朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6
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- Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記 (HI0815, 2006/12/26 8:58)
編集者
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応召
昭和十六年九月~十七年十一月
十六年九月何日だったかは忘れてしまったが赤紙がきた。小児科の豊田君が一諸だったと思うが出かけた時は一人だけだった。召集らしい様子が分からぬよう隠密に出発することと言われた。病院で壮行会を催してくださった、鱈《たら》の料理だった。
門出に「海征かば」を歌ったが自分自身が「草ムスカバネ」の身になるなどの実感はなにもなかった。
海征《ゆ》かば みずく屍《かばね=しかばね》 山征かば草むす屍
大君の辺《へ》にこそ死なめ 返り見は せじ
私は昭和十三年一月に初めて実施された第一期軍医予備員教育を受けていたので、身分は予備役陸軍軍曹、召集された時は軍医として従軍することになる。
大学を卒業した年に京城《ソウル 》龍山で徴兵検査を受け、第一乙種合格と言われた。甲種合格だと殆《ほとん》どは現役でその年に兵隊にいく。乙種合格には第一と第二とがあり、その次は丙種合格、ここまでは国民皆兵と言われていて一旦緩急《いったんかんきゅう=ひとたび緊急な大事が》ある時はこの順番で軍に召集される。時勢は何時召集令状(赤紙)が来るかわからぬので、一乙の者は殆どこの教育を受けた。
十六年十二月八日大東亜戦争《太平洋戦争》が始まってからは召集は丙種にまで広がり、まさか召集はあるまいとこの教育を受けなかった者は二等兵で召集され一年間は普通の兵隊、すぐには軍医にはなれなかった。
軍歴確認書
昭和十三年 -月 九日 衛生伍長の階級を与う
軍医予備員候補者として歩兵第七十八連隊に入隊
二十三日 衛生軍曹
軍医予備員を命ず
二十四日 在営期間満了除隊
昭和十六年 九月 十六日 臨時召集により歩兵第七十三連隊に応召《おうしょう=在郷軍人が召集に応じて参集》
衛生曹長の階級を与う 見習士官を命ず
羅南《=ナラム》陸軍病院付
十月 十五日 会寧《=フェリョン》陸軍病院付
昭和十七年 十月 十五日 軍医少尉補 会寧陸軍病院付
十一月 三十日 召集解除
この軍歴書は六十一年に横浜刑務所を退職するつもりでいたので年金の足しになるかと、羅南のは高丸(大学同期生、一緒に召集され羅南陸軍病院に配属された)に、会寧のは藤本君(大学の後輩で会寧陸軍病院の庶務主任)に証明を書いてもらい作っておいた。
召集令状は葉書よりは少し大きな赤い紙に、何月何日何時ドコソコエ入隊すべき文句が記入されている。これが来れば否応なし、荷物は何も要らない、赤紙を小さな奉公袋に入れて体一つで指定の時に指定の場所に行かねば「徴兵忌避《ちょうへいきひ=徴兵適齢者が徴兵を嫌って避けた》」の罪で捜し出されたすえ軍法会議(軍の特別裁判所)で厳罰を受ける。
私は軍刀を風呂敷に包んで持って行ったが他に何を持っていたか覚えていない。この軍刀は、双浦で今泉さんにみて頂いて購入した備前物の脇差を革の鞘《さや》に包んで軍装にしておいた。(今泉さんは工員養成所の所長で、閣下で通る予備役陸軍少将、敗戦の時はこの地区の軍司令官だった。城津《=ソンジン》で部隊は武装解除を受けソ連に連れて行かれたが幸い帰国されたと聞いた。ついにお会いせぬままでいる)。
いずれは私にも召集令が来るものと覚悟はしており、軍刀も用意はしていたが本当に戦争になって戦地に行くとか、生きては帰られぬかも知れぬとかは思ってもいなかった。「出征」の前に婦人科の高田さんが三池子が妊娠していることを知らせてくださったが、当然帰って来れば会えるものとしか考えていなかった。
