朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9
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朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり> (編集者, 2006/9/24 21:47)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1 (編集者, 2006/9/25 8:52)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2 (編集者, 2006/9/25 8:54)
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- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6 (編集者, 2006/10/19 19:27)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7 (編集者, 2006/10/19 19:55)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8 (編集者, 2006/10/22 20:47)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9 (編集者, 2006/10/23 7:42)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その10 (編集者, 2006/10/23 7:56)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11 (編集者, 2006/11/24 8:00)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その12 (編集者, 2006/11/24 8:09)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13 (編集者, 2006/11/25 8:57)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14 (編集者, 2006/11/25 9:30)
- Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記 (HI0815, 2006/12/26 8:58)
編集者
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#2 十人家族の一年間
敗戦の時のわが家は妻と八ヶ月、三歳の子の四人家族だったが、
ロスケ《ロシア人をあざけっていう語が社宅を荒すようになってからは、内科医の ご主人が召 集された片山夫人と一歳の子と一緒に住むことにした。
病院解散のあとに看護婦養成所の生徒と、工員養成所の 生徒との四人を預かり十人になった。
ロスケが来てからは、乱暴狼藉が続き、女たちは坊主《ぼうず》頭になったものもいる。家の天井や床下に身を隠した。妻たちは昼は子供を抱いて家の回りをロスケの眼を避けて逃げ回り、夜は二人で裏山の大豆畑のなかに身を潜めていた。下の方でピストルの音がするのが良く聞こえたという。
私は家で電燈を暗くして音もたてぬように息をつめて三人の子を寝かせていると、ガヤガヤと大声がし、ロスケが玄関の戸を叩く。壊されては困るので開けると、何人もが土足でどかどかと入って来る。一晩に何回か殆《ほとん》ど毎日のことで、こちらが抵抗しないのが分かっているので傍若無人《ぼうじゃくぶじん》だ。女がいないとわかると、押入れのものを放り出し、箪笥《たんす》の引き出しを抜き出し、持ちたいだけ持って出て行く。ある時、日中ジープで乗り付けてトランクに詰め込んで根こそぎ取っていった。この連中はロスケのほか東洋人もいた。八路軍《はちろぐん=1947年人民解放軍と改称》と聞いたが蒙古人《もうこじん=モンゴル人》の顔貌《がんぼう=顔かたち》と見た。
