朝鮮生まれの引揚者の雑記・その4
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朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり> (編集者, 2006/9/24 21:47)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1 (編集者, 2006/9/25 8:52)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2 (編集者, 2006/9/25 8:54)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その3 (編集者, 2006/9/25 9:07)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その4 (編集者, 2006/10/18 8:18)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その5 (編集者, 2006/10/18 8:23)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6 (編集者, 2006/10/19 19:27)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7 (編集者, 2006/10/19 19:55)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8 (編集者, 2006/10/22 20:47)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9 (編集者, 2006/10/23 7:42)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その10 (編集者, 2006/10/23 7:56)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11 (編集者, 2006/11/24 8:00)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その12 (編集者, 2006/11/24 8:09)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13 (編集者, 2006/11/25 8:57)
- 朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14 (編集者, 2006/11/25 9:30)
- Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記 (HI0815, 2006/12/26 8:58)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
大学時代
昭和七《1932》年四月~十一年三月
昭和七年四月に父は東京に移住した。
明治三十八年以来の朝鮮、明治四十五年以来の平壌《ピョンヤン》を去ると共に、官吏を辞任し以後は全くの隠棲生活《いんせいせいかつ=世俗をのがれて閑居する》にはいった。
この時の家族は父五十七歳、母四十七、進二十一(大学一年)、光子十八、昭十六(中学四年)、幸子六(小学一年)、典子四歳の七人で長女総子、次女保子は結婚して東京と平壌とに住んでいる。
東京を永住の地として杉並区和田本町に新築の家を買ったのは退職金を当てたのだろうが、収入は恩給だけだった事と思われる。この後の父の手記は謡の稽古《けいこ》、食べ歩きと旅行の記事など晴耕雨読《=田園に閑居する自適の生活》の生活が記されている。
父母ともに理財の心がなかったのは確かだが、このころの経済事情は何も分からない。
♯一 学資
学部に進み寮を出たので学資は当然増えたはずだが幾ら送って貰っていたか覚えていない。三学年になる前と思うが父から軍の委託学生《= 軍が学費を支給して教育をたのみまかせる》にならぬかと言われた。
