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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8

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通常 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/10/22 20:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
敗戦と抑留、 引揚げ

 昭和二十年《1945年》八月~二十二年一月

♯ 一  二十年八月十五日の前後
♯ 二  わが家十人家族の一年間
# 三  抑留者の暮し 脱出 闇船
♯ 四  私の 引き揚げ
♯ 五  同僚医師の選んだ道
♯ 一  二十年八月十五日の前後


♯ 一  二十年八月十五日の前後

  朝鮮(ちょうせん) 威(かん)鏡(きょう) 北道(ほくどう) 城津府(じょうしんふ) 双浦(そうほ)
         
 日本高周波重工業株式会社 城津《ソンジン》工場付属高周波病院

 昭和二十年八月~二十二年一月

 昭和二十年七月の末に病院では内科医師と検査技師とに召集令がきて、早々に出征した。(二人は済州《チェジュ》島に配属、敗戦になり家族よりも早く内地に復員した)。

 八月になると広島に、次いで長崎に爆弾が落とされ、これは新型でマッチ箱の大きさでも物凄く強烈な力を持つものだと噂されたが、原子爆弾とは聞いていない。八日に工場従業員、病院では皮膚科医長が現地召集をうけ、一個大隊が編成されて病院の裏山に続く高地に陣地を構えた。九日、ソ連軍が満州に攻め込んできた。従業員の家族は西海岸に疎開することになり、病院の家族は十五日頃に予定された。

 以前から毎晩のように十二時ころにサイレンが鳴り、上空をB29《アメリカの爆撃機》の編隊が飛んでいっていた。サイレンが鳴ると病院に駆けつけていたが、工場には一回も爆弾は落とされなかった。北の清津(せいしん)、羅津(らしん)の港が目標だった。一度は日中に黒い小型の飛行機が低空を飛んできた、日の丸は付いていない。何もなしに飛び去ったが、その後に海上で銃撃を受けて負傷した船員が、病院に手当を受けにきた。ソ連の飛行機だった。ソ連軍は朝鮮にも攻め込んできた(羅津《ラジン》空襲は九日、滑津上陸は十三日)。家族の疎開は始まっていたが病院はまだだったまま十五日になった。

 十五日は正午に重大放送があるとのことで、病院の職員一同は事務室に集っていた、玉音放送である。天皇陛下のお声だというが、内容は聞き取り難い。日本は負けたらしい。だが、ある者は「これからロシヤと戦うのだから頑張れ」ということだと聞いている。

 院長は工場長室に行き、日本が負けたことを確認し、病院はこのまま診療を続ける事をきめてきた。内科と眼科の医師、看護婦、歯科と検査室の助手、事務員等の朝鮮人職員は、この時以後病院から姿を消した。

 家族の疎開は中止になり、京城《ソウル》まで行っていた列車はすぐ引き返して四、五日後に双浦にもどってきた。(後日この処置は種々批判されたが、私は当然の決断だったと思う)。

 城津《ソンジン》には双浦《そうほ》の一個大隊のほかに、一個旅団の軍隊がいてソ連軍上陸に備えていたが、軍の司令官と、府尹(市長)との連名の治安維持の布告がだされた。朝鮮人の内地人社宅襲撃の噂があって、夜警隊をくむ話もあったが病院社宅では何事もなかった。

 朝鮮がわではすぐに人民委員会が組織されたようだが、具体的な事は全く分からない。双浦では警察官も憲兵もいなくなり、朝鮮人の公安隊(保安隊?)が組織されて元の警察署を本部とした。私が初めて接触したのは彼らに軍刀を渡した時だったと思う。