片山さんの家は工員養成所の生徒が三人留守番でいた。ここは殆ど荒されることがなかったが、一人がソ連兵に捕まえられた。幸い捕まえられた仲間では一番小さかったので釈放されてきたが、他の人たちは連れ去られたようだ。
九月になりロスケの襲撃がようやく少なくなってきた時、突然病院住宅に立ち退きの命令が来た、しかも当日の夕方までと期限付きである。この頃は今後どうなるのか見通しは全く五里霧中《ごりむちゅう=見通しがまったくたたない》で、すぐ近く帰国出来るとする者から、捕虜みたいに使役《特に雑役をさせる》に使われるとする者まで意見はまちまちで、実際に民間人もソ連軍に連れ去られている。
零下十度以下になる土地で皆が冬を過ごすとなると大変なことになるが、五千人もの集団がそうすぐに帰国は出来まい。又日本人が居る間は面倒をみに残るつもりなので、私は長期戦を覚悟していた。
若者三人が大八車《だいはちぐるま=8人分の仕事をする意》をさがしてきてくれて、片山家とわが家にある食料は全部、二個有った大豆カス(註)も積んだ。寝具、衣料も残らず選んだ。本は内科学三冊と治療学、細菌学、統計学の計六冊を選んだ。(翌日他の本を取りに行った時には、全部庭にほうり出されて焼かれていた)。引越先は六畳と四畳半の二た間で、この家にはも一つ六畳間があり四人家族の方がおられた。
註 大豆カスは乗馬クラブ厩舎長の計らいでロスケが来る前に、病院職員は一個ずつわけて貰った。ドーナツ形の五、六十キロはあろう重たいもので、捨てた家が多かったようだが、わが家では引越のたびに運んでいた。もともとは馬の飼料だが、
ペンチやのみ、金槌などでほぐして一年間の食糧に大事に使った。
工場には工員養成所と看護婦養成所があって、地元の子女以外に内地で募集して連れて来た子らがいる。会社がこの子たちの寄宿舎生の面倒を見ることが出来なくなった為に路頭に迷う身になるので、身寄りのない子たちは職員の有志が引き取ることにした。わが家では養成工三人と看護婦生徒一人と、併せて四人を預かったので、家族は皆で十人になっていた。私たちは抑留者中屈指《くっし》の大家族で、この後も引越を何回もして段々広い所に移り、最後は技師長舎宅の応接間と座敷との二た部屋に住んでいた。
この子たちを預かった家庭で一番の問題は食べ物だったようだ。若者らの不満は自活をえらび、看護婦生徒も外に出て飲食店などに住み込んで働くようになった。なかには養いきれずに外に出した家もあるようだが、わが家十人の結束は終始崩れなかった。
わが家の主食は豆かすと海藻入りの雑炊、大豆粉ととうもろこし粉のパンに馬鈴薯で
干明太魚が主な蛋白源だった。朝鮮人の市場バザールは早々と開かれ戦時中乏しかった食料は米を始め色々と並んでいたが、その中では塩でかき混ぜた生ウニが安くて栄養価が高く、大豆パンに好くあったペーストとして大変重宝した。
お金があれば何でも手に入るので、各々の家の暮らしぶりは様々のようだった。わが家での現金や物々交換は、略奪が少なかった片山さんの衣類を売って作っていたが、十人家族の台所は大変だった。(私の家の衣類は殆どロスケに取られてしまった)。やがて若者三人は港の荷役《にやく=船荷のあげおろし》に出るようになり、工場が再開されると工場で働いて現金、大豆等の食料の支給を受け、これを日本人世話会に供出した。
私は初め市民病院に、後に診療所に出て現金を受けていた。その一部は世話会に渡していたが、残りは往診先で使ってしまったようだ。妻はこの間、私から現金を受け取った覚えは無いと言っている。
ロスケが駐屯部隊だけになると、治安は落ち着いてきた。私たちが追い出された病院舎宅にはソ連軍将校が家族と住むようになった。この細君達が服を作りたがっているとの話を聞いたので、片山さんと妻とは元のわが家にでかけていった。わが家のマダムは、早速今から始めて欲しいと言う。二人はそれからは毎日ロスケ宅に「通勤」を始めることになった。ミシンは使い馴れた自分のものだ。
彼女の示すスタイルブックと生地とで仕立て上げる仕事だが、マダムはつきっきりで裁断、裁縫の手伝いをし、昼と夕食と、間の休み時間とには自分達と同じ食べ物を手作りで出してくれる。昼前に行くと夕方まで仕事をさせて、食器の後始末などには一切手を出させない。帰るときには、何かの報酬を出すが現金ではなく黒パンが一切れのこともあり一山のときもある。メリケン粉、油、砂糖、煙草などのこともあり、何れも大変な貴重品だった。
