朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7
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朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり> (編集者, 2006/9/24 21:47)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1 (編集者, 2006/9/25 8:52)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2 (編集者, 2006/9/25 8:54)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その3 (編集者, 2006/9/25 9:07)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その4 (編集者, 2006/10/18 8:18)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その5 (編集者, 2006/10/18 8:23)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6 (編集者, 2006/10/19 19:27)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7 (編集者, 2006/10/19 19:55)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8 (編集者, 2006/10/22 20:47)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9 (編集者, 2006/10/23 7:42)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その10 (編集者, 2006/10/23 7:56)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11 (編集者, 2006/11/24 8:00)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その12 (編集者, 2006/11/24 8:09)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13 (編集者, 2006/11/25 8:57)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14 (編集者, 2006/11/25 9:30)
- Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記 (HI0815, 2006/12/26 8:58)
編集者
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16-補
応召追加 会寧《フェリョン》のこと
威鏡北道《ハムギョンプット》 会寧邑《フエリョンむら》
東径129度、北緯42度に在。(ソレゾレ日本デハ、九州五島列島ト北海道襟裳岬《えりもみさき》ニアタル)、冬は零下二・三十度まで下がり夏は三十度を越す。私が行った十月にはもう木の葉は落ちていた。雪は少なく凍土は五月頃迄解けない。
豆満《トゥマン》江を挟んで対岸は満州で、ソ連国境にも近い。人口 二万二千、内内地人三千七人(昭和十七年)。木材、石炭、牛、緬羊《めんよう=羊毛をとる羊》、穀物が主な産業。満州間島省との貿易が盛んである。駅前から7本の商店街が陸軍病院前を通り歩兵75聯隊迄続いている。これと直角に「銀座通」がある。
邑《むら》長の丹下政之助さんは警察署長を辞めて高周波城津《ソンジン》工場におられたので、お訪ねしていた。敗戦後丹下さんは霹助《ろすけ=ロシア人をあざけって言う語》に捕まえられて行方不明、奥様は山の中を歩いて城津迄たどり着かれ、収容所で寝込まれたまま栄養失調が快復できずお亡くなりになった。私は僅《わず》かなお金と米とをお分けすることしか出来なかった。
この地方には旧石器時代からの韓民族の歴史があるようだが、以後 粛慎、靺鞨、悒婁、沃沮、高句麗《コウクリ=古代朝鮮の国名のひとつ》(BC1-686)とツングース族の支配下にあり、金(1115-1234女真族ツングース) 元(1270-1358 蒙古族)と続く。朝鮮民族の朝鮮統一は新羅《シラギ》(BC7-935)のあと、高麗《こうらい=朝鮮王朝のひとつ》(915-1382)になるが北のこの地方までは届かなかったようだ。
1392年に李氏朝鮮《りしちょうせん=朝鮮の最後の王朝》が興り会寧には1434年会寧都護府《とごふ=唐で周辺支配のために置かれた官庁》が置かれている。この李氏朝鮮も1637年以来女真族=満州族の清国《しんこく》の属領にされ、1910年には日本に併合される。
日本との関係は文録の役、慶長の役(壬辰の乱、丁酉の乱(1582-8)に加藤清正は、1582年に会寧まで遠征しており、更に豆満《トウマン》江を越えて間島にも進軍したといわれている。
日露戦争(1904-5)の時には元山に上陸した第2師団が戦闘をしながら北上し、明治38年8月に会寧に入城している。9月6日講和の時の休戦協定は会寧《フェリョン》の東北12キロの鉄洞という部落で交渉されたが、ここだけは纏《まと》まらぬままに両国の講和が締結《ていけつ=条約をとりきめる》している。
