朝鮮生まれの引揚者の雑記・その5
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編集者
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京城《ソウル》 城津《ソンジン》
昭和十一年 ~ 二十年
63・1・8 起筆
1.岩井内科
2.高周波工場医務室
3.高周波病院 医局員のこと
1 城大岩井内科と田中丸病院
十一年 (1936) 三月、卒業式の前から岩井内科教室にでていた。ここは学内で一番教室員が多く、この年はクラスからは十二人、学外からも四、五人入り、ノイヘレン(新入局者)は十五人をこえていた。新医局員の多くは半年から二年くらいの間に就職して教室を出て行くので、数はだんだん少なくなるが次の四月にはまたふくれあがる。
当時の流れは、基礎の大学院に入学し、二年を終えて研究所などに就職する者、臨床《=病室にのぞんで》教室にはいる者もいるが、大概はすぐ臨床教室に籍をおいた。入局後まもなしに兵役につく者、就職する者、何年も腰をすえて助手、講師になる者やいろいろだが、一、二年いて就職し、二、三年間学資を蓄《たくわ》えて戻り、学位論文の仕事にかかる例が多かった。
私は卒業すぐに就職せねばならぬと思ってはいたが、父の厄介にならずに済めば出来るだけ医局で勉強をしたいので、岩井教授にアルバイトの口をお願いしていた。
入局後まもなく教授は田中丸病院を世話してくださった。院長は大正の末に総督府病院内科(大学付属病院の前身)に東大からきた方で、京城《ソウル》の私立病院ではここだけが伝染病の病室を持っていた。
私の仕事は夕方本院に行って入院患者の回診をするのがおもで、たまには外来患者を診ることもある。その後は龍山《ヨンサン》駅前の分院に行ってここで寝泊りをする。分院には夜の患者さんが来ることは殆《ほとん》どない。
朝食を分院でとり電車で大学に行き、夕方車が迎えにきて本院に行く。ここで夕食をして車で分院に送ってもらう。日曜日の留守番をするときもあり、ここでは副院長と呼ばれるが仕事らしい仕事はない。それでいて暖房費も何も要らぬ住居があり、食事がつき、しかも手当てをもらっていて、医局での勉強には何も制限を受けなかった。
私は第七回の卒業で、入局したときの先輩には東大と慶応、京城医専の方がおり、城大卒業生の最古参は二回生で二人いた。一回生は道立病院に出ていかれた後だった。
教室員は入局後二年間は先輩の一人に二、三人ずつ割り当てられ、其の指導で入院患者を二、三人受け持つ。三年目からは Ober Arzt (上医・指導医)となって入院患者五、六人から十人くらいの責任担当医になり、後輩の指導をすることになる。私も入局三年目に後輩三人を預かった。教授から研究テーマを出された、「胃液の細胞診」。これは某先輩が途中でやめたテーマだとあとから聞いた。
このころには三回生以上の先輩はいなくなったし、同期の者も少なくなって忙しい毎日だった。文献調べと細胞学の勉強を始めたが、あまり興味を持っていないテーマなのではかどらず、研究らしい仕事もせずに医局を出てしまった。(アルバイトについては後に記す)。
また三年目からは副手手当てをもらうようになった。どのくらいだったのか思い出せないが、家に仕送りをする程ではない。就職のときにモーニングコートを着て挨拶回りをするしきたりだったが、この服は自分でつくったから余り使わずに貯めていたのだろう。分院、教室、本院の間を電車と自動車とで回っているので使い道もなかったのだろう。昼飯の学生弁当十五銭(?)を大学弁当二十五銭(?)にしたかもしれない。
教室によって教室員の少ないところでは、入るとすぐ有給副手になるし、或は正規の職員である助手にもなるが、医局《医師が控えている》員の多いところでは、なかなか、なれない。副手《=大学で助手の下の位置》の手当ては僅《わず》かだが、助手ならば正規の俸給《=勤労者に対する給与》を受けながら勉強が出来た。
大学には内科学は三講座有り、学生への講義は次のようだった。
第一内科 (岩井) 伝染病 呼吸器
第二 (伊藤) 消化器 内分泌 代謝
第三 (篠崎) 循環器 神経
一番の大所帯は一内で、二内が一番少なかった。医局員が少ないと逆に多くの患者を診ることが出来るからとニ内に入った者もいたが、このプロフェッサーはそっくりかえる感じで講義もよく欠講になり、こちらも講義に出ないことが多かったし、私には親しめない遠い存在だった。(後に書くことになるが二十八年に、この方が院長をしている霞が浦国立病院に勤めることになったが、次の年から内科の臨床を私に任せた後は一切診療に口を出されなかった)。
三内の教授は一番若く、講義は活発で理路整然としており、研究室の仕事はここが最も盛んだった。クラスからは五人入ったが、ここも自分の性に合わないと感じていた。
第一内科の岩井教授は、学生の時に、ポリクリ(外来患者診察)の丁寧な診察ぶりと理輪的な臨床講義とを好ましく思って、この先生に師事することに決めていた。