学費は軽くなるが卒業後は軍医にならねばならないので、なんとしてもこのままで続けさせて頂くようお願いした。光子の嫁入りの支度、昭の進学と物いりの時だから家計は苦しかったのではなかろうか。
下宿を代わり、家庭教師のアルバイトをして依託学生にはならずに卒業したが在学中お金に困ったような記憶はない。
卒業した後はすぐ就職せねばならぬと思っていたが、幸い家からの仕送り無しに研究室に残ることが出来たので、家への送金は二年半あとからになった。
# 二 筑波館
四月初め、一家は大勢の人の見送りを受けて平壌《ピョンヤン》を発ち内地に向かう。途中、私は一人京城《ソウル》駅でおりた。皆は朝鮮を去ったが、姉が平壌に残っているのが心強かった。
下宿は入学試験を受けたとき泊まった筑波館に、その時一緒だった橋爪と六畳の部屋に同居した。春休みはすぐに平壌《ピョンヤン》に帰り、探すのは面倒と彼と一緒になったのか、一人では淋しかったのか、筑波館の老主人の勧めを断れなかったのか。
橋爪はヴァイオリンをやっていて、予科のときから音楽部に熱中し、学部になると一層忙しく動いていた。大学の管弦楽団が改編成され、交響曲の学外公演の演奏会にまで発展し、昭和九年第十回演奏会にはベートーベンの第八、十年の第十回演奏会には第五交響曲の指揮をとった。
寮の時から仲間を誘いヴァイオリンを仕込んでいたが、私には音楽の筋が無いとみたか、部のマネージャをやらぬかと言ってきた。音楽よりももっとその能力は無いので勘弁して貰った。
私は立正会と雑誌「碧空」のことで、彼は音楽のことで別々の生活をしていて、お互いに干渉し合うことはなく、仲良く学部基礎の二年間を同室で過ごした。
# 三 行潦(こうろう)にはたづみ
この短歌の会が何時どうしたことから始まったか知らない。
医学部の大沢勝薬理、小川蕃外科、中村両造整形外科教授の三人と一年の学生(佐々木、粕谷、芦田、高橋、泉川と私)六人がメンバーだった。
微生物学の中村三教授がみえられることもあったが、仲間?六人は変わらなかった。卒業の年に後の学生に継続を頼んだが、いつかなくなってしまった。
六人の中で高橋は予科ではなく、二高から東北大文学部独文を卒業して城大にきた。マンドリンでは既に一家をなし、自分のタカハシ・アンサンブルを主催し、専門誌に音楽評論など書いている。後にはパリのギターコンクールの審査員になったりしている、なかなかの積極家。兄さんが京城《ソウル》で先生をしており、前の城大総長志賀潔先生の甥《おい 》で顔も広く押しも強かった。かれと大沢先生との間で話が始まり決まったのだと思う(大沢教授については別に記す)。
粕谷と佐々木とは予科進修寮の仲間、共に文才熱情あり、歌会にも積極的だった。芦田、泉川とは予科B組の仲間、一時短歌の会に入っていた事があったという。
私がどんな事から入ったのか覚えていない。粕谷は私が歌の本を読んでいるのを知っていたのでこの辺りで話が起こり、高橋が引き込んだのだろう。佐々木とは最も親しくつき合っていたので彼が入るならと、仲間入りしたのかもしれない。
後に記す同人雑誌「碧空」には行潦の仲間は皆入っていて、これは粕谷が主宰。行潦は高橋が世話役だった。佐々木、粕谷、高橋とどれもみな個性の強い連中だったが、どちらも四年間よく続いたと思う。
行潦(こうろう)のリーダーは大沢教授で歌詠みの経歴もあり、この名も初めから決まっていたようだ。月に一回の集まりに歌稿は、先生手持ちの手漉《てすき》きの鮮苔紙にタイプで印刷し、行潦 と草書で先生手書きの表紙をつけた立派な小冊子が配られた。
大概は土曜日の午後、構内の大学食堂二階が会場だったが、教授の自宅や街中のこともあった。本町の西洋料理店、青木堂とかボアグラとかはどこも一流店だったのに、会費が負担になったような覚えはない。
両造先生は登山家で歌の批評も厳しかった。小川先生は私らと同じ初心者だったようだ。今にして振り返ると、小川、大沢両先生は一八九〇年生まれの東大同期生、両造先生はその三、四年先輩で、どなたも四十歳過ぎ、まだ五十にはなっていらっしゃらなかった。会を重ねるうちに歌稿で誰のか分かるようになってくる。学年が進むにつれて先生の講義を聞き、試験を受けることになる。「試験でひどく搾《しぼ》られて、ウイコン(ウイーダーコンメン=再試験)と言われた日の夜の会で当の先生からその日の歌を大いに褒められた」思い出を語る者もいる。先生の歌も学生たちが散々な批評をし、遠慮のない和やかな集まりだった。
