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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2

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通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/25 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(1)

  京城帝国大学予科
  昭和五年四月~七年三月 (一九三〇~一九三二)
  昭和五年四月予科入学

筑波館
 この年の入学試験は受験生宛にきた案内の「筑波館」に泊まってた。
 筑波館は老夫婦が学生相手にやっている下宿屋で、黄金町四丁目に在り大学、商工、高商、医専、薬専に歩いて通える。春休みで学生が帰省して空いた部屋に、受験生を泊めていた。泊めた受験生から何人合格者をだすかが毎年の老主人の関心事で、熱心に世話をしてくれ、十余人の同宿受験生と共に合格祈願に朝鮮神宮に参拝に連れていかれた。
 予科《=旧制高等学校に相当する課程》に入学したのはこの内の二人、支那山東省青島からきた橋爪と私とだけだつた。京城駅で同じ京義線(京城《ソウル》―義州《ウィジュ》―奉天《中国瀋陽シンヨウの旧名》)に乗って帰るとき、清涼里《チョンヤンニ》での再会を約して別れたのが実現し、学生寮「進修寮」で一緒になった。

 平壤《ピョンヤン》中学からは理科合格は現役で渡辺が一人、私の同期生は私一人だけだった。 地元の京城《ソウル》龍山中学は断然多く、地方都市からは釜山、大田、群山、大邱、平壌等の三、四人止まりだった。平中は理科文科を併せて毎年四、五人が入学していたのにこの年は四人、前年は文科の一人だけだった。

(2)

進修寮
 大学予科は京城《ソウル》の郊外四キロ余りの所に在り、東大門からの電車の終点。京元線(京城--元山)清涼里駅に近い。進修寮は予科構内の校舎の近く松林の間にあり中、北寮の二階建て二棟に食堂・娯楽室(卓球台のある広場と、新聞雑誌、ラジオ、蓄音器《=レコードプレィヤー》、将棋《しょうぎ》、碁盤《ごばん》を置いた畳敷の間)、大きな風呂場、読書室があり、南寮はまだ建っていなかった。全寮制ではなく寮生は八十人位、文科の寮生は少なかったので、それだけ貴重な理、文科生間のつき合いは後々まで残った。

 予科は当時二学年制で、一学年の理科は医学進学のみの八十人、文科は法科系四十人と文科系四十との八十人だった。昭和八年に予科は三年制になり、大学には十三年に理工学部が加えられた。           
       
 # 一年 中寮階下玄関脇の部屋。
 机と椅子とが六っずつ並んでいる部屋と、ドアを間にベッドが六台置いてある隣の部屋とに寮生が六人、文科と理科の二年生に新入の一年生四人が一緒だった。
 新潟師範《=師範学校》を出て小学校教員から転身してきた三、四歳は上だが若々しいスポーツ青年山田。福岡県田川郡からきた童顔、朴訥《ぼくとつ=素朴で飾り気のない》な松村。釜山《プサン》中学の秀才高丸の四人でみな同じ理科だった。
 同室の理科二年生は松島さん。スポーツはせず酒も飲まず、ストームにも滅多に、しか参加しない何をしているか分からぬような細身の方だったが、面倒見がよく勉強の事色々教えてもらった。二年後に学部在学中、金剛山《クムガン山》の紅葉の中で心中死をとげ、相手は普通の娘さんと聞いた。全く突然の報せでただ驚くばかりだった。

 同室の文科二年生は川崎さん。大人っぽい小太りの人、スポーツはやらず(私とは娯楽室で卓球をよくやった)、校内の文芸委員をしていて、寮内では俳句の集りをやっていた寮の新聞雑誌の読み場に、雑誌戦旗や文芸戦線(?)やプロレタリア文学の本を提供していた。
 同室の私達にも、他の寮生にも同志を作る運動はしなかったようだ。理科二年の寮生一人が仲間になって学部に入ってから反帝同盟の実際運動に加わり、退学処分になっている。(朝鮮人の独立連動につながる従来の左翼結社とは異なり、反帝同盟は内鮮人合同の反戦運動として注目された)。昭和六年九月満州事変が起こり、朝鮮軍の一部が満州に出動した時の反戦ビラがきっかけになり、大学関係では学部十三人予科六人が検挙きれ、そのうちに内地人は六人いた。多くは後に復学したようだが、
川崎さんは学部に入ってからいなくなりその後の消息は知らない。

 予科生は、白線二條の帽子と、朴歯《ほうば》の高下駄にマントが象徴《しょうちょう》の姿だが、私はマントを持たず、義兄赤井のオーバーコートを貰って持っていた。
川崎さんは自分のマントを着ずに私と取り替えて外出していた。