先生はまだ大学が開設される前の大正九年に、志賀潔先生に同行して慶応大学の助教授から朝鮮総督府病院にこられ、京城医専の教授を兼ねておられた。昭和三年に総督府病院は大学付属病院になり医学部教授になられた。昭和五年に第一回生が入局し以後毎年医局員は増えて学部一番の五、六十人になっていた。
父の次兄細野に、内科を選んだことを話した。伯父が内科学会の役員をしており、亦岩井家は古くからの友人であることを知った。先生は婿養子《=養子縁組によって婿となった》に行かれたので細野をよく知っておられ、これがコネになったかどうかは分らぬが、よい条件のお世話を戴いたと思っている。大変に叱られた事があるが、これは別に記す。
十一年に私が入局したときの城大出の医局員は前に記した二回生2のほか三回 2、四回3、五回4、六回3人、これに新入生が加わり城大出だけでも二十五人を越していた。十三年の秋に私は医局を出たが、この時に同期の者は三人に減っている。大概が二、三年の予定で簡易保険診療所や工場、鉱山の診療所に出て行き、その後研究室に戻り論文のアルバイトにかかっている。
中には私のように敗戦の時まで勤めを続け、あるいは召集を受けて敗戦になった者もいる。
2 城津《ソンジン》高周波工場 白石先生
十三年1938の秋に教授からこの工場の診療所に行くように言われた。眼科の早野教授からのお話で、先生と東大同期の城津の鉄道病院長、白石深蔵先生から工場診療所の内科医の紹介を頼まれになったとのことだった。創立草創《=創立したばかりの》の製鋼工場で操業の一方拡張工事を続けていて医務室は三、四年先には総合病院になる予定だとの事だった。その後白石先生が京城に出てこられ、早野先生の部屋でお会いして、行くことに決まった。総合病院になるときに外国留学をさせてもらう事になっていた。
日本高周波重工業株式会社は昭和十二年の創立で本社は京城に在り、社長は朝鮮殖産銀行頭取の有賀さん、工場長は専務の高橋省三さん。技師長も総務部長も四十台の若手で幹部も従業員も若い者が多い。
工場は東京の北品川と富山の魚津とにもあるが、今建設中の威鏡《ハムギョン》北道、城津《ソンジン》邑 双浦《ソウホ》のが最大の工場で、高周波電撃《げき》法という特殊な方法で鉄鉱石から鋼鉄・特殊鋼を一貫作業で造る。この製鉄法は前から特許になっていたのを、事業家高橋さんが取り上げ殖産銀行を動かして会社を設立し、豊富な水力電気、鉱石、石炭・港の好条件が揃った城津《ソンジン》が工場地に選ばれたと言う。軍需工業として緊急な拡張工事が続けられている。
城津《ソンジン》は昔からの港町で、大韓帝国が鎖国《=国が外国との通商や交易を禁止》をといたときに開港した港の一つであった。京城《ソウル》を夜九時すぎの急行に乗って次の日の昼、三時頃についた。当時の汽車で東京~下関くらいの距離になろうか。私が行ったときはまだ城津邑《ソンジンむら》(町)だったがいつか城津府(市)になった。人口は三、四万?。 工場はこの港町から峠を越えて一里(四キロ)余りはなれた双浦の海岸にあり、電撃、製鋼、鍛造《たんぞう=金属を加熱し打ち延ばしてねばり強さをあたえる》等等の工場は日夜二十四時間仕事を続けていた。
私が赴任したときは社宅が足らなくて翌年まで、城津の旅館から双浦に通っていた。医務室は工場内にあって、以前から鉄道病院の女医さんが看護婦を連れて通っていたが、私が行ってからも引続き勤めて外科を診てくれるので、私は内科を診ていた。もともと内科を診る約束だったがやむを得ず小児科を診たことがあった(コノコトハ後ニ記ルス)。外科は翌年城大から安藤君がきて女医さんと交代した。
白石先生は明治の未に東京大学佐藤外科教室から朝鮮の日本人「民団」の時代に派遣され、そのままここから移る事なく診療生活を続けておられる方と聞いた。先生からは「東大から島流しをきれた俊寛《=平家討伐を謀って密告され鬼界島にながされた》の心境を伺ったことがある。少しここより北にある吉州にも同じような方がいらっしゃったが御名前は忘れた。
先生は初めから会社の医務の顧問になっておられ、病院設立の時には院長の推薦もなさった。総督府鉄道局の病院長を委託されていて、官選の道会議員(県会議員)を永年長年なっているが一度も発言したことはないと言っておられた。世間的な名誉や金銭には全く恬淡《てんたん=ものごとに執着しない》とした方だった。早野教授と同期ならばまだ六十前のはず、泰然《=動じない》とした老大家だが人力車で気軽に往診もなさっていた。お酒がお好きで、二日酔いの日は頭に鉢巻して休診、町の人は皆知っていて何も言わない。
小柄で控え目な奥様と御嬢様が二人おられた。も一人の上の方は内地に嫁がれていて私は知らない。城津には学校がないので元山の女学校を出たお二人が家におられた。お嬢さんはいつも喜んで迎えて下さったと思う。私はしょっちゅう行っていたし、安藤君が来てからもよく行っては、お二人の手作りをご馳走になっていた。先生は碁を打たれるが独学だと言われる。私は駄目だが安藤君は勝負になるようだった。シーズン中は六大学野球のラジオ放送をよく聞いていらした。
私が結婚し、召集を受け、帰った後は病院が忙しく戦争が激しくなるにつれて段々足が遠くなってしまい、二十年八月十五日以後は城津に行くことが出来ぬ儘《まま》、連絡無しにご一家は日本に引き揚げられた。