幸い私は一年余りで召集解除になったが、その儘《まま》敗戦の時まで従軍を続けた者も、再召集を受けた者も多く、シベリアに連れて行かれた者、南方に行った者、この時の召集仲間の運命は色々だった。ニューギニア、フィリッピンに行った者のうち、五人が戦死した。
この時の召集は関東軍特別大演習「関特演」と言われたもので南鮮でも第二十師団に多数が召集された。独蘇《どくそ=ドイツとソビエト》戦の牽制《けんせい》のように聞いたが既に対英米戦の準備だったのだろう。召集指定の七十三連隊にはクラスの、林、丹羽、高丸、溝淵、松岡、吉野がいたようだ。私は幸い高丸と一緒に羅南陸軍病院付になった。高丸は二度目の召集(初めは昭和十四年、日本軍がソ連の戦車隊に完敗したノモンハンに行っている)なので彼の言うとおりに行動して、皆目勝手分からぬ軍隊生活に大変助かった。
召集されたものは野戦部隊《=実戦の部隊》と留守部隊とに配属され、野戦部隊は毎日の猛訓練で鍛えられたが陸軍病院では特別な肉体訓練はなく、いくらかの軍陣医学の講義があだけ、野戦のとき何処に野戦病院を置くかなどの話だった。
病院配属の召集者は多勢いて診察の仕事はない。見習士官だけでも五、六人はおり、広いひと部屋をあてがわれ一と月余りすることなしに将棋《しょうぎ》や碁《ご》をやっていた。十月にようやく各々の配置が決まり、私はも一人の見習士官と会寧陸病に転属になった。
会寧は豆満江をはさんで対岸は満州、山の中の国境の町で京城から羅南を通り満州のハルビン、新京(長春)に行く鉄道が通っている。既に秋は過ぎ冬の北風が吹いていた。ここには歩兵、工兵砲兵、飛行聯隊のほか野戦部隊がいくつもいたよぅだ。
病院長はもう年輩の中佐だったが、その後待命になり後任に大陸で野戦病院長をしていた大佐が来た。庶務《しょむ》主任は城大の三年後輩の中尉で、大学では面識はなかったが何よりも頼みになった。専属の軍医は私たちの他には何人もいなかったようで、眼科、外科等の専門医は隊付きの召集軍医が来ていたし、宿直も隊付き軍医が交代で泊まっていた。
後になって新卒の現役少尉が配属されて来た、新進気鋭=新進で意気込みのはげしい》の自信家、恐いもの知らずか。それと現役の薬剤少尉、これも見習士官より階級は上である。薬剤長は年輩の穏やかな中佐。歯科は町の開業医が来ていた。
私の仕事は内科の患者を診ていればよかった。一緒の見習士官は阪大出の産婦人科医で内科患者の主導権は私に任せてくれた。病室主任は庶務主任になっているがこれも任せてくれた。患者は兵隊が殆どで、将校患者は稀《まれ》にあり病室主任が主治医になる建前《たてまえ》だった。
軍隊には色々な制約があったのだろうが、治療に就いて束縛《そくばく》を受けた記憶はない。診療簿にチンキでなく丁幾、ピカでなく重曹と書くように言われた位の記憶しかない。初めの院長には何かと「指導」を受けたが次の院長は初め二、三回診療室に様子を見に来たが、その後は報告を聞くだけになった。
診察の他に衛生兵の教育があるが毒ガスなど知らぬ事は衛生曹長に頼んで私は側で聞いていた。
亦週番士官という勤務もあった。週番士官のタスキを掛け下士官を従えて消灯前に各内務班を巡視するのだが、これは班長の「異常有りません」との報告を受けるだけであれば問題はない。何か事が起きたときにはまったくお手上げの週番士官だが、幸い何事もなしにすんでいた。
時には兵隊を引率して外を歩かねばならぬ事がある。この時に面倒なのが敬礼で、階級が下の者は向こうが先にしてくれるが、そうでないのには「歩調トレ、カシラ右」--の号令を掛けねばならない(コノコロハ右側通行)。見習士官だから将校と見れば号令を掛ければよいのだが、準尉《じゅんい=将校に準ずる》という厄介なのがいる。
階級は見習士官が上だか、準尉の服装は将校の格好で襟章《=えりにつけた飾章》を見なければ分からない。
(註)これにさきに号令を掛けるのはまずい、いちいち気を使うのは面倒だからこれも指揮は下士官に頼んで別に歩くようにした。
