の爪先と足首をベルトで締めてスキーと靴を固定させる方式。杖は竹に丸い輪の付いた杖2本(父の頃は1本杖だったそうですが、当時は2本杖になっていました)。

     また当時の主な技術は、全制動、シェーレン・クリスチャニア(シェーレはドイツ語で鋏みのこと、クリスティアニアはノルウエー、オスロの古名。鋏みのような形にスキーの一部を重ねて回転する技術の名称)、テレマーク(ノルウエーのテレマーク痴呆で生まれた回転方法。片膝は深く、もう一方の膝は浅く曲げ、大きな半径で回転する方法)などでした。いずれもシュナイダーが伝えたアールベルク・スキー術以前の技術でした。

     帰りは大雪で草軽電鉄が止まってしまい、泣きべそをかきながら遠回りしてやっと帰りました。あの頃の小学校では体操の時間は何時もスキーで、家へ帰るのも家までスキーで滑って帰ったものです。

     スキー技術も装置もゲレンデも今は今昔の感があります。草津からは荻原健二兄弟のよな名選手を出しましたがあ、最近スキー熱がやや冷えてきたのは残念なことです。

    (1996年、niftyのメロウ・Fで「追憶博物館」という会議室を設け、「小学校時代の思い出」を募集したことがあります。これはその時応募した物の一部を再録しました)


    [No.339] Re: ローラースケート 投稿者:   投稿日:2008/02/10(Sun) 16:56
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    BUPさん、こんにちは。

    ずいぶんお古い海軍さんですね、1943年といますと私は
    17才くらいです。それから暫くして、敗戦の年に、私は
    海軍に現役招集で入団しました。

    大阪の府大を海軍が接収して大阪海兵団といいまして、
    海のない海軍でしたが、その頃は日本の海軍はほぼ全滅
    していて幻の海軍だってようです。

    そして2ケ月も経たないうちに戦争はおわりました。
    まるで尻をたたかれにいったような海軍生活でした。
    その年の9月の中頃に、海軍一等主計兵になって、私は
    父母の許へ帰りました。


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