後年、浦和にお住まいになっていると聞いてお訪ねした。奥様は既に亡くなられ、先生ご自身は緑内障で突然失明されたよしで、いかにもご不自由な御様子で体力も随分衰《おとろ》えられていた。城津《ソンジン》のときからの婦人がお世話をしていた。お嬢様お二人は結婚されて岡山と東京におられ、その後先生のお葬式の時にお会いしたが、それからの消息は分からぬ儘になってしまった。
3 工場医務室 のころ
赴任早々の城津の旅館から通っていたころは・宿にもどれば自分の時間でのんびりできていた。工場は昼夜操業をしており、工場の増設、道路、合宿、社宅、港湾等の建設が威勢よく進行していた。十四年の春に社宅が出来たので双浦に移った。三百号社宅と言われる三間の家で、港湾係の(老?)夫婦と独身の設計係とで一間ずつに住んだ。
食事は一日三回会社の食堂に行った。ここでは工員も事務職員も一緒に狭い所で長椅子に腰掛け、自分で飯を盛って食事をしていた。それだけ草創期の者たちには、後々まで「皆が同じ釜の飯を喰った」同士的な連帯感がのこつていたと思位後だと思う。
課長、主任、社員社宅は一戸建てで、四百、六百号は二戸続き、工員社宅は長屋だった。一階建ての独身社員寮、二階建ての独身工員寮が完成し、工員クラブ、社員クラブ、デパート風の大きな店、映画館を兼ねた公会堂などが次々に建ち、郵便局、警察署もできた。工場は三交代で二十四時間休む事なく動いていた。
(夜間勤務後の休養室設備を福祉係と相談したが、とうとう実現できなった)。
工場も社宅も活気にみちていた。私も忙しいのは苦にならず診療の他、粉砕、電撃、製鋼、鍛造《たんぞう》、圧延、熱処理などの現場によく見回りに行った。毎月の工場の社報に保健衛生の記事を書き、その季節に多い病気のラジオ放送もした。工員養成所では保健の時間を受け持って講義をしていた。
日曜祭日も舎宅にいると呼び出しを受けるので、どうしても休みたいときは汽車に乗り朱乙《チュウル》辺りまで出かけている。社内で私を休ませようという提言があって七月に一と月の休暇がでた。東京の家に帰ったが清瀬お母さんは湯河原の門川で転地療養をしていらした。
この時は工場医務室のあり方に就いて、京浜地区の工場を方々見せて貰い、労働科学研究所にも行った。「労働時の疲労の客観的判定」に就いて考えていたので質問したが、研究中とのことでヒントは貰えなかった。岡山から青山に移転して間もない頃だと思う。
高周波病院
十五年になってバラックの仮病舎が建ち内科の村田院長、外科の副院長、小児科、歯科がそろった。耳鼻科、皮膚科、眼科はもっと後だった。内科は三人になり、病室が出来たので往診は少なくなりずつと暇になった。しかし院長は診察には余り熱心でなく新病院の建椴《けんたん》にカを入れておられた。
医局員が多くなったことは遊び相手が多いことで、将棋、碁、麻雀はことに盛んだった。その中心は副院長で下心有ってのことかも知れなかった。(コレハ後こ記ルス)。又小児科医長も気に人らぬと思ったが段々行動がおかしくなり、麻薬中毒とわかり辞めて行った。後任の医長も気に入らなかった(コレモ後ニ記ルス)。
十六年春 本病院が開設した。ベット数百五十、北鮮随一の総合病院と言われた。内科3、外科2、小児科2、産婦人科、放射線科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各1、歯科2の医局員。外科診療助手1、マッサージ師1。歯科技工士1、放射線技師1、検査技師3、助手1。薬剤師3、助手1。調理師1。看護婦が何人いたのか忘れた。付属看護婦養成所も同時に開所した。
院長は白石先生の推薦で元山道立病院院長を辞めて来られた方で内科医長、京大、五十歳前半。副院長は内地からきた京大外科荒木教授推薦、外科医長、四十歳後半?。放射線も京大だがこの方は京城に実家がある、安藤君の義兄、三十歳後半。産婦人科は咸興《ハムフン》道立病院からこられた東大、四十歳後半、二代目の院長。
小児科、眼科も道立病院からきた医専、四十歳後半と前半。耳鼻科、皮膚科は城大、三十歳前半と後半。歯科は東大歯科教室からきた東京歯科医専、三十歳後半。
これに医員が外科、内科の城大二人、内科の平壌医専一、小児科の大邱医専一、歯科医一の五人、皆三十歳前後。薬局長と、事務長も道立病院からきた五十歳半ば?。検査室に東大坂口内科からの室長ら優秀な技師が三人も揃えられたのは嬉しいことだった。
開院に当たって、会社の看板は医長全員が学位を取っていることだったようだ。歯科、耳鼻科、皮膚科はとったばかりだが、外科の安藤君はずつと前に取っており卒業も先輩になる。上に副院長で外科医長が来たので、ちとおかしな立場だなと思った。病院社宅が出来たとき、安藤者と私とには医長舎宅が用意されていた。会社は私たち二人の処遇苦労したのだろうか。
社宅は緩い坂道の左右に建っていて、正面高いところが院長、その横に副院長宅。その下に一戸建ての八、八、六、四・半、三畳の医長舎宅。二戸続きの医員、事務員の舎宅と並んでいる。官庁と同じに上から序列の順に割り当てられて、安藤君と私がどんけつだった。