昭和16年10月に私は会寧陸軍病院に配属され17年11月までいた。
朝鮮は北に羅南《ナラム》の第19、南に京城龍山の第20師団の二個師団があった。
会寧には第19師団の歩兵第75聯隊、工兵第19聯隊、第2飛行団飛行第9聯隊、野戦垂砲兵第15聯隊、高射砲兵第5聯隊、補充馬廠《しょう=うまや》、陸軍倉庫、憲兵隊、陸軍病院があり朝鮮では京城、羅南に次ぐ軍都であった。
当時は関東軍特別大演習(閑特演) と言われた臨時召集で、25万の関東軍兵力は75万に増強し野戦部隊が編成され、そのまま16年12月の大東亜戦争の宜戦布告につながった。羅南の各部隊も野戦と留守部隊とに分けられ、野戦病院も編成された、私は陸軍病院付きなので留守部隊に属し、野戦の演習訓練は全然経験せず普通の病院勤務の事しか知らない。
なお、開戦後これらの部隊はビルマ、フィリッピンに派遣された。一部はフィリッビンには行かれずに台湾にあがったのもある。
18年頃までは精鋭を誇った関東軍《かんとんぐん》はその後主力部隊の殆どが南方戦線、支那、大戦末期には南朝鮮 (済州島=米軍上陸) に転出していて、20年には対ソ連作戦は満州の大半を放棄して朝鮮に近い満州の山中にはいって抵抗することしかできぬ弱体になっていたようだ。それでも陣地と兵力を保持していた部隊は北満の各地で停戦命令のでるまでソ連兵と戦い続けている。北朝鮮でも羅津、清津に上陸したソ連軍に、羅南部隊は陣地を構え敵を撃退し19日に停戦命令を受けるまでソ連軍の進撃を許していない。これに就いては別に記す。
応召追加 会寧《フェリョン》のこと
威鏡北道《ハムギョンプット》 会寧邑《フエリョンむら》
東径129度、北緯42度に在。(ソレゾレ日本デハ、九州五島列島ト北海道襟裳岬《えりもみさき》ニアタル)、冬は零下二・三十度まで下がり夏は三十度を越す。私が行った十月にはもう木の葉は落ちていた。雪は少なく凍土は五月頃迄解けない。
豆満《トゥマン》江を挟んで対岸は満州で、ソ連国境にも近い。人口 二万二千、内内地人三千七人(昭和十七年)。木材、石炭、牛、緬羊《めんよう=羊毛をとる羊》、穀物が主な産業。満州間島省との貿易が盛んである。駅前から7本の商店街が陸軍病院前を通り歩兵75聯隊迄続いている。これと直角に「銀座通」がある。
邑《むら》長の丹下政之助さんは警察署長を辞めて高周波城津《ソンジン》工場におられたので、お訪ねしていた。敗戦後丹下さんは霹助《ろすけ=ロシア人をあざけって言う語》に捕まえられて行方不明、奥様は山の中を歩いて城津迄たどり着かれ、収容所で寝込まれたまま栄養失調が快復できずお亡くなりになった。私は僅《わず》かなお金と米とをお分けすることしか出来なかった。
この地方には旧石器時代からの韓民族の歴史があるようだが、以後 粛慎、靺鞨、悒婁、沃沮、高句麗《コウクリ=古代朝鮮の国名のひとつ》(BC1-686)とツングース族の支配下にあり、金(1115-1234女真族ツングース) 元(1270-1358 蒙古族)と続く。朝鮮民族の朝鮮統一は新羅《シラギ》(BC7-935)のあと、高麗《こうらい=朝鮮王朝のひとつ》(915-1382)になるが北のこの地方までは届かなかったようだ。
1392年に李氏朝鮮《りしちょうせん=朝鮮の最後の王朝》が興り会寧には1434年会寧都護府《とごふ=唐で周辺支配のために置かれた官庁》が置かれている。この李氏朝鮮も1637年以来女真族=満州族の清国《しんこく》の属領にされ、1910年には日本に併合される。
日本との関係は文録の役、慶長の役(壬辰の乱、丁酉の乱(1582-8)に加藤清正は、1582年に会寧まで遠征しており、更に豆満《トウマン》江を越えて間島にも進軍したといわれている。
日露戦争(1904-5)の時には元山に上陸した第2師団が戦闘をしながら北上し、明治38年8月に会寧に入城している。9月6日講和の時の休戦協定は会寧《フェリョン》の東北12キロの鉄洞という部落で交渉されたが、ここだけは纏《まと》まらぬままに両国の講和が締結《ていけつ=条約をとりきめる》している。
昭和16年10月に私は会寧陸軍病院に配属され17年11月までいた。
朝鮮は北に羅南《ナラム》の第19、南に京城龍山の第20師団の二個師団があった。
会寧には第19師団の歩兵第75聯隊、工兵第19聯隊、第2飛行団飛行第9聯隊、野戦垂砲兵第15聯隊、高射砲兵第5聯隊、補充馬廠《しょう=うまや》、陸軍倉庫、憲兵隊、陸軍病院があり朝鮮では京城、羅南に次ぐ軍都であった。
当時は関東軍特別大演習(閑特演) と言われた臨時召集で、25万の関東軍兵力は75万に増強し野戦部隊が編成され、そのまま16年12月の大東亜戦争の宜戦布告につながった。羅南の各部隊も野戦と留守部隊とに分けられ、野戦病院も編成された、私は陸軍病院付きなので留守部隊に属し、野戦の演習訓練は全然経験せず普通の病院勤務の事しか知らない。
なお、開戦後これらの部隊はビルマ、フィリッピンに派遣された。一部はフィリッビンには行かれずに台湾にあがったのもある。
18年頃までは精鋭を誇った関東軍《かんとんぐん》はその後主力部隊の殆どが南方戦線、支那、大戦末期には南朝鮮 (済州島=米軍上陸) に転出していて、20年には対ソ連作戦は満州の大半を放棄して朝鮮に近い満州の山中にはいって抵抗することしかできぬ弱体になっていたようだ。それでも陣地と兵力を保持していた部隊は北満の各地で停戦命令のでるまでソ連兵と戦い続けている。北朝鮮でも羅津、清津に上陸したソ連軍に、羅南部隊は陣地を構え敵を撃退し19日に停戦命令を受けるまでソ連軍の進撃を許していない。これに就いては別に記す。
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編集者 (代理投稿)