詠まれた歌の記憶は殆どない。この時の歌稿は誰も残していない。「碧空」が発表誌だったが、これも残っていない。
たまりては消え 消えきえてはたまるにはたづみ
そのときときに美しきかな 高橋 功
初会の時の祝いの歌として記憶にある)
なんというふこの暖かさ
長崎の二月あかるく桃さきにけり 大沢 勝
(朝鮮の二月しか知らず驚きの感慨だった)
私自身の歌も忘れてしまった。思い出せるもの三、四。
この朝餉《あさげ》 七草かゆをはらからは 寿ぎいなむ。
吾は いひはみつ 進
七草のかゆを好みて をしたまふ 父を思ひぬ。
いひ はみ あれば
人あらぬ夜更けの街は 焼き栗の にほひほのかにただようごとし
道はたの をくらき灯 人ありて
栗買へといふ その声寒し
いくはくの銭にならむか 灯のもとに
躰かがめて 栗 売る人は
いま記憶に残るものをあげたが、当時の表現とは違っているだろう。初
めは釈迢空《しゃくちょうくう=折口信夫の号》の真似をして間に句読点を入れて出していた(上の様だったかは分からぬ)。
短歌、俳句、漢詩に興味を持っていたのでいろいろ読んではいた。歌集は釈迢空と伊藤左千夫のを好んで読んだが、まともに先生について勉強したわけではない。二人ともたまたま本屋にあったから買ってきただけの事。
卒業の後はいつか 行潦 はなくなって私の歌詠みも止めになった。
平成元年十一月十五日これを書いていて思えば、行潦 の会員は高橋、泉川と私の三人になった。仲間では戦争中佐々木が一番早くフィリピンで戦死した。
# 五 碧空
医学部一年のときに仲間ができて雑誌「碧空」を始め、卒業するまで発行した。何号まで続けたのか忘れたが、最終号は卒業の年、昭和十一年の一月か二月かだった。この時の編集当番として、編集後記に廃刊の言葉は私が書いた。
一年の学生粕谷、佐々木、近藤、芦田、槙、高橋、細川、丹羽、泉川、進の十人がメンバー。粕谷が筆頭で高橋がそれに並ぶ。この二人が揃わなかったら 碧空 はなかったろう。
私が入ったのは粕谷、佐々木の勧誘だったろう。 碧空 結成のいきさつは知らず、いつの間にか仲間に入っていたような気がする。他の連中も似たような事だったようだ。粕谷、慎、丹羽はスポーツをしていたが、他はスポーツは苦手の者ばかり。槙は唯一の朝鮮人だが彼も「なぜ自分が会員
になれたのか分からぬ」と言っている。丹羽と一緒の京城中学のつながりだったろうか。
A6判、表紙は粕谷の構図で、左上の赤い 碧空 は安倍能成先生の筆。
高橋が東北大で小宮豊隆先生に師事していたつながりだったろうか。粕谷と高橋とがお願いに行った。原稿も頂いている。
二か月に一回くらいの発行で内容は小説、詩、エッセイ、短歌などいろいろ、各自勝手に書いており、行潦例会の歌はこれに掲載された。編集は二人一組の当番持ち回りで、編集当番は原稿集めから印刷、校正まで自分なりの趣向でその号を仕上げる。広告は喫茶店、本屋が主だったが沢山取
れたときは本も豪勢になった。
経費は同人の会費と行潦の三教授にお願いした寄付(行潦発表の見返り?)とが定収入で、広告取り、印刷屋との交渉は当番の腕、本の売れ行きは同人のなりゆきだった。京城一の本屋、本町の大坂屋号書店にも置かせて貰った。学生は一人月二円位出していたのではなかったか。当番のとき先生方に二円戴きに行ったと思う。一部が十銭だったか。卒業をまえに最後の刊行は赤字にならずに終わっている。
「碧空」は一冊も残っていない。高橋、細川は卒業してすぐに内地に帰ったので、あるいはと思ったが、二人とも戦地に行き、帰国した時には無くなっていたという。
内容は覚えていない。近藤はエッセイを書いていた。槙、細川は小説、佐々木、粕谷は詩や歌、芦田、泉川、丹羽、高橋は短文を多く書いていたのではなかったかと思う。
私は芦生記の連想文、ジャン・コクトーの読後感、芥川の「朱儒《しゅじゅ》の言葉」に誘発された言葉など書いたが、内容は思い出せない。幾つか詩のような
ものもつくった。
電線にひっかかった凧を 雨は 地面にたたき落とそうとした
風は 街の向こうに吹き飛ばそうとした
