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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1

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通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/25 8:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(1)

   平壌中学校
     大正十三年~昭和四年 (一九二四~一九二九)
                     平成元年六月一日起草

   平成元年《1989年》五月二十日に「井上貞勝」名の手紙がきた。
   すぐには誰かわからなかったが、平壌《ピョンヤン》中学校の同期生で、
   同期会を開きたいので、皆の健康状態を知りたいとの
   事だった。早速同意の返事と共に旧闊《きゅうかつ=久しぶりの便り》
   手紙を書いた。
   これをきっかけに中学の時を思いだしてみる。

 平壌《=ピョンヤン》には小学校は山手、若松の二校があって私は山手だった。
 内地人の中等学校は男子の中学が一つと農業学校とがあり、師範学校はもっと後になって出来たと思う。他に内地人の高等女学校が公立と私立と各一つあった。朝鮮人のための初等教育は普通学校があり、中等教育は官立の高等普通学校と女子高等普通学校とが各一つ、朝鮮人経営の中等学校一、米人経営の男子、女子中等学校各一あった。

 専門学校は米人経営のが一つ、これは朝鮮人のためのもので・昭和四年に医学専門学校の前身、内鮮共学の道立医学講習所が出来るまでは男女とも内地人の上の学校はなかった。このため私の長姉は東京の実践女学校に、次姉も東京の日本女子大学校に進学している。

 中学の選抜試験は二人に一人位の競争率だったようだ。六年の時担任の先生が若松に負けないようにといわれて、夏、冬の休みに十人余りと先生のお宅に勉強に行った。入学後も親しい仲間だった。
 大正の末のころは全鮮の中学校の数は少なく、入学時は総督府立(註)で地元以外からの生徒は寄宿舎に入りクラスの四分の一位はいたと思う。在学中に地方にも多く新設され、中学校は道立になった。平壌中学の創立は大正三年(一九一四)で総督府立京城中学平壤分校として発足し私は大正十三年の第十回卒業になる。


 一九一〇年 日韓併合で寺内正毅韓国統監が、天皇直属の朝鮮総督に任ぜられた。オランダ、フランスの植民地もそうだがイギリスがインドなどに総督をおいたのと同じなのだろう。初めの頃の総督は軍隊を動かす権限まであり、総督府には政務総監とは別に警務総監部があって、悪評高い憲兵政治の中心とされている。大正八年(一九一九)までは文官《武官以外の官吏の総称》も官等級別の制服に剣をさげていた。

 台湾には日清《にっしん》戦争後、台湾総督府が置かれ、すでに文官の総督が任命されていたが、朝鮮の総督は陸軍大将が二代続き、三代目は海軍大将、大正八年に文官任命の制度が出来たが実際は敗戦まで陸軍大将が続いた。

 大正八年に三.一独立連動、所謂《いわゆる》万歳騒動が起こる。私は小学校に入ってるのだがはつきりした記憶はない。其の後海軍大将の斉藤実にかわり政策の変更が始まる。文官は平服を着るようになり、医療、教育の普及から、病院、学校も増え、慈恵病院や中等学校は道立に移管された。憲兵の権限が民間に及ばなくなったのは大改革なのだろうが身近には何もわからなかった。政策転換後の総督府は文官の政務総監を頂点に財務、殖産《産業を盛んにする》、法務、学務、警務局などの中央官庁と十三の道知事が居り、道は内地の県に当たり、府、邑《むら》、面が市、町、村にあたる。道以下には議会が有るが総督府には議会はない。
 
軍隊は朝鮮軍司令官がいて二個師団と国境警備隊があり、平壌《ピヨンヤン》には旅団《=軍隊の構成単位のひとつ、聯隊の上 師団のした》司令部と歩兵第七十七聯隊、飛行第五聯隊とがあった。         
註 終り。


(2)

 中学校での思い出は余り無い。校庭に化石林(中世代の裸子植物《らししょくぶつ=種子植物を二大別したひとつ》)があり、まだ博物館がなかつたので校舎の一室には楽浪《らくろう》の古墳から発掘された鏡の類が沢山展示されており、その他貴重な収集と聞いている。
 