 軍隊がいた為だろう、治安は保たれていたが、後にこの部隊はソ連軍に武装解除を受けた。帰国後に知ったのだが、この中に城大医学部同期生の松岡、高丸の二人がおり、また十六年に私が召集されていた会寧の陸軍病院も、城津《ソンジン》まで下りて来ていて、みなシベリアに連れて行かれた。  
 十五日以後も病院は日本人職員だけで診療を続け.入院患者も残っていたが、続々と北からの避難民が到着し始めた。ソ連軍の突然の攻撃で慌しく戦場から逃れてきた人たちで、満州の間島地区や、ソ連国境に近い羅津《ラジン》、滑津、会寧《フェリョン》等からここまで、ロスケを避けて二、三百キロの山間を十日間以上も歩き続けてきた。初めは家族皆揃って出てきたのが老人、乳幼児は殆どいなくなっている。病院で一、二泊休養をとり、さらに南下して行った。家を出てから初めての憩いの入浴、炊事、洗濯であったろう。

 南下を続けるという病人には薬を渡したが、無事内地までたどり着くことが出来たのはどの位いたろうか。南朝鮮に着く前に北朝鮮に抑留され、咸(かん)興(こう)や元山(げんざん)の収容所では発疹チフス《ほっしんチフス=法定伝染病》が流行して多数の死亡者が出たと聞く。病人を抱えて動かれない家族は別の合宿に収容した、その後移動禁止の命令が出てこの人たちはそのままここで冬を越さねばならなくなった。移動禁止令が出た時、双浦《そうほ》には五千人ほどの日本人がいた。

 敗戦の日のすぐ後に私の家に三人が訪ねてきた。
 初めに来たのは軍装の下士官で、応召時に会寧《フェリョン》陸軍病院での部下だった。「羅津《ラジン》の任地から元山《がんざん》の要塞司令部に連絡に行き、帰任の途中、城津《ソンジン》まで来て敗戦を知った。これから隊に戻るつもりだ」と言う。羅津は戦場になった所で、もう戻られる所ではない、もっと南の師団司令部羅南《ナラム》でさえ戦闘があったのだから、羅津の部隊はもう無くなっているだろう。日本は負けたのだから原隊復帰は考えないで、軍装は捨て、剣は土に埋めて南におりなさいとすすめ、ズボンなど着替えを渡した。

 もう一人は大学同期の吉野。「威鏡《ハムギョン》両道の山中で捕虜になり、部隊と徒歩で北上中、吉州辺りでソ連兵の隙を見て脱走してきた。家族のいる興南《フンナム》まで南下する途中だ」と言う。朝鮮語が上手なので一緒に脱走した朝鮮人と同行し、服装も朝鮮人になりすましてロスケの自動車に乗せてもらいここまで来た。これからもロスケの自動車で南下出来そうなことを言っていた。「何十日ぶりかの暖かい布団に寝て」次の日に出て行った。(後日の話では、ロシア語を勉強していたのでソ連軍の歩兵部隊の貨車に便乗して興南まで歩くことなしに行ったと言う)。

 あと一人は、大学医局の先輩で、滑津の工場病院勤務。上陸してくるソ連軍を逃がれてきた家族連れの工場職員の一群で、山の中を徒歩でここまでたどり着いた疲労困憊《ひろうこんぱい=つかれはてた》の仲間だった。この一群には子供連れがいたが 一、二日の休養では南下を続けるのは無理な人が多く、かなりな人数を残して本隊は次の日に南下して行った。
 三人とはもっと後になってのことになるが、内科の医師金君が来てくれた。十五日以後は病院に来なくなり病院社宅を引き払い、公安隊に出ていたが近く威境《ハムギョン》南道の両親の元に帰るので、お別れの挨拶に来たと言う。「一緒に行かないか、親元に行けば先生一家の面倒はみてあげられる、日本に帰る便も多いだろう」と言ってくれた。

 金君が十八年春に赴任してきた時には、御両親が揃って挨拶にみえられた。京城《ソウル》医等卒業の日本に馴染みきっていた真面目な男だった。ソ連軍侵攻で内地人職員の家族疎開が計画されるとき、「朝鮮人職員の家族が入っていないのは何故か」と憤慨して聞いてきた男だった。厚意は感謝したが日本人を残して自分だけがここを離れることは出来ないので、無事な帰宅を祈って別れた。