註 準尉
下士官、兵は同じ官給の服でいわゆるゴボウ剣を上着の上に着けている。
準尉と将校とは自前の良い生地の服装で、長い剣を上着の下の刀帯に吊っいて、帽子も下士官、兵とは違う。
襟章は各兵科別に決まった色分けになっていて(例えば歩兵はエンジの赤、騎兵は萌黄《もえぎ》)、階級を示す筋と星とが付いている、少尉は筋一本に星一つ、中佐は筋二本に星二つ。準尉にはこの星がない。
見習士官は下士官の服装に長い剣を上着の上に締めた刀帯に吊り、襟章は曹長と同じ三っだが横に座金がつている。
準尉はもとは特務曹長と言っていた。「兵」の初めは二等兵で一等兵、上等兵、兵長と上がって来る。この上が下士官で伍長、軍曹、曹長となりこの上が準士官といわれる準尉。ここまて昇ってくるのは大変なことで大ベテラン、この後も優れた者は将校になり、少尉更に上にもなれるがよくよくの身に限られる。
見習士官は階級は曹長だが身分は将校なので部隊の営門《=兵営所の門》での敬礼も違うようだ。同行した下士官が衛兵に私えの敬礼をやり直させたことがある。
師団長主催の新年宴会にも出席した。こうした正式の会の席は宮中席次で決まるので、召集を受けた文官《ぶんかん=武官でない官吏》の将校の方が隊の上官よりも上の席につくと聞いた。
師団の将校は殆ど集まっているのだろうが、見習士官は末席に座っているので上の方は分からぬ。なおこの席での余興に当時一流とわたしも名前を知っていたバイオリニストが兵で召集きれていて、カツポレか何かを注文されて気の毒に思った。
営内《=兵舎内》居住の決まりになっているが、外出は自由である。会寧の陸病では兵舎の二階の個室で暮らした。暖房はペーチカで食事、洗濯、掃徐の世話など全て当番の従兵がやってくれる.朝は運んでくれた朝飯を摂《と》って病院に行くが刀はつけないでいい。患者の診察をして、昼は病院長以下の将校らと会食する。午後は重症者病室の回診や、講義や、時には慰問演芸の立会いや結構忙しかったが、定時になれば部屋に帰り、一番風呂に入って夕食を摂る。勤務時間後の患者は宿直の者がやってくれるので全くの自分の時間になり、城津に比べるとはるかに楽な毎日である。外出は自由だが行く所とてはない。映画館が一軒あって時に見に行ったこともある。一人ではつまらないので下士官、兵の誰かを連れて行くが、臨時の外出ができるので喜んでいた。この他には城津工場の警備?課長だった丹下さんが会寧の邑長でおられたのをお訪ねしたのと、お菓子屋にお万頭《まんじゅう》を買いに行くくらいだったろう。
天長節(天皇誕生日)だったと思うが暖かい小春日和に兵隊達を連れて支那料理屋に行ったことがある.二、三十人だったろうか。支那料理屋と言っても支那蕎麦《しなそば》、ワンタン、ポーズのようなものだったろう。小さな店なので入りきれない、てんでに外で腰掛けて食べていた。下士官に財布を渡して面倒を見て貰ったが幾らかかったかは記憶にない。
勤務のなかで楽みなのは患者移送がある。入院患者で長期療養を要するものは内地や鮮内の療養所に移すのだがこれを連れて行く仕事で、患者は一人の事も、十数人のこともある。内地送還は汽車に乗って清津《チョンジン=朝鮮北東部の港市》まで連れて行き、ここから船に乗せた。朱乙《チュウル》や馬山《マサン=韓国の港湾都市》の療養所にも行った。慢性の病人だが重症患者はいないし患者の引率は下士官、兵がいるから私の出番はない。清津《チョンジン》は日帰りだったが、用が済んだ後に、ホテルの港が見える食堂で何か洋食らしいものを食べるのが楽しみだった。患者一人を送りに兵と二人で朱乙《チュウル》分院に行ったときは、患者を引き渡した後、兵を連れて二人で温泉旅館に行った。温泉に入り浴衣を着て夕食をたべた。外出は自由だが外泊は出来ないのでご馳走を食べてからまた分院に戻り宿舎に泊って翌日会寧に帰った。この温泉は城津から息抜きに何回か来た所だ。