凧は 残された糸にしっかりとしがみついた
子供たちは きっと迎えにきてくれる
ある夜 凧の残骸が 地に落ちた
雨もなく 風もなく 月は 子供たちの部屋も照らしていた
(コレモ当時ノトハ、違ッテイルダロウ。良クナッテイルノカ
悪クナッテイルノカワカラヌガ、思イ出スママニ書イテオク。)
# 六
学部の四年間、初め二年は黄金町の下宿に橋爪と同居していたが、三年になり臨床が始まるのを機に、それぞれ大学に近い東祟町の下宿に移った。
今度は二階、三間の素人下宿で大学先輩の医局員がいた。私の六畳の部屋は北側で冬は寒かった。暖房は火鉢だけ。朝起きると机のインキが凍っている。
アルバイトの家庭教師は三年生の中学生の家で二か年つづけた。住宅地、奨忠壇《チャンチュンダン》の家の広い座敷で、時間になるとお母さんがお茶とお菓子とを持って現れる。誠に静かな家庭だった印象がある。冬の間も暖かな部屋だった。
何時、誰から言い出したかこれも分からぬが、教科書なしの講義はプリントを作ことになった。ノートをしっかりとっている者のを照らし合わせながら原稿をつくり、皆が分担して病理、眼科、内科など、いくつかの講義録を完成した。病理学の小杉教授は何時も原稿無しで講義を進められた
が、ノートをとり易いきちんと文章になるような立派な講義だったのが印象に残る。
私はこの時も原稿作りには協力したが、立正会も 碧空 も常に人の後を追っかけてついて行くことしかやっていない。自伝を書いていて、中学以来尻馬に乗っているばかりで、創意工夫の才能は全く駄目だなと自覚するばかりである。
昭和七《1932》年四月~十一年三月
昭和七年四月に父は東京に移住した。
明治三十八年以来の朝鮮、明治四十五年以来の平壌《ピョンヤン》を去ると共に、官吏を辞任し以後は全くの隠棲生活《いんせいせいかつ=世俗をのがれて閑居する》にはいった。
この時の家族は父五十七歳、母四十七、進二十一(大学一年)、光子十八、昭十六(中学四年)、幸子六(小学一年)、典子四歳の七人で長女総子、次女保子は結婚して東京と平壌とに住んでいる。
東京を永住の地として杉並区和田本町に新築の家を買ったのは退職金を当てたのだろうが、収入は恩給だけだった事と思われる。この後の父の手記は謡の稽古《けいこ》、食べ歩きと旅行の記事など晴耕雨読《=田園に閑居する自適の生活》の生活が記されている。
父母ともに理財の心がなかったのは確かだが、このころの経済事情は何も分からない。
♯一 学資
学部に進み寮を出たので学資は当然増えたはずだが幾ら送って貰っていたか覚えていない。三学年になる前と思うが父から軍の委託学生《= 軍が学費を支給して教育をたのみまかせる》にならぬかと言われた。
学費は軽くなるが卒業後は軍医にならねばならないので、なんとしてもこのままで続けさせて頂くようお願いした。光子の嫁入りの支度、昭の進学と物いりの時だから家計は苦しかったのではなかろうか。
下宿を代わり、家庭教師のアルバイトをして依託学生にはならずに卒業したが在学中お金に困ったような記憶はない。
卒業した後はすぐ就職せねばならぬと思っていたが、幸い家からの仕送り無しに研究室に残ることが出来たので、家への送金は二年半あとからになった。
# 二 筑波館
四月初め、一家は大勢の人の見送りを受けて平壌《ピョンヤン》を発ち内地に向かう。途中、私は一人京城《ソウル》駅でおりた。皆は朝鮮を去ったが、姉が平壌に残っているのが心強かった。
下宿は入学試験を受けたとき泊まった筑波館に、その時一緒だった橋爪と六畳の部屋に同居した。春休みはすぐに平壌《ピョンヤン》に帰り、探すのは面倒と彼と一緒になったのか、一人では淋しかったのか、筑波館の老主人の勧めを断れなかったのか。
橋爪はヴァイオリンをやっていて、予科のときから音楽部に熱中し、学部になると一層忙しく動いていた。大学の管弦楽団が改編成され、交響曲の学外公演の演奏会にまで発展し、昭和九年第十回演奏会にはベートーベンの第八、十年の第十回演奏会には第五交響曲の指揮をとった。
寮の時から仲間を誘いヴァイオリンを仕込んでいたが、私には音楽の筋が無いとみたか、部のマネージャをやらぬかと言ってきた。音楽よりももっとその能力は無いので勘弁して貰った。
私は立正会と雑誌「碧空」のことで、彼は音楽のことで別々の生活をしていて、お互いに干渉し合うことはなく、仲良く学部基礎の二年間を同室で過ごした。