副院長に何故一人朝鮮を知らぬ人が京都からきたのか分からない。工場の技師長、院長が京大だったからか。京都が三人、城大が四人。眼科、小児科も城大で仕事をした人だが院内に学閥争いが有ったわけではない。
私はこの年の秋召集を受け、十八年一月に復帰した。戻ったときには眼科、外科、放射線、歯科医長、事務長は辞めていた。(軍隊生活ニ就イテハ別ニ記ス)。
歯科は、歯科医師が特別措置で医師の資格を取得出来るようになり、その教育を受けるために辞め、眼科は宿直の時に診た子供さんがジフテリーだったのを軽くあしらって手遅れにしたと、家族からしつこく言われて、嫌になって辞めたように聞いた。引揚げ後歯科、放射線とはよく会った。歯科は内科に転向していた。眼科の消息は知らない。
副院長に就いては別に記す。
高田さん
高田さんは卒業が遅れて、副院長より後になっているが年は上と聞いた。
大言壮語型《=自分の力以上に大きいことを言う》の副院長には我関せずで音楽、写真に深い造詣《=学問または技芸に深く達している》を持っておられ、碁や麻雀ではなく、焼物やゴルフが院長と共通の趣味だった。
私が十八年一月に復帰して間もなく、院長が発疹チフス《=法定伝染病》で亡くなられた。殉職に対する会社の措置に不満があったので、安藤君と二人で高田産婦人科医長を誘い三人で工場長に交渉に行った。会社葬にする事と、弔慰金《ちょういきん=弔意の気持ちをこめて遺族におくるお金》の額を確かめることだったと思う。高田さんは前から辞意を云っておられたが二人に同調してくださった。
城津《ソンジン》は伝染病の多いところ。内科の診療中に患者の背中に蚤《のみ》が這っている。発疹チフスはこれが媒介《ばいかい=双方の間にたってなかだち》する。院長がかかったときは京城《ソウル》から岩井教授に来て頂いたが駄目だった。特効薬の無い時代で、年輩者の死亡率は高かった。次の年に私もかかった、片山君に助けて貰った。私の時も京城《ソウル》から助教授が来てくださったと聞くが、意識不明が続いていて何も知っていない。
後任の院長には城大の四人(外科、耳鼻科、皮膚科、内科)は高田さんにお願いすることに決めて動いた。大学から会社に高田氏推薦の報があったと云うが、大沢教授辺りからではなかったううか、皮膚科の赴任には大沢教授が関与しておられる。私はそこまでは動いていない。
後任を引き受けるに就《つ》いて、会社から小児科医長を副院長にすること、私を内科医長にすることの注文が付いていると言われ、私の意見を聞かれた。
内科は医師を一人増やして貰えばやって行けると思う。小児科は副院長の器ではないと思っているので反対だ。あなたに院長になって頂きたいから、会社がどうしてもと言うのなら、名前だけのことにして欲しい旨の返事をした。(そのようになった為であろうか、敗戦のときの対応は院長がー人で当たられた)。
高田院長は就任後よく動いてくださった。内科に関しては早速医師を一人採用し、胸部Ⅹ線間接撮影装置をいれて結核の集団検診を始め、も少し後になるが私が提唱していた健康管理料の準備に看護婦を一人配置してくださった。亦《また》、興南《フンナム》の朝鮮窒素k.kと話し合って労働科学研究所の朝鮮支部も発足した。
私の国内留学に就いても、会社、大学に話してくださったが、岩井、大沢教授の間がうまく行かなかったこともありご破算になった。
二十年八月日本敗戦の時ロスケ《ロシア人をあざけって言うことば》が来た大混乱のなかで高周波病院解散を宣言されるまで、戦後の処理を独りでやられた苦労は大変なことだった。
病院解散、院長退任表明の後はご自分一家だけの生活になり、抑留《=強制的に留め置く》中は歯科医長と元の道立病院で仕事をつづけ、年が明けてから家族は闇船《やみぶね=正規のルートではない》で帰国させ、身軽になっておられた。後に道立病院の仲間とー諸に脱出を企てたが失敗し、帰国は私どもと一緒になった。
闇船が順調に港を出ている十月、船頭と打ち合わせて海上で船に乗り移ることを計画し、小舟に乗り沖に出て船を待っていたが夜明けになってもこないので戻ってきた。闇船は夜の出航前に荷物の点検があり、不審な荷物から道立病院長の勲記《くんき=勲章者に勲章とともに与えられる証書》、勲章が見つかり出航は取りやめになったと聞く。
引揚げ後北品川の会社に同行したが交渉は無駄だった。
しばらくは埼玉の病院に勤めておられたが歯科医長の郷里、山形の新庄で開業され大変な名声だったという。ここには歯科と耳鼻科も開業したがうまくいったのはお一人だけで、仙台学会の後お訪ねしたときは、二人はいなくなっていた。晩年は病院を閉鎖し、神奈川の秦野《はたの》で娘さんの家族と暮らしておられた。
私の七十の祝いの会を熱海でやったときには喜んで出てくださった。奥さんは外出が不如意《=思いのままにならない》とのことでお一人で見えた。
病院の同僚とは個々に会ってはいるが、皆が一緒に集まったことはないので、七十の祝いにかこつけて夫婦で来てもらうように声をかけた。岡山、兵庫、大阪東京、茨城、から揃って出てきてくれ、帰国以来初の対面の者もいた。
住所は分かり年賀状の交換をしているが、敗戦の時のあり方が気に入らない二人には意識して声をかけなかった。もう一人は亡くなった。
以上
この記事を読み返すと、我ながらなかなか執念深い男だなと思う。
