特攻インタビュー(第8回)・その7
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編集者
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◆海軍士官としての勤務 2
--------予科練出身の若者の印象はどうでしたか?
粕井‥かわいかったですね。3歳ぐらい年下、ちょうど私の弟ぐらいでしたから。非常に素直で真面目で探究心旺盛で……。海軍では下士官が彼らをイジメまして、バッターでどついたりして、それを取り締まるのに苦労しました。
N‥予科練生か下士官からイジメられたのですか?
粕井‥下士官にもいろいろあって、甲飛というのが一番、出世が早いわけです。その次が乙飛(乙種飛行予科練習生)。それから丙飛(丙種飛行予科練習生)といって一般兵科から飛行科へ変わった連中もいるわけです。そういう連中は、甲飛の連中があっという間に自分たちを追い抜いて偉くなっていくでしょう。それに対する嫉妬というんですか、そういう理由でイジメるんです。
--------粕井さんも予備学生で正規の教育を受けた士官というわけではありませんね。そういう点で、イジメのようなものにあったことはなかったのですか?
粕井‥私はありません。というのも、最初に配属になった出水海軍航空隊国分分遣隊には中尉以上が6人しかいませんでした。あと、我々、少尉でしょう。海軍兵学校出身者というと、分遣隊長と司令と飛行長ぐらいのものです。分隊長がI人いましたが、予備学生の先輩ですし。だから、兵学校出からのイジメというのは経験していません。
--------部隊には海軍兵学校、予備学生、予科練など、いろいろな出身の方がいたと思いますが、それぞれ特徴のようなものはありましたか?
粕井‥兵学校を出た人、特に、大尉以上の我々より格が上という人たちは、やっぱり立派な人が多かったです。下士官、特に出世の遅い下士官の中には、上の言うことをあんまり聞かないで、自分勝手なまねばかりするという乱暴なのがいました。甲飛出身の下士官教員に私は会っていません。私たちの部隊では乙飛出身の人がほとんど、乙飛か丙飛出身でした。
--------予備学生はどうでしたか?
粕井‥予備学生は、やはり、娑婆気が抜け切れないというか。その分、仲間意識も強かったです。例えば、飛行機が不時着するでしょう。そして、指揮所に報告するわけですが、指揮所から見ていると、「おい、あいつ知っとるか」、「ああ、知ってる、知ってる」、報告した奴に、「おい、なんで降りたんや」と言うと、「いや、エンジンの調子悪いねん」、「よっしゃ、なら整備に言うとくから、今晩泊まらんか。」となるわけです。「先任将校は誰それやから、ちゃんと挨拶しとけよ」とアドバイスしたり、我々が主計に頼んで宿泊の手続きをしてやるとか。同期生が全国に5000人おりますから。だから、どの航空隊でも10人や15人くらいはいるんです。だから、非常にツーカーで行くんです。ところが、兵学校出の少尉か中尉が降りても、「おい、知ってるか」、「知らんなあ」……。そうなると、その人は、まず、先任将校を探して挨拶しなければいけないし、整備長にきちんと整備のお願いもしなければならない。泊まりとか、いろいろ手続きを自分でお願いしなきゃいかんということで大変なわけです。そういう点、仲間が大勢いるということは、すごく力になります。
--------国分分遣隊に着任した時、粕井さんはおいくつだったのですか?
粕井‥20歳です。昭和19年9月、武田少佐という艦爆乗りの方が分遣隊長兼飛行長として着任しました。着任早々、もの凄い剣幕で「こんな、むき出しの兵舎や木造建物は泥の中に埋める!」と言うんです。戦地から帰還したばかりで、アメリカ軍の空襲を経験していますから空襲の対応を訓示したわけです。武田少佐の着任から間もなく、分遣隊は航空隊に昇格して、国分海軍航空隊となりました。武田少佐は副長兼飛行長になり、安田中佐が司令として着任しました。この安田司令という方が、鉄拳制裁、バッターなどの罰直は「もってのほか」という方針でした。分隊長は前田大尉という兵から大尉まで上がった方で、「私は学問がありませんから、分隊士よろしくお願いします」と言って、精神訓話などを任せてくれました。海軍では、祝日などに精神訓話をしなければならない。例えば天長節、今の天皇誕生日です。その時には天長節にふさわしいものを。また、紀元節、建国記念日ですね。その時には、日本の歴史を題材にした話というように、祝日のたびに精神訓話をしなければならない。私は話すことには慣れていたのか、分隊長の代わりに、100人くらいを前に1時間近く精神訓話をやったりしました。そういう経験は非常によかったと思います。
-------国分航空隊には、教官の数はどれくらいだったのですか?
粕井‥士官だけで15~16人くらいいたしょうか。他に下士官教員がたくさんいました。
--------学生の数はどのぐらいでしたか?
粕井‥私か知っている範囲内で、飛行予科練習生か200人です。
--------教官I人で何人の練習生を受け持つのですか?
粕井‥大体、4名ないし5名です。私は単独飛行が遅くなった連中を受け持ってくれと言われ5名受け持ちました。練習生の中には下士官にイジメられて萎縮する者がいるわけです。上空へあがってから操縦悍を抜いて、教官席がある後ろから前の操縦席の頭をどついてみたり、ひどいことする奴がいるんです。そういう下士官教員に習うと萎縮するんです。それを、のびのびと操縦させる習慣づけをしなければいかんと。
--------国分航空隊の組織を教えていただけませんか?
粕井‥2つの飛行分隊があって、分隊長がだいたい大尉です。その下に、私のような少尉や中尉の分隊士が何人かいます。それから下士官教員が10人ほどいる。そして練習生か100人ぐらいいて、1個分隊になっているわけです。練習生は班に分かれます。1班で12~13人くらい。班に食卓があって、寝る時には梁と梁の問にハンモックをぶら下げて、そこで寝るという形です。
--------国分航空隊の教官時代はどのぐらい続いたのですか?
粕井‥昭和19年7月に着任して、昭和20年1月に特攻隊編成になって……。それから確か、4月まで熊本県の人吉航空隊で特攻訓練やりました。それから四国の観音寺に行きまして、観音寺で4月から7月まで特攻訓練をまたやって、そして、訓練が一応終わりということになって、7月に九州の大分と国分に分かれて特攻出撃配置ということになりました。