# 三 行潦(こうろう)にはたづみ
この短歌の会が何時どうしたことから始まったか知らない。
医学部の大沢勝薬理、小川蕃外科、中村両造整形外科教授の三人と一年の学生(佐々木、粕谷、芦田、高橋、泉川と私)六人がメンバーだった。
微生物学の中村三教授がみえられることもあったが、仲間?六人は変わらなかった。卒業の年に後の学生に継続を頼んだが、いつかなくなってしまった。
六人の中で高橋は予科ではなく、二高から東北大文学部独文を卒業して城大にきた。マンドリンでは既に一家をなし、自分のタカハシ・アンサンブルを主催し、専門誌に音楽評論など書いている。後にはパリのギターコンクールの審査員になったりしている、なかなかの積極家。兄さんが京城《ソウル》で先生をしており、前の城大総長志賀潔先生の甥《おい 》で顔も広く押しも強かった。かれと大沢先生との間で話が始まり決まったのだと思う(大沢教授については別に記す)。
粕谷と佐々木とは予科進修寮の仲間、共に文才熱情あり、歌会にも積極的だった。芦田、泉川とは予科B組の仲間、一時短歌の会に入っていた事があったという。
私がどんな事から入ったのか覚えていない。粕谷は私が歌の本を読んでいるのを知っていたのでこの辺りで話が起こり、高橋が引き込んだのだろう。佐々木とは最も親しくつき合っていたので彼が入るならと、仲間入りしたのかもしれない。
後に記す同人雑誌「碧空」には行潦の仲間は皆入っていて、これは粕谷が主宰。行潦は高橋が世話役だった。佐々木、粕谷、高橋とどれもみな個性の強い連中だったが、どちらも四年間よく続いたと思う。
行潦(こうろう)のリーダーは大沢教授で歌詠みの経歴もあり、この名も初めから決まっていたようだ。月に一回の集まりに歌稿は、先生手持ちの手漉《てすき》きの鮮苔紙にタイプで印刷し、行潦 と草書で先生手書きの表紙をつけた立派な小冊子が配られた。
大概は土曜日の午後、構内の大学食堂二階が会場だったが、教授の自宅や街中のこともあった。本町の西洋料理店、青木堂とかボアグラとかはどこも一流店だったのに、会費が負担になったような覚えはない。
両造先生は登山家で歌の批評も厳しかった。小川先生は私らと同じ初心者だったようだ。今にして振り返ると、小川、大沢両先生は一八九〇年生まれの東大同期生、両造先生はその三、四年先輩で、どなたも四十歳過ぎ、まだ五十にはなっていらっしゃらなかった。会を重ねるうちに歌稿で誰のか分かるようになってくる。学年が進むにつれて先生の講義を聞き、試験を受けることになる。「試験でひどく搾《しぼ》られて、ウイコン(ウイーダーコンメン=再試験)と言われた日の夜の会で当の先生からその日の歌を大いに褒められた」思い出を語る者もいる。先生の歌も学生たちが散々な批評をし、遠慮のない和やかな集まりだった。
詠まれた歌の記憶は殆どない。この時の歌稿は誰も残していない。「碧空」が発表誌だったが、これも残っていない。
たまりては消え 消えきえてはたまるにはたづみ
そのときときに美しきかな 高橋 功
初会の時の祝いの歌として記憶にある)
なんというふこの暖かさ
長崎の二月あかるく桃さきにけり 大沢 勝
(朝鮮の二月しか知らず驚きの感慨だった)
私自身の歌も忘れてしまった。思い出せるもの三、四。
この朝餉《あさげ》 七草かゆをはらからは 寿ぎいなむ。
吾は いひはみつ 進
七草のかゆを好みて をしたまふ 父を思ひぬ。
いひ はみ あれば
人あらぬ夜更けの街は 焼き栗の にほひほのかにただようごとし
道はたの をくらき灯 人ありて
栗買へといふ その声寒し
いくはくの銭にならむか 灯のもとに
躰かがめて 栗 売る人は
いま記憶に残るものをあげたが、当時の表現とは違っているだろう。初
めは釈迢空《しゃくちょうくう=折口信夫の号》の真似をして間に句読点を入れて出していた(上の様だったかは分からぬ)。
短歌、俳句、漢詩に興味を持っていたのでいろいろ読んではいた。歌集は釈迢空と伊藤左千夫のを好んで読んだが、まともに先生について勉強したわけではない。二人ともたまたま本屋にあったから買ってきただけの事。
卒業の後はいつか 行潦 はなくなって私の歌詠みも止めになった。
平成元年十一月十五日これを書いていて思えば、行潦 の会員は高橋、泉川と私の三人になった。仲間では戦争中佐々木が一番早くフィリピンで戦死した。