馬山は朝鮮の南端だから北の端の会寧《フェリヨン》からは大変な長道中《ながどうちゅう》で、朝立って乗り換えを二回し次の日の午後に着いた。患者と下士官とは三等車で私は二等車だから途中では、朝目を覚ましたときと、列車乗り換《か》えのときに会うだけ。無事患者を引き渡してから下士官と別れて、すぐ夜汽車で引き返して朝早く京城《ソウル》に着いた。洋子が生まれて間もない頃だった。
会寧《フェリヨン》に居るとき軍医少尉になった。軍歴書で見ると十月十五日である。今までは何もかも官の支給品で暮らしてきたがこれからは、自分の費用で暮らすことになる。も一人の見習士官も一緒に任官したので二人で偕行社に行き、軍服、外套、靴、長靴《ちょうか》、背嚢《はいのう=軍人が背負う方形のカバン》、将校行李《こうり》など一揃いを整えた。幾ら掛かったのか、其の費用はどうしたのか記憶にないが、見習士官の俸給で間に合ったのだろう。長靴など必需品ではないのに何故これも貰ったのか分からぬ。「地方」=(チホウ、軍隊でないー般民間)では手に人らぬ物なので、長靴は敗戦直後に物々交換で米一斗になった。
十一月三十日 召集解除。任官してーと月余り経っているがこの間の記憶は無い。官舎に入ったのだろうか、食事はどうしていたのかも覚えていない。
解除になるとすぐ発って城津により其の足で京城に行き、清瀬《きよせ=東京都北部の市》お母さんの容態がよくないので洋子を連れて三人ですぐ東京に向かった。軍人優先の世の中なのに便乗して道中は軍服を着たままで通したが、関釜連絡船に乗るのに行列とは別にすぐに乗せ貰えたりしたように何かと便利だったようだ。しかし軍服を着ていても、一年余りの病院勤務しか経験の無いこの将校さんは、大失敗をした。東京から父と四人で仁科に行ったときに、沼津で軍刀を置き忘れて汽車を降り、駅を出て自動車に乗るときに気が付いた。幸い停車時間が長かったので汽車はまだ出ていなかったから助かった。
伊豆仁科《静岡県西伊豆》の、伊山伯父は三池子の父智道の兄で、幼時三池子が育ったところ。この伊豆行きは三池子との結婚の挨拶もだが、お母さんの葬式のあとの息抜きもあって仁科にご厄介になった。蓮台温泉《れんだいおんせん》に案内してくださり、手作りのドプロクのご馳走にもなった。伊山伯父とはこれが最後だった。
私の応召中三池子は、家財を城津の社宅に残したまま京城の山本家で世話になっていた。洋子はここで無事に生まれ、皆に可愛がられて育った。この間に山本のおぢいさんが京城高等商業学校校長を退官されている。何か有ったようだが、それについて、一切話された事はない。
応召中にも会社からは俸給《=公務員に対して支払われる給料》の何割かがでていたので、三池子は東京への仕送りは続けてくれていた。少尉になると俸給は増えたのだろうが、どうしたのか憶えていない。解除になり東京に行く費用は手元に有ったのだろう。
私の軍隊生活はこの時の一回だけだったが、一緒に解除になった者の多くは二度目の召集でビルマ、フィリッピン、ニューギニアに行っている。召集解除が無いまま敗戦のときまでいてシベリアに連れて行かれた者もいる。これは先に記した。
私が再召集を受けなかったのは、軍需工場の病院でその内科の責任者だったからだろうか。敗戦間際に内科と皮膚科の二人が召集をうけた。私に当たっていれば戦後の生活は全く変わったものだったろう。
又、城津赴任の際の外国留学の約束は獨蘇戦に続く大東亜戦争《=太平洋戦争》で駄目になり、国内留学に代わった。召集解除を期に城大に戻る話があったが、これは別に記す。実現していたらこれもどんな 運命になっていただろうか。
大東亜戦争は日本の呼び名、今は太平洋戦争とか、第二次大戦とか言われている。学生時代からの、支那事変、満州事変が行き着いた対英米宜戦布告《=開戦宣言》は、召集をうけていた会寧陸軍病院で聞いた。
近くに野戦部隊はいたが、病院に戦傷者がいるわけもなく、戦争は遠い他人ことだった。一年余りの私の軍隊生活は、戦地に行った者には極楽にいるものと思われるだろう。背嚢しょって行軍したこともなく、いわんや弾《たま》の下をくぐったことはなく、「上官の命令」も知らない。