休み時間に出されたケーキを食べずに、持ち帰って子供に食べさせようと思っていると、それは別にあげるからこれは食べてくれと言われる。十数軒ある隣近所のマダムたちから一仕事終わるのを待ち切れぬばかりに引っ張りだこにされた。
治安が落ち着いてきたとはいえ、全然様子の分らぬ、言葉も分らぬ所に出かけたのだから大変な冒険だった。ロスケの兵隊はいるがマダムが守ってくれるので心配はない。仕事の割に報酬は少ないが二人分の食糧が無くてすむのだから大いに助かる。お土産は一家の潤い、団欒《だんらん》の貴重なかてであった。
マダムたちの生活は家によって違うが何処も切り詰めたもので、流してくれる品物は彼女らにとっては精いっぱいだったようだ。しかし男共が港湾の荷役に出て、一とにぎりの食料、大豆を支給されるのに比べると好い仕事と言える。
私は病院に、若者三人は工場に、片山さんと妻とはロスケの家に働きに出た後は看護婦生徒の前田さん(屋久島《やくしま》から応募)と子供ら三人が家に残っている。前田さんは家事一切と子供の面倒を全部取り仕切って、やりとげてくれた。皆が働きに出られて、十人もの家族が一年有余の抑留生活を無事切り抜けることが出来たのは、全く前田さんのお蔭だった。
六人の脱出は後記する。
以上 十人家族 終り
敗戦の時のわが家は妻と八ヶ月、三歳の子の四人家族だったが、
ロスケ《ロシア人をあざけっていう語が社宅を荒すようになってからは、内科医の ご主人が召 集された片山夫人と一歳の子と一緒に住むことにした。
病院解散のあとに看護婦養成所の生徒と、工員養成所の 生徒との四人を預かり十人になった。
ロスケが来てからは、乱暴狼藉が続き、女たちは坊主《ぼうず》頭になったものもいる。家の天井や床下に身を隠した。妻たちは昼は子供を抱いて家の回りをロスケの眼を避けて逃げ回り、夜は二人で裏山の大豆畑のなかに身を潜めていた。下の方でピストルの音がするのが良く聞こえたという。
私は家で電燈を暗くして音もたてぬように息をつめて三人の子を寝かせていると、ガヤガヤと大声がし、ロスケが玄関の戸を叩く。壊されては困るので開けると、何人もが土足でどかどかと入って来る。一晩に何回か殆《ほとん》ど毎日のことで、こちらが抵抗しないのが分かっているので傍若無人《ぼうじゃくぶじん》だ。女がいないとわかると、押入れのものを放り出し、箪笥《たんす》の引き出しを抜き出し、持ちたいだけ持って出て行く。ある時、日中ジープで乗り付けてトランクに詰め込んで根こそぎ取っていった。この連中はロスケのほか東洋人もいた。八路軍《はちろぐん=1947年人民解放軍と改称》と聞いたが蒙古人《もうこじん=モンゴル人》の顔貌《がんぼう=顔かたち》と見た。
片山さんの家は工員養成所の生徒が三人留守番でいた。ここは殆ど荒されることがなかったが、一人がソ連兵に捕まえられた。幸い捕まえられた仲間では一番小さかったので釈放されてきたが、他の人たちは連れ去られたようだ。
九月になりロスケの襲撃がようやく少なくなってきた時、突然病院住宅に立ち退きの命令が来た、しかも当日の夕方までと期限付きである。この頃は今後どうなるのか見通しは全く五里霧中《ごりむちゅう=見通しがまったくたたない》で、すぐ近く帰国出来るとする者から、捕虜みたいに使役《特に雑役をさせる》に使われるとする者まで意見はまちまちで、実際に民間人もソ連軍に連れ去られている。
零下十度以下になる土地で皆が冬を過ごすとなると大変なことになるが、五千人もの集団がそうすぐに帰国は出来まい。又日本人が居る間は面倒をみに残るつもりなので、私は長期戦を覚悟していた。
若者三人が大八車《だいはちぐるま=8人分の仕事をする意》をさがしてきてくれて、片山家とわが家にある食料は全部、二個有った大豆カス(註)も積んだ。寝具、衣料も残らず選んだ。本は内科学三冊と治療学、細菌学、統計学の計六冊を選んだ。(翌日他の本を取りに行った時には、全部庭にほうり出されて焼かれていた)。引越先は六畳と四畳半の二た間で、この家にはも一つ六畳間があり四人家族の方がおられた。
註 大豆カスは乗馬クラブ厩舎長の計らいでロスケが来る前に、病院職員は一個ずつわけて貰った。ドーナツ形の五、六十キロはあろう重たいもので、捨てた家が多かったようだが、わが家では引越のたびに運んでいた。もともとは馬の飼料だが、