平壌には太古の箕子朝鮮につながる伝説の「箕子の井戸」や、「箕子廟」がある。歴史では漢の楽浪郡(BC一〇八-AD三一三)、高句麗(BC一-AD六六八)の主要な地で欒浪郡治址、衛満朝鮮、王剣城にあたる。在学中も調査は続いていて多くの発見が報ぜられていた。大正十二年に世に出た「孝文廟の銅鍾」は大論争を起こしている貴重な資料と聞いたが、これは遺跡に興味を持った平中の生徒が見つけたものだった。

 歴史と地理とに興味をもって、この道に入れたらと思つたこともあった。城大には今西龍、藤田亮策、小田省吾教授がおられた。担任の地理の先生から、初心のまま医学をやって生活の土台を決めるのが先だ、やりたいなら考古学は趣味でもやれると言われた。古代史にはそのごも興味を持ち、かなり本は読んだ。

 戦後ゆとりが出来てから、インカやトルコ、エジプトに行こうと思うのはこの名残だろう。しかし単に興味を持っているだけで学問としての熱意はない。肝腎の支那、朝鮮、ことに今はピョンヤンと呼ばれる平壌には行く気にはなれないままでいる。(コノコトニ就イテハ別こ記ス)

 平中は一学級はクラスが二つ。教室の席順は成績順で、クラスも上から一、二組に分けられる。すれすれの者は学年毎に組がかわり、席順もかわる。この事が生徒にどんな影響を与えたかは気がつかずに過ごしてしまったが、二つの組は解け合っていて、何か有れば同期の団結でぶつかっていた。
 
 ストライキをした時は四年生全員が一つになっていた。私は主動者でなかったし何が原因でストライキに入ったのか思い出せない、一人で教官室に呼ばれたのを憶えているが、ストの説明になにを話したか記憶にない。ストは一日で終り処罰者はなかった。四年の時に、五年生から呼び出されて鉄拳制裁《てっけんせいさい》を受ける順送りの春の年中行事に、全員で反駁《はんばく=他からうけた攻撃に対して逆に論じかえす》したのではなかったかと思う。

 又これもどういういきさつからか分らぬが、土曜日の午後から全員総掛かりで教室の床と教壇、柱、窓、ドアーなどを雑巾とたわしとで真っ白になるまで磨き上げたことがあった。暫くはこの教室にはいる時には先生にも履物を脱いでもらった。

 今でいう進学校で多くが上級学校に進み、四年修了で内地の高校に三、四人は入っているが激しい試験勉強の風潮は印象にないし、スポーツも盛んだった。

 野球はほかに中学がないので社会人との試合ばかりだった。社会人との定期戦には色々な応援歌があり、全校挙げての大応援団が編成される、私は応援だけ。私たちのクラスの選手はついに甲子園に出られなかったが、明大に入って東京六大学リーグで活躍したのがいた。卒業した年に初めて朝鮮代表になり念願を果たし、その後も何回か甲子園に行っている。このころは関東州、満州代表には大連商業などが強く、大連から毎年甲子園に出ていて、その帰り途に平壌《ピョンヤン》により練習試合をしてくれていた。

 私は陸上競技部にはいり中距離を練習していた。別に早く走れたこともなく、三年の時競技中に転んで左の股関節を脱臼《だっきゅう》して一時歩かれなくなり、以後運動やめてしまった。本当の脱臼ではなかったのだろうが、これは今でも歩き始めに筋がつってくる。

 スケート。 冬期には体操の時間はスケートの練習が正課になり、冬の初めには田圃《たんぼ》で、真冬に大同江が凍るとリンクのほか広々とした川の上、下流を自由に滑り回った。リンク造りも授業の中だった。晋段通学に履いている革靴のかかとに座金でスケートを固定し、ただ滑るだけで競技はしなかった。フィギャースケートなどは見たこともない。体操の先生が代わったとき、校庭でホッケーの練習をしたことがあるが、冬になってアイスホッケーをした記憶はない。この時アイスホッケーを始めていたら平中の名は朝鮮スポーツ界の歴史に残ったことだろう。