誰もが召集の為に一生が左右された時代だった。私は運が良かった方だと思っている。
以上
昭和十六年九月~十七年十一月
十六年九月何日だったかは忘れてしまったが赤紙がきた。小児科の豊田君が一諸だったと思うが出かけた時は一人だけだった。召集らしい様子が分からぬよう隠密に出発することと言われた。病院で壮行会を催してくださった、鱈《たら》の料理だった。
門出に「海征かば」を歌ったが自分自身が「草ムスカバネ」の身になるなどの実感はなにもなかった。
海征《ゆ》かば みずく屍《かばね=しかばね》 山征かば草むす屍
大君の辺《へ》にこそ死なめ 返り見は せじ
私は昭和十三年一月に初めて実施された第一期軍医予備員教育を受けていたので、身分は予備役陸軍軍曹、召集された時は軍医として従軍することになる。
大学を卒業した年に京城《ソウル 》龍山で徴兵検査を受け、第一乙種合格と言われた。甲種合格だと殆《ほとん》どは現役でその年に兵隊にいく。乙種合格には第一と第二とがあり、その次は丙種合格、ここまでは国民皆兵と言われていて一旦緩急《いったんかんきゅう=ひとたび緊急な大事が》ある時はこの順番で軍に召集される。時勢は何時召集令状(赤紙)が来るかわからぬので、一乙の者は殆どこの教育を受けた。
十六年十二月八日大東亜戦争《太平洋戦争》が始まってからは召集は丙種にまで広がり、まさか召集はあるまいとこの教育を受けなかった者は二等兵で召集され一年間は普通の兵隊、すぐには軍医にはなれなかった。
軍歴確認書
昭和十三年 -月 九日 衛生伍長の階級を与う
軍医予備員候補者として歩兵第七十八連隊に入隊
二十三日 衛生軍曹
軍医予備員を命ず
二十四日 在営期間満了除隊
昭和十六年 九月 十六日 臨時召集により歩兵第七十三連隊に応召《おうしょう=在郷軍人が召集に応じて参集》
衛生曹長の階級を与う 見習士官を命ず
羅南《=ナラム》陸軍病院付
十月 十五日 会寧《=フェリョン》陸軍病院付
昭和十七年 十月 十五日 軍医少尉補 会寧陸軍病院付
十一月 三十日 召集解除
この軍歴書は六十一年に横浜刑務所を退職するつもりでいたので年金の足しになるかと、羅南のは高丸(大学同期生、一緒に召集され羅南陸軍病院に配属された)に、会寧のは藤本君(大学の後輩で会寧陸軍病院の庶務主任)に証明を書いてもらい作っておいた。
召集令状は葉書よりは少し大きな赤い紙に、何月何日何時ドコソコエ入隊すべき文句が記入されている。これが来れば否応なし、荷物は何も要らない、赤紙を小さな奉公袋に入れて体一つで指定の時に指定の場所に行かねば「徴兵忌避《ちょうへいきひ=徴兵適齢者が徴兵を嫌って避けた》」の罪で捜し出されたすえ軍法会議(軍の特別裁判所)で厳罰を受ける。
私は軍刀を風呂敷に包んで持って行ったが他に何を持っていたか覚えていない。この軍刀は、双浦で今泉さんにみて頂いて購入した備前物の脇差を革の鞘《さや》に包んで軍装にしておいた。(今泉さんは工員養成所の所長で、閣下で通る予備役陸軍少将、敗戦の時はこの地区の軍司令官だった。城津《=ソンジン》で部隊は武装解除を受けソ連に連れて行かれたが幸い帰国されたと聞いた。ついにお会いせぬままでいる)。
いずれは私にも召集令が来るものと覚悟はしており、軍刀も用意はしていたが本当に戦争になって戦地に行くとか、生きては帰られぬかも知れぬとかは思ってもいなかった。「出征」の前に婦人科の高田さんが三池子が妊娠していることを知らせてくださったが、当然帰って来れば会えるものとしか考えていなかった。
幸い私は一年余りで召集解除になったが、その儘《まま》敗戦の時まで従軍を続けた者も、再召集を受けた者も多く、シベリアに連れて行かれた者、南方に行った者、この時の召集仲間の運命は色々だった。ニューギニア、フィリッピンに行った者のうち、五人が戦死した。