# 五 碧空
医学部一年のときに仲間ができて雑誌「碧空」を始め、卒業するまで発行した。何号まで続けたのか忘れたが、最終号は卒業の年、昭和十一年の一月か二月かだった。この時の編集当番として、編集後記に廃刊の言葉は私が書いた。
一年の学生粕谷、佐々木、近藤、芦田、槙、高橋、細川、丹羽、泉川、進の十人がメンバー。粕谷が筆頭で高橋がそれに並ぶ。この二人が揃わなかったら 碧空 はなかったろう。
私が入ったのは粕谷、佐々木の勧誘だったろう。 碧空 結成のいきさつは知らず、いつの間にか仲間に入っていたような気がする。他の連中も似たような事だったようだ。粕谷、慎、丹羽はスポーツをしていたが、他はスポーツは苦手の者ばかり。槙は唯一の朝鮮人だが彼も「なぜ自分が会員
になれたのか分からぬ」と言っている。丹羽と一緒の京城中学のつながりだったろうか。
A6判、表紙は粕谷の構図で、左上の赤い 碧空 は安倍能成先生の筆。
高橋が東北大で小宮豊隆先生に師事していたつながりだったろうか。粕谷と高橋とがお願いに行った。原稿も頂いている。
二か月に一回くらいの発行で内容は小説、詩、エッセイ、短歌などいろいろ、各自勝手に書いており、行潦例会の歌はこれに掲載された。編集は二人一組の当番持ち回りで、編集当番は原稿集めから印刷、校正まで自分なりの趣向でその号を仕上げる。広告は喫茶店、本屋が主だったが沢山取
れたときは本も豪勢になった。
経費は同人の会費と行潦の三教授にお願いした寄付(行潦発表の見返り?)とが定収入で、広告取り、印刷屋との交渉は当番の腕、本の売れ行きは同人のなりゆきだった。京城一の本屋、本町の大坂屋号書店にも置かせて貰った。学生は一人月二円位出していたのではなかったか。当番のとき先生方に二円戴きに行ったと思う。一部が十銭だったか。卒業をまえに最後の刊行は赤字にならずに終わっている。
「碧空」は一冊も残っていない。高橋、細川は卒業してすぐに内地に帰ったので、あるいはと思ったが、二人とも戦地に行き、帰国した時には無くなっていたという。
内容は覚えていない。近藤はエッセイを書いていた。槙、細川は小説、佐々木、粕谷は詩や歌、芦田、泉川、丹羽、高橋は短文を多く書いていたのではなかったかと思う。
私は芦生記の連想文、ジャン・コクトーの読後感、芥川の「朱儒《しゅじゅ》の言葉」に誘発された言葉など書いたが、内容は思い出せない。幾つか詩のような
ものもつくった。
電線にひっかかった凧を 雨は 地面にたたき落とそうとした
風は 街の向こうに吹き飛ばそうとした
凧は 残された糸にしっかりとしがみついた
子供たちは きっと迎えにきてくれる
ある夜 凧の残骸が 地に落ちた
雨もなく 風もなく 月は 子供たちの部屋も照らしていた
(コレモ当時ノトハ、違ッテイルダロウ。良クナッテイルノカ
悪クナッテイルノカワカラヌガ、思イ出スママニ書イテオク。)
# 六
学部の四年間、初め二年は黄金町の下宿に橋爪と同居していたが、三年になり臨床が始まるのを機に、それぞれ大学に近い東祟町の下宿に移った。
今度は二階、三間の素人下宿で大学先輩の医局員がいた。私の六畳の部屋は北側で冬は寒かった。暖房は火鉢だけ。朝起きると机のインキが凍っている。
アルバイトの家庭教師は三年生の中学生の家で二か年つづけた。住宅地、奨忠壇《チャンチュンダン》の家の広い座敷で、時間になるとお母さんがお茶とお菓子とを持って現れる。誠に静かな家庭だった印象がある。冬の間も暖かな部屋だった。
何時、誰から言い出したかこれも分からぬが、教科書なしの講義はプリントを作ことになった。ノートをしっかりとっている者のを照らし合わせながら原稿をつくり、皆が分担して病理、眼科、内科など、いくつかの講義録を完成した。病理学の小杉教授は何時も原稿無しで講義を進められた
が、ノートをとり易いきちんと文章になるような立派な講義だったのが印象に残る。
私はこの時も原稿作りには協力したが、立正会も 碧空 も常に人の後を追っかけてついて行くことしかやっていない。自伝を書いていて、中学以来尻馬に乗っているばかりで、創意工夫の才能は全く駄目だなと自覚するばかりである。
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