 大正七年   (一九一八) 小学校入学 米騒動
   八年 三.一独立運動  斉藤総督就任
   九年 琿春《こんしゅん》事件  
  十二年 関東大震災
  十三年 中学校入学   米、 排日移民法成立
  十四年 治安維持法   広東国民政府成立
  十五年 六.一 万歳連動  労働農良党  日本労働党 社会民衆党結成 蒋介石北伐《しょうかいせきほくばつ》開始
 昭和二年 金融恐慌《きんゆうきょうこう》 山東出兵 ジュネーブ軍縮会議
  三年  第一回普通選挙  三.一五事件  済南事件  張作霖《ちょうさくりん=中国の軍人政治家》爆死事件
   四年  中学校卒業    四.一六事件  光州事件
   五年  金解禁  ロンドン軍縮会議  浜口首相狙撃《そげき》  台湾 霧社事件《むしゃじけん=植民地圧制に対する武装蜂起》
   六年  七月  満州万宝山事件  九月  柳条溝事件  満州事変

 中学在学中の内外の情勢は多端であったが、私が専ら興味を持っていたのは支那の内戦だった。
 東北三省(満州) 張作霖 張作相 呉舜陛。 山東 張昌相。
 江蘇 浙江 安徽 孫伝芳。 武漢 河南、湖北、直隷 呉楓孚。
 山西の閻錫山のほか李景林。馮玉祥も有力な軍閥だつたし広西、広東等の頭目もいたのだろうが、今はごっちゃになり名前も出てこない。まだこの位は記憶にあるのを善しとすべきか。
 小学校の終りころから、中学にいる間、関連のある新聞記事は手当り次第切り抜いて何冊ものスクラップブックをつくつた。家は内地の新聞と京城日報と土地の平壌毎日の三紙を取っていた。平壌毎日には、支那問題に関心の深い記者がいたようで解説がよく載っていた。

 支那の本をよく読んでいたので地理、歴史の興味は今も続いている。蒋介石の北伐がすすみ日本軍が参戦し、張作森《ちょうさくりん》が満州に引つ込む頃には興味を無くしてスクラップブック作りも止めてしまった。入学試験が余暇を無くしたのだろう。

 小説もよく読んだ。父の本棚にあった黒岩涙香《くろいわるいこう=新聞記者、文学者》の、ああ無情(レ・ミゼラブル)巌窟王《がんくつおう》(モンテ・クリスト)、三銃士の類、村上浪六《=小説家》の旗本や市井の無法者、徳富蘆花《とくとみろか=小説家》の自然と人生、想い出の記、死の蔭に は繰り返し読んだし、一九二七年(昭和二年)に亡くなった時は本屋に行き巡礼紀行を見つけて買ってかえった。(巡礼紀行は絶版かと思っていたが先日何処かの文庫本発行の広告を見受けた)未来小説「金星旅行」は当時有名なイギリスの作家だが名を思い出せぬ。谷崎精二の訳本も読んだが、室伏高信のエッセイ集と箕作元八(六?)のナポレオン史とは熟読した。

 昭和元年(一九二六)以後は円本時代と言われ(註)、翌昭和二年には岩波文庫、次いで改造文庫も発刊され始めた。父が大衆文学全集を取っていたのて毎月配本されるのを欠かさず続んでいた。江見水陰の八が岳の魔人、吉川英治の鳴門秘帳などを憶えている。猿飛佐助《さるとびさすけ》、霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》、山中鹿之介の立川文庫はもう卒業していたのだろうか。中学生向きの現代世界文学全集を買ってもらい毎月の配本が楽しみだった。「三等水兵マーチン」を、憶えている。アランポー、モーリス.ルブラン物もよく読んだ。

 講談社の雑誌「キング」は一九二四年、中学入学の年に創刊号が出ている。
    註
   一九二六  現代日本文学全集 改造社
         世界大衆文学全集 改造社
   一九二七  世界文学全集   新潮社  現代大衆文学全集 平凡社
         明治大正文学全集 春陽堂  探偵小説全集   春陽堂
   以下戯曲、近代劇、世界大思想、随筆、小学生、児童文学全集等が次々
   に出て、一九三一年までには二百種以上になったという。


(3)

 学業
 本を読むのと数字の計算とが好きだったので、国漢、算数の成績は余り人にまけなかったが、一番の苦手は図画でこれは先生はどうにもならなかったようだ。五年になり用器画の時間に同じ図画の先生から 用器画ならば良いかと思ったがこれも駄目なんだなと言われた。