 ♯ 二年 中寮の階下 東の角部屋。
 理科二年生の三人に、理科の新一年生三人とが同室になった。新寮生の一人は支那color=CC9900]《しな=中国》[/color]天津からきた朝鮮人で後になって知ったが、朝鮮人は寮に入ると親日家とされて仲間外れにされるそうで、入寮者は極めて稀《まれ》な事だつた。
李約伯、彼はなまりもなく習慣も、全く違和感なしに他と同じに接していた。ただ外での寮のコンパの時などに女中らが、朝鮮人?と問い質《ただ》すのでこちらが嫌な思いをした。学部に入った後早く亡くなったが明るく、才気あり運動もやっていた惜しい好青年だった。
 あと二人は鮮内から来ているが、その内一人は一人息子のボンボン、親元離れて羽根を延ばしすぎたようで、もう一人と一緒に揃って落第した。
二年生とて勉強に励《はげ》んだのでもないが三人とも無事学部に進んだのに、同室の一年生三人の内二人まで落第させたのは先輩として恥ずかしいことだった。
 この一人は、お母きんから息子を頼むと言はれていた。立正会に誘うこともせずお互い好きなようにしているうち気が付いたら、カフェーの女給にうつつを抜かしていて後の祭り。二人とも遅れて学部に進んだが一人は早世《そうせい=若くして亡くなる》し、一人は敗戦時大学の助教授になっていた。引揚げ後は会っていない。
 学部に入るのに試験勉強は要らないこともあったろう、皆それぞれが好きなことをして二年間を過ごしたと思うが、予科の進級はなかなか厳しかった。病気の者もいたが、毎年七、八人は上から降りてき、同じ位が後に残きれた。


(3)

# 寮生活
 寮の生活は人それぞれだが勝手な外泊は誰もしなかった。終電車に間に合はない時は一里(四キロ)の道を歩いて帰った。別に門限はなく、仲間と一緒にわざと遅く帰り、真夜中のストーム《=寄宿舎で歌を高唱して練り歩く》をかける常連もいた。
 運動は寮の草野球とポール投げくらい。スケートはよくやったが、予科も本科もスケート部のレベルは高く、全国のインターハイ、インターカレッジに参加し優勝した年でもあり、私の出る幕ではなかった。
 本はよく読んだ。社会科学なるものに初めて触れ、雑誌中央公論と、改造とはよく分からぬながら読む毎に新しい世界に目を開く思いをした。河上肇《かわかみはじめ=経済学者》の第二貧乏物語、高畠素之《たかはたもとゆき=社会思想家》の資本論解説、猪股津南雄《いのまたつなお》の経済学解説書など熟読し、一方後に書く立正会と、エスペラントに就いても予習復習を後にしての熱心さだった。勉強はほどほどにやっていたつもりだったが、R.H.プライスさんのラテン語では二学期に落第点を取っ
て慌てたことがある。                    
 
万葉集、伊藤左千夫、釈迢空《しゃくちょうくう=折口信夫の号》の和歌もよく読んでいたが、自分で詠むようになったのは学部に入ってからになる(コレハ大学ノ時二記ス)。文学書は教室での近藤教授の堤中納言物語《つつみちゅうなごんものがたり》、ただ教授の耶斎志異の講義に興味を持ったが読んだのは古典ではなく当時のプロレタリア文学が多かった。徳永直の 太陽のない街、小林多喜二の 蟹工船は今もよく読まれているようだが、藤森成吉、江口渙、平林タイ子、葉山嘉樹などの名を思い出す。野上弥生子の小説は中央公論で読んだ。一年の時一学期から煙草を喫《の》み始めた、部屋の二年生二人がのむのを、真似してみたのがきっかけ。生徒の殆どは未成年だが教室の隣には喫煙室があった。お酒はコンパには付き物だが一口飲んで真っ赤になるので飲まずに過ごした。飲めぬ者に無理強いする風習はなかった(酒、煙草、ニ就イテハ別ニ記ス)。

♯ 炊事部
 寮は自治制で、互選で寮務、寮風、運動、文芸、炊事部等の委員を分担した。
 種々な「寮規則」は作られていたのだろうが、別段拘束《こうそく》を感じた事はなかった。寮務は寮生の代表、統括を受持ち、寮風部は規律、秩序、防火等の係りで点灯消灯、外出簿の記載等は皆がきっちり守っていた。私は二年
間炊事部委員をした。
 炊事部委員が何人いたか忘れた、代表は食糧倉庫の鍵をもち、住み込みの夫婦と炊事員とを監督指示していた。寮生二年目は同期の稲留が世故《せこ=世間づきあいの様々なことがら》に長《た》けていて万事取り仕切ってくれたので、私は苦労することなしだった。
 毎月の献立は品目、材料、価段の書いてあるカードから選んで作ればよかった。食費は幾らだったのか。土曜日の夕食は外出者が多いので、一番安い野菜の煮物にし、記念日のご馳走に苦心したことのほかは忘れた。朝は寝坊して遅く行っても飯は残っており、炊事部への文句は余り無かったと思う。