 双浦には八月二十三日にロスケの軍隊がきた。入院患者は出来るだけ減らしてはいたが、私が初めてロスケと出会ったのは病室を看護婦と回診している時だった。
 将校だけに乱暴はしなかったが、顕微鏡をだせというのがいた。責任者と思われる将校は、穏やかな態度で院長にベットの提供と病棟の一部開け渡しを要求してきたが、受け取りの証書をよこしさえした。このころはまだ通訳はいない、ロシア語を話せると称する朝鮮人が中にはいると飛んでもない誤解になることが多かった。
               
 最初に来たロスケは、戦闘を続けてきた兵隊でピリピリしていた…日本兵が隠れていないか各所の捜索は厳しかった。(会寧、滑津、羅司 書州では戦闘があり日本軍は山中に退いて反撃にでるとの情報だった)。合宿所の廊下で出会いがしらに機関銃を撃ち込まれた者、少しの不審な挙動で撃たれた者もいた。

 私の家に来たときは、入るとすぐ一人が私に機関銃をつきつけて、他の八、九人が一と部屋ずつ天井、押し入れの隅まで丹念に調べた後やっと銃を離してくれた。軍装品は早く処分したが背嚢《はいのう》だけは、帰国のさいに子供にしょわせて帰るつもりで箪笥《たんす》の上に置いていた。これを見つけるや、きっと振り向いて銃を構えなおした、肝《きも》の冷える思いだった。ロスケは私の腕時計を見つけて コレモラッチイクヨ といった素振りをして持って行ったが、初めにきた兵隊は他の物には手を付ける事はしなかった。

 このころの部隊は軍紀がまだ艮かったので、病院は外来だけにして診療を続けていたが、日を追って後から続いて来る兵隊ほど乱暴狼藉略奪がひどくなり、八月の末に院長は病院の解散を宣言した。

 ロスケが来てからも病院解散の前迄しばらくは、看護婦なしで外来と往診とをしていた、日本兵の捕虜《ほりょ》の長い行列を見送ったのは往診の途中だった。
 病院外来で診療をしている所に、公安隊の制服に軍刀を吊《つ》った男が訪ねてきた。「自分は〝解放〝で刑務所から出てきて、この地区の隊長をしている。前に肋膜炎《ろくまくえん》になった時にお世話になったので、何か出来ることが有ればしてあげたい」との申し出だった。「私は今、ここで患者さんを診ているが、家はロスケの略奪をうけているだろう。妻は子供を連れて逃げ隠れしている。昨夜私は家で八か月、一歳、三歳の三人の子を見守りながらロスケの略奪を眺めていた。妻は貴君も知っているK夫人と義山に身を潜めて夜を明かした。亦動かれない病人の所には往診に行くのだが.途中身の危険を感じることが暫しばある。病院に出て来ている職員は皆おなじだ。診療が続けられるように職員と舎宅、看護婦宿舎を守る手段をして欲しい」旨を頼んでみた。

 私の希望は早速実行され病院舎宅への道路 各社宅などに、赤い文字でロシア語の立て札や、貼紙をして良く見えるようしてくれた。職員に身分証明書のようなものも作ってくれた。文字は読めないのでどちらも何が書いてあるのか分からぬながら、早速の好意を非常に感謝したのだが、これは全く役に立たなかった。
 略奪に来るロスケは文字が読めないのか、舎宅の襲撃、略奪は続き、また道路で捕まった時この紙を見せてもひねくり回すだけだった。間もなく病院は解散した。

 彼は生命保険会社に勤めていたが思想犯で入獄していたという。その後失脚したようで別人に代わった。つぎの隊長もやはり“解放”された人だった。

 私は何度か公安隊の留置所(牢屋)に往診に行った。敗戦直後に憲兵隊、警察、検事、裁判所の人たちはいち早く姿をくらましたというが、捕まった人もあったようだ。工場の職員では朝鮮人工員に辛く当たったと思われた人たちが入れられていた。この人たちへの仕打ちが酷いので一言云ったら、自分たちの受けたのはこんなものではなかったという返事だった。人民裁判があつたと聞くが、この人たちのその後は分からない。後日私も此所に入れられそうな事があった、是は別に記す。

