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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その3

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通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その3

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/25 9:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(1)

 当時の映画 (吉村冬彦全集第十三巻より)
  昭和五年
 何が彼女をさうさせたか。四人の悪魔。チャップリンのサーカス。キートン。
 ロイド。父の罪 エミール・ヤニングス。ヴオルガ。
 Biasting Excavater (自然の破壊).Turksib ソヴィエット。
 Manslaughter パラマウント。 Love among the Millionaires クララボウ。
 西部戦線異常無し.アジアの嵐.暁の偵察,海淋の巨人 Moby Dick バリモア。
 Feetfinger  ロイド。 月世界の女。
   昭和六年
 「キートンのエキストラ」。
 Warner Bross. Ham & Eggs at the Front‥Across the Atrantic‥
 Across the the World. With Mr.and Mrs. Martin Jonson。.
 略奪者 クーパ.接吻 ガルボ.モンテカルロ.放浪船.海魔.リリオム. 潜航艇C.一号。
モロッコ。
 「海の動物」.「森の動物」.「木材から紙になるまで」.ソノホカ。
 トムソーヤの冒険 クーガン.
 家鴨《あひる》の死.春(ソヴィエット).「世界のメロディ」.「魔法の時計j.喰人島.
 白魔 モジューヒン。Marion. 狼火 パーセルメル.
 Taming of Shrew ダグラス.嘆きの天使 スタンバーク.全線.
 松葉かんざし.街のルンペン. モンテカルロ.
 巴里の屋根の下. 愉快な武士道. 街の紳士.

  七年
 大飛行船.籠《かご》の娘.新女性線.(4月)大地に立つ.上陸第一歩.銀座の柳.
(5月)自由を我等に.

  八年 
 二月 ひとで マン. 貝殻と僧 ジェルメール・デュラック夫人.
 Bring 'em back Alive。 巴里ー伯林《パリーベルリン》三月 Juille.ルネクレール.
 人生謳歌《おうか》
 五月 密林の王者(マンガ). 十月 モナリザの失踪《しっそう》.恋の凱歌《がいか》
以上は私たちの学生の頃に寅彦が見た映画である。
 このリストは昭和六十一年の卒業五十周年記念に全会員から原稿を集めて記念文集を発刊した時、当時を思い出すきっかけ、手がかりにもと、たまたまこの時配本になつた寅彦全集第十三巻から書きうつして会員に配ったものである。
 この中で京城《ソウル》で上映されたのはどのくらいあつたか。鐘路《チョンロ》朝鮮町に外人の観客が多い洋画館があり、内地人町にも若草劇場があり、その後明治座ができた時には、開館記念の ボレロを観にいった覚えがある。デイトリッヒとか、グレタ・ガルボ、エミール・ヤニングス。間諜《かんちょう=スパイ》Ⅹ29(27?)。外人部隊、嘆きの天使、パリ祭などを観たのは何時ごろか覚えていない。
 これには挙げられていないが、初めての日本語トーキー「戻り橋」や「マダムと女房」を見たのは予科の時だったと思う。


(2)