#チャンパン
 外出簿にはホンマチ、スパチーレンゲーエン=京城の銀座通「本町散歩」と書いて外出、帰りに清涼里《チョンヤンニ》駅前のチャンリョウで三銭?のチャンパンを夜食に買って来る。スリチビ(朝鮮居酒屋)もあってマッカリ(どぶろく)
をひっかけるものもいたようだ。
 「チャンリヨウ」とは、チャイナーのリヨウリ屋からきた名だが支那料理屋(今は中華料理店)とは違う。表が間口二間位、一間のガラスの引戸の薄ぐらい店・土間に机が一つ、椅子が二、三個ありすぐが台所で何時も火の絶えない竈《かまど》がある。
 主は大きな躰《からだ》の満州人か、山東省からの支那人、→人でやっていて朝鮮語も日本語も喋《しゃべ》らない。清涼里
《チョンヤンニ》でよく行った店は割にキレイで、二階もあり支那蕎麦《ラーメン》を食べるときには上にあがった。二部屋あって椅子が二つとテーブルとがおいてある。他にどんな物を作るのか食べたことはない。
 「チャンパン」はチャイナーのパンのことだろうがパンとは違う。軽く発酵させたメリケン粉をといて、長い柄のさきに付いた二枚の向き合った鉄板の片方に流し込む。蓋をして燃え盛っている竈《かまど》に差し込む。頃を見て引出し、もう片方の鉄盤にメリケン粉を流し入れ黒砂糖を一つまみ落とし 蓋をして再び竃の申に差し込む 
 出来上りは竈から出して蓋を開き 机に切りそろえて置してある新聞紙の上に落とす 直径十七、八センチの円盤は焦《こ》げ目が入っていて、香ばしい匂い、熱くてすぐには手に持てない。新聞ガミの上に置いたまま まん中を摘むと黒い蜜がくつついて上皮が剥《は》がれて来る、上手に食べないとこの蜜でヤケドをしかねない。寮に持って帰るときは新聞ガミに包んだ。
 平成元年エジプトに行ったとき中程のミニアだったかアシユートだつたかで似たようなのを食べた。中には黒砂糖の蜜はなく冷たかった。これを焼く竈も見たが丸く土で囲んであり炎は見えない。

 ♯ 運動会
  秋の予科運動会には寮を開放して各々の部屋が独自の展示物、飾りものに工夫を凝《こ》らした。二年の時に私たちの部屋では、「コクサンアイヨウ」と張り出して、四斗樽《よんとだる=72リットル》を重ねて飾り、稲と杯とをあしらったものをだした。
当時の宇垣総督のかかげる「自力更生 国産愛用」の標語をとったものだった。
 運動会のタロンボオドリも寮生の時の舞台だった。 腰蓑、首飾り、足輪、頭に冠りを着け、眼と口の回りを白く縁どった他は墨で全身を塗りつぶす。弓矢、投げ槍、楯《たて》を持って、ジンジロゲヤ ジンジロゲ ホーイツラッパノ ツエツーー(唄ノ文句ハコンナダツタトオモウ)と怒鳴《どな》りながり輪になって踊る。練習はしていたがそう念入りにやった記憶はない。
墨を洗い落とす時には風呂場は大騒ぎだった。

 ♯ ストーム
 部屋のコンパや何や、かにやの仲間連れが本町に出て一杯入っていると――入っていなくても 鮮銀前広場(朝鮮銀行、京城郵便局、京城三越ニ囲マレタ本町入口、一番ノ盛リ場)で、予科踊りの乱舞、放歌《=大きな声であたりかまわず歌う》を広げていた。町行く人は結構回りを囲んで見てくれたものだ。この勢いの流れが寮に戻ると、廊下一杯に高足駄《たかげた》踏み鳴らし、大声挙げてのストームが真夜中に突然始まる。ストームは何がきっかけでもよい。中 北寮の一、二階を一回りするころには初めの三、四人が十数人になり全員が眼を覚まされる。
クラス会、部のコンパ、試験の終った日いろいろなグループが始めるので、毎晩続いたり、一晩に何回か始まるのも珍しくない。

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編集者 (代理投稿)

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