 ロスケは次々に別な部隊が来て連日連夜狼藉を繰り返している 何時まで続くのか。近く憲兵隊が来ると噂されて待ち焦がれている矢先に、当の憲兵隊将校が路上で兵隊に射殺された事件を聞き、不安が一層たかまった事もあった。

 二十三日ソ連軍の先頭部隊が行進してきた時、沿道には赤旗を振り万歳(マンセイ)を叫ぶ人が溢《あふ》れていたというが、ロスケの狼藉は内鮮の別はなく、暴行を受けた朝鮮夫人が自殺した話を聞いた。この話をした人は、「この行動をとった日本人は一人もいないが、朝鮮婦人は違うのだ」 と、民族の高い誇りを私に言いたかったのだと受けとった。

 病院は解散したが病人は居る。診察、治療を受ける場所が無くなったのだから、こちらから出向いて行くしかない、私は往診行脚《おうしんあんぎゃ》をはじめた。
 病院は解散したので以後の行動は職員各自の判断であり、同僚医師が選んだ道は色々で、中には私は憤りを感じていることも有るが、ここでは触れない (イズレ書クコトニナロウ)。

 病人といっても多くは栄養失調である。北から下りてきた人たちは着の身着のままであり、独身の若い子は食べるすべを知らない。子供を抱えた出征家族には略奪の後、売り喰いの財源は僅《わず》かしかないのもいる。もすこし後になると、日本人世話会(これは十二月に正式なソ連、朝鮮に対する交渉代表になった。会長は元の高周波病院事務長)ができ、働ける者は作業に出て食料を受け、これを供出して共同生活になったが、当初は弱い者は助かりようはなかった。私の往診鞄《かばん》のなかは明太魚の干物、大豆と唐もろこしのパンとが主だった。お金が何よりだが、先行き分からぬ売り喰いのわが身に、そう置いてくる余裕もなく、せめてもの思いしか出来ない。

 通過部隊がなくなり、駐屯部隊だけになってようやく治安が落ち着くと、すぐに病院は朝鮮人民委員会によって市民病院として再開され、院長には城津の長老の開業医の一人がなった。元の病院の職員では、外科の安藤医長と内科医長の私とが協力を求められた。経営は事務長が全て取り仕切っていたようだが、この男の素性は知らない。

 私は其の後も往診を続けていたが、間もない時に事務長から詰問をうけた。勝手に往診をしていて薬は何処から出しているのか、薬代や往診料をどうしているのかが主な問題だった。
 これは患者の求めで行っているのではない。寝込んでいる人の生活指導と慰め、励ましが主眼だ。病院に来られない人の看護も必要だ。特に伝染病の早期発見はこちらから出ていかなけれ不可能だ。薬代や往診料等を受けるすじはない。そんな話をしたら其の後は何も言はなくなった。

 何日か後に往診の途中、公安隊の隊員に隊に来てくれといわれた。鞄を取り上げられて誰もいない部屋に案内され、用は何かと聞くと、隊長が帰る迄待てという。暗くなる前に隊長が来て、失礼しましたといって帰らせてくれた。もっと前のことだが歯科医長が歯科用の金隠匿《いんとく》の疑いでほうり込まれた例がある。何があったのか説明はない、他に心当たりはないから事務長の仕業だろうと思った。

 市民病院は後日、ソ連に取り上げられたので、元の工員クラブに診療所が開設されてここで私たち二人は働くことになった。所長は私たちよりももっと若い開業医で、小児科を診ていた。正式の引き揚げまでここが仕事場になった。

 感心したのは、市民病院開設と同時に此所を基幹に医学専門学校が早々と発足した事だ。北朝鮮には医学校は二校しかなかったので、緊急を要したのだろう、南には大学一つと医専が五つあった。外科医長は解剖学を、私は細菌学を予定された。

以上 二十年《1945年》八月十五日の前後 終わり。

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編集者 (代理投稿)

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