この時の召集は関東軍特別大演習「関特演」と言われたもので南鮮でも第二十師団に多数が召集された。独蘇《どくそ=ドイツとソビエト》戦の牽制《けんせい》のように聞いたが既に対英米戦の準備だったのだろう。召集指定の七十三連隊にはクラスの、林、丹羽、高丸、溝淵、松岡、吉野がいたようだ。私は幸い高丸と一緒に羅南陸軍病院付になった。高丸は二度目の召集(初めは昭和十四年、日本軍がソ連の戦車隊に完敗したノモンハンに行っている)なので彼の言うとおりに行動して、皆目勝手分からぬ軍隊生活に大変助かった。
召集されたものは野戦部隊《=実戦の部隊》と留守部隊とに配属され、野戦部隊は毎日の猛訓練で鍛えられたが陸軍病院では特別な肉体訓練はなく、いくらかの軍陣医学の講義があだけ、野戦のとき何処に野戦病院を置くかなどの話だった。
病院配属の召集者は多勢いて診察の仕事はない。見習士官だけでも五、六人はおり、広いひと部屋をあてがわれ一と月余りすることなしに将棋《しょうぎ》や碁《ご》をやっていた。十月にようやく各々の配置が決まり、私はも一人の見習士官と会寧陸病に転属になった。
会寧は豆満江をはさんで対岸は満州、山の中の国境の町で京城から羅南を通り満州のハルビン、新京(長春)に行く鉄道が通っている。既に秋は過ぎ冬の北風が吹いていた。ここには歩兵、工兵砲兵、飛行聯隊のほか野戦部隊がいくつもいたよぅだ。
病院長はもう年輩の中佐だったが、その後待命になり後任に大陸で野戦病院長をしていた大佐が来た。庶務《しょむ》主任は城大の三年後輩の中尉で、大学では面識はなかったが何よりも頼みになった。専属の軍医は私たちの他には何人もいなかったようで、眼科、外科等の専門医は隊付きの召集軍医が来ていたし、宿直も隊付き軍医が交代で泊まっていた。
後になって新卒の現役少尉が配属されて来た、新進気鋭=新進で意気込みのはげしい》の自信家、恐いもの知らずか。それと現役の薬剤少尉、これも見習士官より階級は上である。薬剤長は年輩の穏やかな中佐。歯科は町の開業医が来ていた。
私の仕事は内科の患者を診ていればよかった。一緒の見習士官は阪大出の産婦人科医で内科患者の主導権は私に任せてくれた。病室主任は庶務主任になっているがこれも任せてくれた。患者は兵隊が殆どで、将校患者は稀《まれ》にあり病室主任が主治医になる建前《たてまえ》だった。
軍隊には色々な制約があったのだろうが、治療に就いて束縛《そくばく》を受けた記憶はない。診療簿にチンキでなく丁幾、ピカでなく重曹と書くように言われた位の記憶しかない。初めの院長には何かと「指導」を受けたが次の院長は初め二、三回診療室に様子を見に来たが、その後は報告を聞くだけになった。
診察の他に衛生兵の教育があるが毒ガスなど知らぬ事は衛生曹長に頼んで私は側で聞いていた。
亦週番士官という勤務もあった。週番士官のタスキを掛け下士官を従えて消灯前に各内務班を巡視するのだが、これは班長の「異常有りません」との報告を受けるだけであれば問題はない。何か事が起きたときにはまったくお手上げの週番士官だが、幸い何事もなしにすんでいた。
時には兵隊を引率して外を歩かねばならぬ事がある。この時に面倒なのが敬礼で、階級が下の者は向こうが先にしてくれるが、そうでないのには「歩調トレ、カシラ右」--の号令を掛けねばならない(コノコロハ右側通行)。見習士官だから将校と見れば号令を掛ければよいのだが、準尉《じゅんい=将校に準ずる》という厄介なのがいる。
階級は見習士官が上だか、準尉の服装は将校の格好で襟章《=えりにつけた飾章》を見なければ分からない。
(註)これにさきに号令を掛けるのはまずい、いちいち気を使うのは面倒だからこれも指揮は下士官に頼んで別に歩くようにした。
註 準尉
下士官、兵は同じ官給の服でいわゆるゴボウ剣を上着の上に着けている。
準尉と将校とは自前の良い生地の服装で、長い剣を上着の下の刀帯に吊っいて、帽子も下士官、兵とは違う。