 国漢は赤壁の賦《せきへきのふ》、唐詩撰や論語、日本外史、太平記、平家物語など何かと好きでよく暗誦《あんしょう》していた。代数、幾何《きか》も教科書よりずっと前を独りで進んでいた。併《しか》し五年で、Sin、Cosになってからはそうはいかなかったようだ。英語は得意とは言えなくても何時当てられても困ることはなかった。

 スポーツを止めてからは定期に学校と家とを往復するだけのことで、友達とは小説本の借り貸しの付き合しくらいになった。本の好きな真面目な中学生だったのだろう。三省堂だかの大日本百科大辞典があるので、下調べはよくやって、尚分からぬ所を質問すると答えの貰えない先生もおられた。

 同期生
 京城では医専、工高、高商に同期生がいるので一年遅れてまた付き合うようになったが、深い付き合いになった者はいない。卒業後も、引き揚げ後も殆《ほとん》ど、誰にも会っていない。もう何人も残ってはいまい。
 
 同窓会名簿をみると第十回卒業の同期生は八十二人いたのが最近はつきりわかっているのは、生存十九人、死亡三十人になっている。お互いの姉、妹と兄、弟ぐるみの付き合いで親しくした小学校からの二人。一人は京都帝大をでて検事になり一頃横浜に検事正でいたが会わずじまいになった。も一人も京大をでたが左翼運動にはいり敗戦後は、北朝鮮日本人技術者部会の部長になって平壌で日本人技術者の世話?をしていた。私が正式引き揚げで元山の収容所にいるときに訪ねてきた。朝鮮復興のため残ってくれないかと言う、彼の真意を聞くことなしに別れたが、この後なんとかの罪でシベリアに連れて行かれたという。この二人も今はいない。

(4)

 予科入学試験
 朝鮮には内鮮共学の上級学校は公立の高等工業、高等商業、高等農林学校,法学、医学専門学校、私立の薬学、歯科医学専門学がそれぞれ一校と、法文学部、医学部のある帝国大学とその予科とがあった。私の中学卒業の年(一九二九)に平壤、大邱《たいきゅう》に(その後成興、光州)医専、もっと遅く京城に鉱専、女子医専が開設された。当時の内地の高等学校は中学四年修了で受験できたが、朝鮮では大学予科、専門学校、高等工業学校等みな五年卒業が受験資格だった。内地の大学に行きたい者は、四年でも五年卒業でも内地の高校を受けられたので、クラスの何人かは(四人?)四年で出ていった。

 私は迷うことなしに京城大学医学部にいくと決め、内地の大学に入るつもりはなかったので中学を卒業して予科を受験した。落ちることは考えに無かったのが不合格だった。自惚《うぬぼ》れの実力知らずだとの反省もなく、翌年もここしか受けなかった。浪人の一年間は中学の物理教室に机をもらい、受験料目だけ五年生の教室に講義を聴きにいかしてもらつた。父と校長と物理の先生との話合いで特別の計らいをして戴いたのだろう、前例のないことだつた。
 
 幸い二年目には合格したが、もしこの時も失敗していたらどうなった事かと、今でもぞつとなる。それ以上の浪人は出来ないから、医学に進むのなら三回目には予科だけでなく医専も受けることになろう。京城医専は予科に劣らぬ難関だし受かったとしても先に入った同期生は三年生になる、平壌医専にしても同じこと、卒業の年に予科の理科の合格者は零だったが・京城医専には四、五人、平壌医専には十人以上が入っていた。

 平壌医専は卒業の年に医学講習所として第一期の生徒募集をし、中学の先生も受験を勧めて大勢が受験し合格しているが、私は予科進学しか考えなかった。
 思い上がった己の身知らずが、見向きもしかった所に尻尾《しっぽ》下げて来たのかと言われることになる。
 二年目も失敗していたら三年目には医専はやめて、高等農林学校を受けていたのではなかろうか。文科系にいくつもりはなかった。
 中学の時、医学に向かう方針を決めた事に就いては別に記す。
           
 平成元年七月二十三日記

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編集者 (代理投稿)

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