他に同僚の記事はあるが、今度の印刷は止めにする(平成二年三月)。
終わり。
昭和十一年 ~ 二十年
63・1・8 起筆
1.岩井内科
2.高周波工場医務室
3.高周波病院 医局員のこと
1 城大岩井内科と田中丸病院
十一年 (1936) 三月、卒業式の前から岩井内科教室にでていた。ここは学内で一番教室員が多く、この年はクラスからは十二人、学外からも四、五人入り、ノイヘレン(新入局者)は十五人をこえていた。新医局員の多くは半年から二年くらいの間に就職して教室を出て行くので、数はだんだん少なくなるが次の四月にはまたふくれあがる。
当時の流れは、基礎の大学院に入学し、二年を終えて研究所などに就職する者、臨床《=病室にのぞんで》教室にはいる者もいるが、大概はすぐ臨床教室に籍をおいた。入局後まもなしに兵役につく者、就職する者、何年も腰をすえて助手、講師になる者やいろいろだが、一、二年いて就職し、二、三年間学資を蓄《たくわ》えて戻り、学位論文の仕事にかかる例が多かった。
私は卒業すぐに就職せねばならぬと思ってはいたが、父の厄介にならずに済めば出来るだけ医局で勉強をしたいので、岩井教授にアルバイトの口をお願いしていた。
入局後まもなく教授は田中丸病院を世話してくださった。院長は大正の末に総督府病院内科(大学付属病院の前身)に東大からきた方で、京城《ソウル》の私立病院ではここだけが伝染病の病室を持っていた。
私の仕事は夕方本院に行って入院患者の回診をするのがおもで、たまには外来患者を診ることもある。その後は龍山《ヨンサン》駅前の分院に行ってここで寝泊りをする。分院には夜の患者さんが来ることは殆《ほとん》どない。
朝食を分院でとり電車で大学に行き、夕方車が迎えにきて本院に行く。ここで夕食をして車で分院に送ってもらう。日曜日の留守番をするときもあり、ここでは副院長と呼ばれるが仕事らしい仕事はない。それでいて暖房費も何も要らぬ住居があり、食事がつき、しかも手当てをもらっていて、医局での勉強には何も制限を受けなかった。
私は第七回の卒業で、入局したときの先輩には東大と慶応、京城医専の方がおり、城大卒業生の最古参は二回生で二人いた。一回生は道立病院に出ていかれた後だった。
教室員は入局後二年間は先輩の一人に二、三人ずつ割り当てられ、其の指導で入院患者を二、三人受け持つ。三年目からは Ober Arzt (上医・指導医)となって入院患者五、六人から十人くらいの責任担当医になり、後輩の指導をすることになる。私も入局三年目に後輩三人を預かった。教授から研究テーマを出された、「胃液の細胞診」。これは某先輩が途中でやめたテーマだとあとから聞いた。
このころには三回生以上の先輩はいなくなったし、同期の者も少なくなって忙しい毎日だった。文献調べと細胞学の勉強を始めたが、あまり興味を持っていないテーマなのではかどらず、研究らしい仕事もせずに医局を出てしまった。(アルバイトについては後に記す)。
また三年目からは副手手当てをもらうようになった。どのくらいだったのか思い出せないが、家に仕送りをする程ではない。就職のときにモーニングコートを着て挨拶回りをするしきたりだったが、この服は自分でつくったから余り使わずに貯めていたのだろう。分院、教室、本院の間を電車と自動車とで回っているので使い道もなかったのだろう。昼飯の学生弁当十五銭(?)を大学弁当二十五銭(?)にしたかもしれない。
教室によって教室員の少ないところでは、入るとすぐ有給副手になるし、或は正規の職員である助手にもなるが、医局《医師が控えている》員の多いところでは、なかなか、なれない。副手《=大学で助手の下の位置》の手当ては僅《わず》かだが、助手ならば正規の俸給《=勤労者に対する給与》を受けながら勉強が出来た。
大学には内科学は三講座有り、学生への講義は次のようだった。
第一内科 (岩井) 伝染病 呼吸器
第二 (伊藤) 消化器 内分泌 代謝
第三 (篠崎) 循環器 神経
一番の大所帯は一内で、二内が一番少なかった。医局員が少ないと逆に多くの患者を診ることが出来るからとニ内に入った者もいたが、このプロフェッサーはそっくりかえる感じで講義もよく欠講になり、こちらも講義に出ないことが多かったし、私には親しめない遠い存在だった。(後に書くことになるが二十八年に、この方が院長をしている霞が浦国立病院に勤めることになったが、次の年から内科の臨床を私に任せた後は一切診療に口を出されなかった)。
三内の教授は一番若く、講義は活発で理路整然としており、研究室の仕事はここが最も盛んだった。クラスからは五人入ったが、ここも自分の性に合わないと感じていた。
第一内科の岩井教授は、学生の時に、ポリクリ(外来患者診察)の丁寧な診察ぶりと理輪的な臨床講義とを好ましく思って、この先生に師事することに決めていた。
先生はまだ大学が開設される前の大正九年に、志賀潔先生に同行して慶応大学の助教授から朝鮮総督府病院にこられ、京城医専の教授を兼ねておられた。昭和三年に総督府病院は大学付属病院になり医学部教授になられた。昭和五年に第一回生が入局し以後毎年医局員は増えて学部一番の五、六十人になっていた。