襟章は各兵科別に決まった色分けになっていて(例えば歩兵はエンジの赤、騎兵は萌黄《もえぎ》)、階級を示す筋と星とが付いている、少尉は筋一本に星一つ、中佐は筋二本に星二つ。準尉にはこの星がない。
見習士官は下士官の服装に長い剣を上着の上に締めた刀帯に吊り、襟章は曹長と同じ三っだが横に座金がつている。
準尉はもとは特務曹長と言っていた。「兵」の初めは二等兵で一等兵、上等兵、兵長と上がって来る。この上が下士官で伍長、軍曹、曹長となりこの上が準士官といわれる準尉。ここまて昇ってくるのは大変なことで大ベテラン、この後も優れた者は将校になり、少尉更に上にもなれるがよくよくの身に限られる。
見習士官は階級は曹長だが身分は将校なので部隊の営門《=兵営所の門》での敬礼も違うようだ。同行した下士官が衛兵に私えの敬礼をやり直させたことがある。
師団長主催の新年宴会にも出席した。こうした正式の会の席は宮中席次で決まるので、召集を受けた文官《ぶんかん=武官でない官吏》の将校の方が隊の上官よりも上の席につくと聞いた。
師団の将校は殆ど集まっているのだろうが、見習士官は末席に座っているので上の方は分からぬ。なおこの席での余興に当時一流とわたしも名前を知っていたバイオリニストが兵で召集きれていて、カツポレか何かを注文されて気の毒に思った。
営内《=兵舎内》居住の決まりになっているが、外出は自由である。会寧の陸病では兵舎の二階の個室で暮らした。暖房はペーチカで食事、洗濯、掃徐の世話など全て当番の従兵がやってくれる.朝は運んでくれた朝飯を摂《と》って病院に行くが刀はつけないでいい。患者の診察をして、昼は病院長以下の将校らと会食する。午後は重症者病室の回診や、講義や、時には慰問演芸の立会いや結構忙しかったが、定時になれば部屋に帰り、一番風呂に入って夕食を摂る。勤務時間後の患者は宿直の者がやってくれるので全くの自分の時間になり、城津に比べるとはるかに楽な毎日である。外出は自由だが行く所とてはない。映画館が一軒あって時に見に行ったこともある。一人ではつまらないので下士官、兵の誰かを連れて行くが、臨時の外出ができるので喜んでいた。この他には城津工場の警備?課長だった丹下さんが会寧の邑長でおられたのをお訪ねしたのと、お菓子屋にお万頭《まんじゅう》を買いに行くくらいだったろう。
天長節(天皇誕生日)だったと思うが暖かい小春日和に兵隊達を連れて支那料理屋に行ったことがある.二、三十人だったろうか。支那料理屋と言っても支那蕎麦《しなそば》、ワンタン、ポーズのようなものだったろう。小さな店なので入りきれない、てんでに外で腰掛けて食べていた。下士官に財布を渡して面倒を見て貰ったが幾らかかったかは記憶にない。
勤務のなかで楽みなのは患者移送がある。入院患者で長期療養を要するものは内地や鮮内の療養所に移すのだがこれを連れて行く仕事で、患者は一人の事も、十数人のこともある。内地送還は汽車に乗って清津《チョンジン=朝鮮北東部の港市》まで連れて行き、ここから船に乗せた。朱乙《チュウル》や馬山《マサン=韓国の港湾都市》の療養所にも行った。慢性の病人だが重症患者はいないし患者の引率は下士官、兵がいるから私の出番はない。清津《チョンジン》は日帰りだったが、用が済んだ後に、ホテルの港が見える食堂で何か洋食らしいものを食べるのが楽しみだった。患者一人を送りに兵と二人で朱乙《チュウル》分院に行ったときは、患者を引き渡した後、兵を連れて二人で温泉旅館に行った。温泉に入り浴衣を着て夕食をたべた。外出は自由だが外泊は出来ないのでご馳走を食べてからまた分院に戻り宿舎に泊って翌日会寧に帰った。この温泉は城津から息抜きに何回か来た所だ。
馬山は朝鮮の南端だから北の端の会寧《フェリヨン》からは大変な長道中《ながどうちゅう》で、朝立って乗り換えを二回し次の日の午後に着いた。患者と下士官とは三等車で私は二等車だから途中では、朝目を覚ましたときと、列車乗り換《か》えのときに会うだけ。無事患者を引き渡してから下士官と別れて、すぐ夜汽車で引き返して朝早く京城《ソウル》に着いた。洋子が生まれて間もない頃だった。