 立正会と津田先生
 津田 栄先生は予科の化学教授で、「立正会」リッショウカイを主催しておられた。何がきっかけだったのかは全く思い出せぬが一年の時からこの会に参加した。日蓮を信仰していた訳ではなく、津田先生の人柄に引かれたのと、仏教の話に興味を持っていての事だったと思う。
 広い意味の宗教ではあろうが、既成宗教とは全く異なった「日蓮主義」を標榜《ひょうぼう=主義主張を公然とあらわすこと》した法華経、日蓮上人の研究会で 岩波文庫の日蓮聖人御遺文集を教本とし、毎週一回、放課後に校内の集会所で講義があった。文科の者も加わっていたが理科の生徒が多く、二十人位はいた。私達一年の仲間五、六人は先生のお宅にも始終お伺いしお話を聞きに行っていた。
 会は大学学生と予科生徒が主体で、日曜に会の集会に行くと先輩達が出ていて、ここでは社会問題の話が多かった。夏休、春休みには集会所に合宿をして研究会、討論会に参加していた。大学卒業生のほか社会人が参加して、後には緑旗連盟、緑旗開館もでき学外での活動をするようになってきた。
 姉崎正治、田中智学、山川知応など当代の日蓮学者の系統で、政治的には田中養正、里美岸雄(「天皇とプロレタリアート」の本を書いていた)に近かったかも知れない。マルクス、ヘーゲルに対する「円融弁証法」と名付けた史観の話は哲学科の先輩からきいた。国柱会々館では石原莞爾《いしわらかんじ》とか駒田ナニガシとかの軍人たちの名が日蓮主義者として身近に話されていた。後の事だが京大滝川事件に対する意見、討論もあった。
 しかし先生は「正しいものは強くなければならない」とよく言われていたが、政治にかんする話を聞いた覚えはない。学部に入り、卒業、更に就職後牡は一層立正会に遠のいたが津田門下としては変らず、十六年に結婚したとき朝鮮ホテルでの披露宴は先生ご夫妻に媒酌人になつて戴いた。年譜《=個人一代の履歴を年代順に記した》を見ると先生に初めてお会いしたのは先生三十五歳の時、媒酌人をお願いしたのは四十六歳のときであつた。
 先生は翌年の十七年に安部能成《あべよししげ》先生が第一高等学校の校長になり城大を去られたとき、同行して一高にかわられた。戦後にお会いしたときは清泉女子大に出ておられ、御自宅に「化学教育研究所」を設け、全国の学校教師に実験教育の場を提供しておられた。一高時代は戦時中の生徒主事、それも全国高校の筆頭主事として、化学教育のことは何も出来ぬ立場を辛抱されたと奥様から伺つた。

 以下は 「私の歩んだ理科教育の道」 中村、林、有川 編

 昭和五十七年 大日本図書株式会社発行 による先生の経歴
 大正五年(一九一六)第一高等学校二部乙類卒業、九年東京帝国大学理学部化学科卒業。同年慶応大学予科教授、十一年同大学医学部講師兼任。
 十三年(一九二四)京城大学予科教授。
 昭和二年ドイツ留学中、化学研究の途中で 学問の研究か教育の研究か と考えられたときに、「学問の研究」から「教育の研究」に転ずる決心をされた。
 予科化学教授のとき昭和五年からは十二年間朝鮮総督府視学委員として全鮮の小中学校をまわられている。
 戦後は二十二年に一高を辞任され、東京都日比谷高校に二十六年まで、以後は病臥《びょうが》される三十二年まで清泉女学院高等学校で高校生への「化学授業の実験」を続けられた。一方では、二十五年に清泉女子大の教授になり、同時にお茶の水女子大、東京理科大、学習院大の講師として「化学教育法の講義」を持たれた。
 大正十四年(一九二五) 「高等無機化学」を発刊されたのを初めとして、「高等学校の化学」、「中学生の理科」、「小学校の理科」等の著作がある。三十二年以後の病臥中も執筆を続け「化学通論」、「基礎無機化学」 の改訂版は昭和三十四、三十五年に、「化学実験法」の改訂版は没年《=死んだときの年》に出版された。
 理科教育センターが設立された翌年、三十六年(一九六一)に六十五歳でなくなられた。                               
 
 以上。

 いつも直接お話をうかがえたのは予科の二年間だったが学部に入った後も、会にはよく出ていた。立正会では、社会のあり方、医のあり方について私なりに感じる事があったと思うが、日蓮の教えを宗教として身にしみて感じたことは無い。
 今も父の後を受けて法事、墓参りは真言宗のお寺でし、高野山にもお詣りに行ったが、仏教に帰依《きえ》してのことではない。


(3)