父の次兄細野に、内科を選んだことを話した。伯父が内科学会の役員をしており、亦岩井家は古くからの友人であることを知った。先生は婿養子《=養子縁組によって婿となった》に行かれたので細野をよく知っておられ、これがコネになったかどうかは分らぬが、よい条件のお世話を戴いたと思っている。大変に叱られた事があるが、これは別に記す。
十一年に私が入局したときの城大出の医局員は前に記した二回生2のほか三回 2、四回3、五回4、六回3人、これに新入生が加わり城大出だけでも二十五人を越していた。十三年の秋に私は医局を出たが、この時に同期の者は三人に減っている。大概が二、三年の予定で簡易保険診療所や工場、鉱山の診療所に出て行き、その後研究室に戻り論文のアルバイトにかかっている。
中には私のように敗戦の時まで勤めを続け、あるいは召集を受けて敗戦になった者もいる。
2 城津《ソンジン》高周波工場 白石先生
十三年1938の秋に教授からこの工場の診療所に行くように言われた。眼科の早野教授からのお話で、先生と東大同期の城津の鉄道病院長、白石深蔵先生から工場診療所の内科医の紹介を頼まれになったとのことだった。創立草創《=創立したばかりの》の製鋼工場で操業の一方拡張工事を続けていて医務室は三、四年先には総合病院になる予定だとの事だった。その後白石先生が京城に出てこられ、早野先生の部屋でお会いして、行くことに決まった。総合病院になるときに外国留学をさせてもらう事になっていた。
日本高周波重工業株式会社は昭和十二年の創立で本社は京城に在り、社長は朝鮮殖産銀行頭取の有賀さん、工場長は専務の高橋省三さん。技師長も総務部長も四十台の若手で幹部も従業員も若い者が多い。
工場は東京の北品川と富山の魚津とにもあるが、今建設中の威鏡《ハムギョン》北道、城津《ソンジン》邑 双浦《ソウホ》のが最大の工場で、高周波電撃《げき》法という特殊な方法で鉄鉱石から鋼鉄・特殊鋼を一貫作業で造る。この製鉄法は前から特許になっていたのを、事業家高橋さんが取り上げ殖産銀行を動かして会社を設立し、豊富な水力電気、鉱石、石炭・港の好条件が揃った城津《ソンジン》が工場地に選ばれたと言う。軍需工業として緊急な拡張工事が続けられている。
城津《ソンジン》は昔からの港町で、大韓帝国が鎖国《=国が外国との通商や交易を禁止》をといたときに開港した港の一つであった。京城《ソウル》を夜九時すぎの急行に乗って次の日の昼、三時頃についた。当時の汽車で東京~下関くらいの距離になろうか。私が行ったときはまだ城津邑《ソンジンむら》(町)だったがいつか城津府(市)になった。人口は三、四万?。 工場はこの港町から峠を越えて一里(四キロ)余りはなれた双浦の海岸にあり、電撃、製鋼、鍛造《たんぞう=金属を加熱し打ち延ばしてねばり強さをあたえる》等等の工場は日夜二十四時間仕事を続けていた。
私が赴任したときは社宅が足らなくて翌年まで、城津の旅館から双浦に通っていた。医務室は工場内にあって、以前から鉄道病院の女医さんが看護婦を連れて通っていたが、私が行ってからも引続き勤めて外科を診てくれるので、私は内科を診ていた。もともと内科を診る約束だったがやむを得ず小児科を診たことがあった(コノコトハ後ニ記ルス)。外科は翌年城大から安藤君がきて女医さんと交代した。
白石先生は明治の未に東京大学佐藤外科教室から朝鮮の日本人「民団」の時代に派遣され、そのままここから移る事なく診療生活を続けておられる方と聞いた。先生からは「東大から島流しをきれた俊寛《=平家討伐を謀って密告され鬼界島にながされた》の心境を伺ったことがある。少しここより北にある吉州にも同じような方がいらっしゃったが御名前は忘れた。
先生は初めから会社の医務の顧問になっておられ、病院設立の時には院長の推薦もなさった。総督府鉄道局の病院長を委託されていて、官選の道会議員(県会議員)を永年長年なっているが一度も発言したことはないと言っておられた。世間的な名誉や金銭には全く恬淡《てんたん=ものごとに執着しない》とした方だった。早野教授と同期ならばまだ六十前のはず、泰然《=動じない》とした老大家だが人力車で気軽に往診もなさっていた。お酒がお好きで、二日酔いの日は頭に鉢巻して休診、町の人は皆知っていて何も言わない。
小柄で控え目な奥様と御嬢様が二人おられた。も一人の上の方は内地に嫁がれていて私は知らない。城津には学校がないので元山の女学校を出たお二人が家におられた。お嬢さんはいつも喜んで迎えて下さったと思う。私はしょっちゅう行っていたし、安藤君が来てからもよく行っては、お二人の手作りをご馳走になっていた。先生は碁を打たれるが独学だと言われる。私は駄目だが安藤君は勝負になるようだった。シーズン中は六大学野球のラジオ放送をよく聞いていらした。
私が結婚し、召集を受け、帰った後は病院が忙しく戦争が激しくなるにつれて段々足が遠くなってしまい、二十年八月十五日以後は城津に行くことが出来ぬ儘《まま》、連絡無しにご一家は日本に引き揚げられた。
後年、浦和にお住まいになっていると聞いてお訪ねした。奥様は既に亡くなられ、先生ご自身は緑内障で突然失明されたよしで、いかにもご不自由な御様子で体力も随分衰《おとろ》えられていた。城津《ソンジン》のときからの婦人がお世話をしていた。お嬢様お二人は結婚されて岡山と東京におられ、その後先生のお葬式の時にお会いしたが、それからの消息は分からぬ儘になってしまった。