会寧《フェリヨン》に居るとき軍医少尉になった。軍歴書で見ると十月十五日である。今までは何もかも官の支給品で暮らしてきたがこれからは、自分の費用で暮らすことになる。も一人の見習士官も一緒に任官したので二人で偕行社に行き、軍服、外套、靴、長靴《ちょうか》、背嚢《はいのう=軍人が背負う方形のカバン》、将校行李《こうり》など一揃いを整えた。幾ら掛かったのか、其の費用はどうしたのか記憶にないが、見習士官の俸給で間に合ったのだろう。長靴など必需品ではないのに何故これも貰ったのか分からぬ。「地方」=(チホウ、軍隊でないー般民間)では手に人らぬ物なので、長靴は敗戦直後に物々交換で米一斗になった。
十一月三十日 召集解除。任官してーと月余り経っているがこの間の記憶は無い。官舎に入ったのだろうか、食事はどうしていたのかも覚えていない。
解除になるとすぐ発って城津により其の足で京城に行き、清瀬《きよせ=東京都北部の市》お母さんの容態がよくないので洋子を連れて三人ですぐ東京に向かった。軍人優先の世の中なのに便乗して道中は軍服を着たままで通したが、関釜連絡船に乗るのに行列とは別にすぐに乗せ貰えたりしたように何かと便利だったようだ。しかし軍服を着ていても、一年余りの病院勤務しか経験の無いこの将校さんは、大失敗をした。東京から父と四人で仁科に行ったときに、沼津で軍刀を置き忘れて汽車を降り、駅を出て自動車に乗るときに気が付いた。幸い停車時間が長かったので汽車はまだ出ていなかったから助かった。
伊豆仁科《静岡県西伊豆》の、伊山伯父は三池子の父智道の兄で、幼時三池子が育ったところ。この伊豆行きは三池子との結婚の挨拶もだが、お母さんの葬式のあとの息抜きもあって仁科にご厄介になった。蓮台温泉《れんだいおんせん》に案内してくださり、手作りのドプロクのご馳走にもなった。伊山伯父とはこれが最後だった。
私の応召中三池子は、家財を城津の社宅に残したまま京城の山本家で世話になっていた。洋子はここで無事に生まれ、皆に可愛がられて育った。この間に山本のおぢいさんが京城高等商業学校校長を退官されている。何か有ったようだが、それについて、一切話された事はない。
応召中にも会社からは俸給《=公務員に対して支払われる給料》の何割かがでていたので、三池子は東京への仕送りは続けてくれていた。少尉になると俸給は増えたのだろうが、どうしたのか憶えていない。解除になり東京に行く費用は手元に有ったのだろう。
私の軍隊生活はこの時の一回だけだったが、一緒に解除になった者の多くは二度目の召集でビルマ、フィリッピン、ニューギニアに行っている。召集解除が無いまま敗戦のときまでいてシベリアに連れて行かれた者もいる。これは先に記した。
私が再召集を受けなかったのは、軍需工場の病院でその内科の責任者だったからだろうか。敗戦間際に内科と皮膚科の二人が召集をうけた。私に当たっていれば戦後の生活は全く変わったものだったろう。
又、城津赴任の際の外国留学の約束は獨蘇戦に続く大東亜戦争《=太平洋戦争》で駄目になり、国内留学に代わった。召集解除を期に城大に戻る話があったが、これは別に記す。実現していたらこれもどんな 運命になっていただろうか。
大東亜戦争は日本の呼び名、今は太平洋戦争とか、第二次大戦とか言われている。学生時代からの、支那事変、満州事変が行き着いた対英米宜戦布告《=開戦宣言》は、召集をうけていた会寧陸軍病院で聞いた。
近くに野戦部隊はいたが、病院に戦傷者がいるわけもなく、戦争は遠い他人ことだった。一年余りの私の軍隊生活は、戦地に行った者には極楽にいるものと思われるだろう。背嚢しょって行軍したこともなく、いわんや弾《たま》の下をくぐったことはなく、「上官の命令」も知らない。
誰もが召集の為に一生が左右された時代だった。私は運が良かった方だと思っている。
以上
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編集者 (代理投稿)