 講義 
 予科の入学試験は内地人は中学校五年、朝鮮人は高等普通学校五年卒業が受験資格で内鮮人同じ試験を受けた。古文、英文、漢文の解釈や作文の文法問題では、どぅしても朝鮮人が不利なので、色々の非難はあり、朝鮮人の入学に制限を加えているとの風評《=うわさ》もあつたと言う。私の同期生の金君は平壤高等普通学校から只-人入学したが、「予科は平高普からは取らない」と生徒間に噂される程、今までの入学者は少なかつたと言っていた。
 初代予科部長は「最初より内地人並びに朝鮮人の区別をなさず、入学試験の如きも全く同一の標準をもっておこなった。-ー高等普通学校の増加と学力の向上で、朝鮮人の入学者は年と共に増加するであろう」と話しておられる。事実年と共に朝鮮人の入学者はふえている。
 大学卒業生の内鮮人別の数は別に記す。

  昭和五年の入学試験は 文科  志願者  三五九  入学者  七二
             理科  〃    六八五   〃   七一
 同期七十一人の内鮮別は分からぬ。原級に残されたのが九人いて一学年は八十人。A.B組四十人ずつの編制だつた。学部卒業の時には六十六人に減っていて、そのうちの十二人が朝鮮人だつた。

 予科の講義が内地の高校と違ったのは、必須科目に一年の図画、二年のラテン語があり、第二外国語のドイツ語は一、二年とも週に十時間あつたことだつた。
 図画は小、中学校以来の大の苦手、授業は胸像のデッサン、石井や佐々木に輪郭を書いてもらい、それをなぞつて提出していた。
 独逸語《ドイツ語》の先生は黒田、尾島、紅露、尹、斉藤とおられた。尹泰東先生は唯一人の朝鮮人の職員で、同じ東大独文の出身なのに後輩の斉藤先生とは違って教授ではなく講師だつた。気持ちの良い方で私たちはよくお宅に遊びに行っていた。京城《ソウル》の両班(ヤンパン)の家柄ではなかろうか、塀に囲まれた幾棟もの家のある邸宅で、奥さんもきれいな日本語で話しておられた。
 先生のお話では哲学の講義をする事になつていたのが、独逸語を持つ事になつたと言っておられた。予科の記録には何故か 朝鮮語講師 とある。懐かしい方だが予科には長くはおられず、その後は知らない。
 独逸語会話講師に J.フスさんがおられた。この方はなぜか フスと皆が呼び捨てにする。Hess で Fussではないと自分の足を叩《たた》いて発音するが生徒はなかなか正確な発音が出来なかった。私に Wangen Rot (赤いほっぺた)と渾名《あだな》を付けてくれた。
 外国人講師でも英語、羅甸語《ラテン語》の R,H,ブライスさんは、「傭外国人教師」で学者(ロンドン大学出身)として見られていたのに、{フス}は「講師」で学歴のないバイオリン引きとされていたのだろう。{ブライスさん}は後に学習院の英文学教授になられた。皇太子の先生になった方である。
 私がラテン語で落第点をとったのは、英語が聞き取れず講義が理解できなかったせいもあったろう。数学の講義もさっぱり理解できなかった。微積分の話を教室のゴミ入れのカゴを手に持って熱心に説明されるのだがさっぱり分からず、講義は聞かずに自分で参考書を見て理解した。この二つは「勉強は教室で講義を聞いておれば、大体理解できる」というわけにはいかなかった。
 教科書のない講義はどうも駄目だったようで、最近まで[教科書を何故か買い損なって持っておらず]、試験にうろたえる夢をよくみていた。 以上

 入学者の内鮮別を見ると
 昭和十七年十月現在学部在学者
        内地入   朝鮮人   計   朝鮮人の割合
  法文学部  一三六   一〇〇  二三六  四二、三%
   法学科   九二    七四  一六六  四四、五
   哲学科   一七    一一   二八
   史学科   一〇     六   一六
   文学科   一七     九   二六
  医学部   一五四   一〇二  二五六  三九、八
  理工学部  一三二    九六  二二八  四二、一
   計    四二二   二九三  七二〇  四一、四
 
 卒業者昭和一七年までの総計
   法学部   内     鮮
        五七二   三八七  九五九  四〇、三
   医学部
        六四七   二四〇  八八七  二七、〇

 
 

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編集者 (代理投稿)

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