3 工場医務室 のころ
赴任早々の城津の旅館から通っていたころは・宿にもどれば自分の時間でのんびりできていた。工場は昼夜操業をしており、工場の増設、道路、合宿、社宅、港湾等の建設が威勢よく進行していた。十四年の春に社宅が出来たので双浦に移った。三百号社宅と言われる三間の家で、港湾係の(老?)夫婦と独身の設計係とで一間ずつに住んだ。
食事は一日三回会社の食堂に行った。ここでは工員も事務職員も一緒に狭い所で長椅子に腰掛け、自分で飯を盛って食事をしていた。それだけ草創期の者たちには、後々まで「皆が同じ釜の飯を喰った」同士的な連帯感がのこつていたと思位後だと思う。
課長、主任、社員社宅は一戸建てで、四百、六百号は二戸続き、工員社宅は長屋だった。一階建ての独身社員寮、二階建ての独身工員寮が完成し、工員クラブ、社員クラブ、デパート風の大きな店、映画館を兼ねた公会堂などが次々に建ち、郵便局、警察署もできた。工場は三交代で二十四時間休む事なく動いていた。
(夜間勤務後の休養室設備を福祉係と相談したが、とうとう実現できなった)。
工場も社宅も活気にみちていた。私も忙しいのは苦にならず診療の他、粉砕、電撃、製鋼、鍛造《たんぞう》、圧延、熱処理などの現場によく見回りに行った。毎月の工場の社報に保健衛生の記事を書き、その季節に多い病気のラジオ放送もした。工員養成所では保健の時間を受け持って講義をしていた。
日曜祭日も舎宅にいると呼び出しを受けるので、どうしても休みたいときは汽車に乗り朱乙《チュウル》辺りまで出かけている。社内で私を休ませようという提言があって七月に一と月の休暇がでた。東京の家に帰ったが清瀬お母さんは湯河原の門川で転地療養をしていらした。
この時は工場医務室のあり方に就いて、京浜地区の工場を方々見せて貰い、労働科学研究所にも行った。「労働時の疲労の客観的判定」に就いて考えていたので質問したが、研究中とのことでヒントは貰えなかった。岡山から青山に移転して間もない頃だと思う。
高周波病院
十五年になってバラックの仮病舎が建ち内科の村田院長、外科の副院長、小児科、歯科がそろった。耳鼻科、皮膚科、眼科はもっと後だった。内科は三人になり、病室が出来たので往診は少なくなりずつと暇になった。しかし院長は診察には余り熱心でなく新病院の建椴《けんたん》にカを入れておられた。
医局員が多くなったことは遊び相手が多いことで、将棋、碁、麻雀はことに盛んだった。その中心は副院長で下心有ってのことかも知れなかった。(コレハ後こ記ルス)。又小児科医長も気に人らぬと思ったが段々行動がおかしくなり、麻薬中毒とわかり辞めて行った。後任の医長も気に入らなかった(コレモ後ニ記ルス)。
十六年春 本病院が開設した。ベット数百五十、北鮮随一の総合病院と言われた。内科3、外科2、小児科2、産婦人科、放射線科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各1、歯科2の医局員。外科診療助手1、マッサージ師1。歯科技工士1、放射線技師1、検査技師3、助手1。薬剤師3、助手1。調理師1。看護婦が何人いたのか忘れた。付属看護婦養成所も同時に開所した。
院長は白石先生の推薦で元山道立病院院長を辞めて来られた方で内科医長、京大、五十歳前半。副院長は内地からきた京大外科荒木教授推薦、外科医長、四十歳後半?。放射線も京大だがこの方は京城に実家がある、安藤君の義兄、三十歳後半。産婦人科は咸興《ハムフン》道立病院からこられた東大、四十歳後半、二代目の院長。
小児科、眼科も道立病院からきた医専、四十歳後半と前半。耳鼻科、皮膚科は城大、三十歳前半と後半。歯科は東大歯科教室からきた東京歯科医専、三十歳後半。
これに医員が外科、内科の城大二人、内科の平壌医専一、小児科の大邱医専一、歯科医一の五人、皆三十歳前後。薬局長と、事務長も道立病院からきた五十歳半ば?。検査室に東大坂口内科からの室長ら優秀な技師が三人も揃えられたのは嬉しいことだった。
開院に当たって、会社の看板は医長全員が学位を取っていることだったようだ。歯科、耳鼻科、皮膚科はとったばかりだが、外科の安藤君はずつと前に取っており卒業も先輩になる。上に副院長で外科医長が来たので、ちとおかしな立場だなと思った。病院社宅が出来たとき、安藤者と私とには医長舎宅が用意されていた。会社は私たち二人の処遇苦労したのだろうか。
社宅は緩い坂道の左右に建っていて、正面高いところが院長、その横に副院長宅。その下に一戸建ての八、八、六、四・半、三畳の医長舎宅。二戸続きの医員、事務員の舎宅と並んでいる。官庁と同じに上から序列の順に割り当てられて、安藤君と私がどんけつだった。
副院長に何故一人朝鮮を知らぬ人が京都からきたのか分からない。工場の技師長、院長が京大だったからか。京都が三人、城大が四人。眼科、小児科も城大で仕事をした人だが院内に学閥争いが有ったわけではない。
私はこの年の秋召集を受け、十八年一月に復帰した。戻ったときには眼科、外科、放射線、歯科医長、事務長は辞めていた。(軍隊生活ニ就イテハ別ニ記ス)。