ペンチやのみ、金槌などでほぐして一年間の食糧に大事に使った。
工場には工員養成所と看護婦養成所があって、地元の子女以外に内地で募集して連れて来た子らがいる。会社がこの子たちの寄宿舎生の面倒を見ることが出来なくなった為に路頭に迷う身になるので、身寄りのない子たちは職員の有志が引き取ることにした。わが家では養成工三人と看護婦生徒一人と、併せて四人を預かったので、家族は皆で十人になっていた。私たちは抑留者中屈指《くっし》の大家族で、この後も引越を何回もして段々広い所に移り、最後は技師長舎宅の応接間と座敷との二た部屋に住んでいた。
この子たちを預かった家庭で一番の問題は食べ物だったようだ。若者らの不満は自活をえらび、看護婦生徒も外に出て飲食店などに住み込んで働くようになった。なかには養いきれずに外に出した家もあるようだが、わが家十人の結束は終始崩れなかった。
わが家の主食は豆かすと海藻入りの雑炊、大豆粉ととうもろこし粉のパンに馬鈴薯で
干明太魚が主な蛋白源だった。朝鮮人の市場バザールは早々と開かれ戦時中乏しかった食料は米を始め色々と並んでいたが、その中では塩でかき混ぜた生ウニが安くて栄養価が高く、大豆パンに好くあったペーストとして大変重宝した。
お金があれば何でも手に入るので、各々の家の暮らしぶりは様々のようだった。わが家での現金や物々交換は、略奪が少なかった片山さんの衣類を売って作っていたが、十人家族の台所は大変だった。(私の家の衣類は殆どロスケに取られてしまった)。やがて若者三人は港の荷役《にやく=船荷のあげおろし》に出るようになり、工場が再開されると工場で働いて現金、大豆等の食料の支給を受け、これを日本人世話会に供出した。
私は初め市民病院に、後に診療所に出て現金を受けていた。その一部は世話会に渡していたが、残りは往診先で使ってしまったようだ。妻はこの間、私から現金を受け取った覚えは無いと言っている。
ロスケが駐屯部隊だけになると、治安は落ち着いてきた。私たちが追い出された病院舎宅にはソ連軍将校が家族と住むようになった。この細君達が服を作りたがっているとの話を聞いたので、片山さんと妻とは元のわが家にでかけていった。わが家のマダムは、早速今から始めて欲しいと言う。二人はそれからは毎日ロスケ宅に「通勤」を始めることになった。ミシンは使い馴れた自分のものだ。
彼女の示すスタイルブックと生地とで仕立て上げる仕事だが、マダムはつきっきりで裁断、裁縫の手伝いをし、昼と夕食と、間の休み時間とには自分達と同じ食べ物を手作りで出してくれる。昼前に行くと夕方まで仕事をさせて、食器の後始末などには一切手を出させない。帰るときには、何かの報酬を出すが現金ではなく黒パンが一切れのこともあり一山のときもある。メリケン粉、油、砂糖、煙草などのこともあり、何れも大変な貴重品だった。
休み時間に出されたケーキを食べずに、持ち帰って子供に食べさせようと思っていると、それは別にあげるからこれは食べてくれと言われる。十数軒ある隣近所のマダムたちから一仕事終わるのを待ち切れぬばかりに引っ張りだこにされた。
治安が落ち着いてきたとはいえ、全然様子の分らぬ、言葉も分らぬ所に出かけたのだから大変な冒険だった。ロスケの兵隊はいるがマダムが守ってくれるので心配はない。仕事の割に報酬は少ないが二人分の食糧が無くてすむのだから大いに助かる。お土産は一家の潤い、団欒《だんらん》の貴重なかてであった。
マダムたちの生活は家によって違うが何処も切り詰めたもので、流してくれる品物は彼女らにとっては精いっぱいだったようだ。しかし男共が港湾の荷役に出て、一とにぎりの食料、大豆を支給されるのに比べると好い仕事と言える。
私は病院に、若者三人は工場に、片山さんと妻とはロスケの家に働きに出た後は看護婦生徒の前田さん(屋久島《やくしま》から応募)と子供ら三人が家に残っている。前田さんは家事一切と子供の面倒を全部取り仕切って、やりとげてくれた。皆が働きに出られて、十人もの家族が一年有余の抑留生活を無事切り抜けることが出来たのは、全く前田さんのお蔭だった。
六人の脱出は後記する。
以上 十人家族 終り
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