歯科は、歯科医師が特別措置で医師の資格を取得出来るようになり、その教育を受けるために辞め、眼科は宿直の時に診た子供さんがジフテリーだったのを軽くあしらって手遅れにしたと、家族からしつこく言われて、嫌になって辞めたように聞いた。引揚げ後歯科、放射線とはよく会った。歯科は内科に転向していた。眼科の消息は知らない。
副院長に就いては別に記す。
高田さん
高田さんは卒業が遅れて、副院長より後になっているが年は上と聞いた。
大言壮語型《=自分の力以上に大きいことを言う》の副院長には我関せずで音楽、写真に深い造詣《=学問または技芸に深く達している》を持っておられ、碁や麻雀ではなく、焼物やゴルフが院長と共通の趣味だった。
私が十八年一月に復帰して間もなく、院長が発疹チフス《=法定伝染病》で亡くなられた。殉職に対する会社の措置に不満があったので、安藤君と二人で高田産婦人科医長を誘い三人で工場長に交渉に行った。会社葬にする事と、弔慰金《ちょういきん=弔意の気持ちをこめて遺族におくるお金》の額を確かめることだったと思う。高田さんは前から辞意を云っておられたが二人に同調してくださった。
城津《ソンジン》は伝染病の多いところ。内科の診療中に患者の背中に蚤《のみ》が這っている。発疹チフスはこれが媒介《ばいかい=双方の間にたってなかだち》する。院長がかかったときは京城《ソウル》から岩井教授に来て頂いたが駄目だった。特効薬の無い時代で、年輩者の死亡率は高かった。次の年に私もかかった、片山君に助けて貰った。私の時も京城《ソウル》から助教授が来てくださったと聞くが、意識不明が続いていて何も知っていない。
後任の院長には城大の四人(外科、耳鼻科、皮膚科、内科)は高田さんにお願いすることに決めて動いた。大学から会社に高田氏推薦の報があったと云うが、大沢教授辺りからではなかったううか、皮膚科の赴任には大沢教授が関与しておられる。私はそこまでは動いていない。
後任を引き受けるに就《つ》いて、会社から小児科医長を副院長にすること、私を内科医長にすることの注文が付いていると言われ、私の意見を聞かれた。
内科は医師を一人増やして貰えばやって行けると思う。小児科は副院長の器ではないと思っているので反対だ。あなたに院長になって頂きたいから、会社がどうしてもと言うのなら、名前だけのことにして欲しい旨の返事をした。(そのようになった為であろうか、敗戦のときの対応は院長がー人で当たられた)。
高田院長は就任後よく動いてくださった。内科に関しては早速医師を一人採用し、胸部Ⅹ線間接撮影装置をいれて結核の集団検診を始め、も少し後になるが私が提唱していた健康管理料の準備に看護婦を一人配置してくださった。亦《また》、興南《フンナム》の朝鮮窒素k.kと話し合って労働科学研究所の朝鮮支部も発足した。
私の国内留学に就いても、会社、大学に話してくださったが、岩井、大沢教授の間がうまく行かなかったこともありご破算になった。
二十年八月日本敗戦の時ロスケ《ロシア人をあざけって言うことば》が来た大混乱のなかで高周波病院解散を宣言されるまで、戦後の処理を独りでやられた苦労は大変なことだった。
病院解散、院長退任表明の後はご自分一家だけの生活になり、抑留《=強制的に留め置く》中は歯科医長と元の道立病院で仕事をつづけ、年が明けてから家族は闇船《やみぶね=正規のルートではない》で帰国させ、身軽になっておられた。後に道立病院の仲間とー諸に脱出を企てたが失敗し、帰国は私どもと一緒になった。
闇船が順調に港を出ている十月、船頭と打ち合わせて海上で船に乗り移ることを計画し、小舟に乗り沖に出て船を待っていたが夜明けになってもこないので戻ってきた。闇船は夜の出航前に荷物の点検があり、不審な荷物から道立病院長の勲記《くんき=勲章者に勲章とともに与えられる証書》、勲章が見つかり出航は取りやめになったと聞く。
引揚げ後北品川の会社に同行したが交渉は無駄だった。
しばらくは埼玉の病院に勤めておられたが歯科医長の郷里、山形の新庄で開業され大変な名声だったという。ここには歯科と耳鼻科も開業したがうまくいったのはお一人だけで、仙台学会の後お訪ねしたときは、二人はいなくなっていた。晩年は病院を閉鎖し、神奈川の秦野《はたの》で娘さんの家族と暮らしておられた。
私の七十の祝いの会を熱海でやったときには喜んで出てくださった。奥さんは外出が不如意《=思いのままにならない》とのことでお一人で見えた。
病院の同僚とは個々に会ってはいるが、皆が一緒に集まったことはないので、七十の祝いにかこつけて夫婦で来てもらうように声をかけた。岡山、兵庫、大阪東京、茨城、から揃って出てきてくれ、帰国以来初の対面の者もいた。
住所は分かり年賀状の交換をしているが、敗戦の時のあり方が気に入らない二人には意識して声をかけなかった。もう一人は亡くなった。
以上
この記事を読み返すと、我ながらなかなか執念深い男だなと思う。
他に同僚の記事はあるが、今度の印刷は止めにする(平成二年三月)。
終わり。
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編集者 (代理投稿)