大正の部屋  ー温故知新ー 

大正・昭和初期の実体験を 話す・語り合う・聞く・訊く
その時代の伝聞(親・親戚・知人より)を披露し合う
主役は上記時代お生まれの世代ですが、参加は老若広く
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  • [No.777] Re: 三始会。 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/10/24(Fri) 10:12
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    瀬里恵さん

    >> (注)九思…、君子として心掛けるべき九つの条件

    序での事に検索して試ました。

    《「論語」季氏から》
    君子として常に心掛けるべき九つのこと。見るときははっきり見る、聞くときはしっかりと聞く、顔つきはおだやかに、態度はうやうやしく、言葉は誠実で、仕事には慎重、疑問は質(ただ)し、怒りにはあとの面倒を思い、利益を前にしては道義を思う、の九つ。

                                   変蝠林(1917-)


    [No.775] Re: 三始会。 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/10/24(Fri) 08:50
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    瀬里恵さん、お早うございます。

    > 「早梅すでに動きて(開きて?)一枝新たなり
    >  黄鳥いまだ鳴かざるも三始の春
    >  仰ぎ看れば天晴れ 陽旺かんならんと欲す
    >  凡愚なれど九思 自ずから清純なり」
    >
    > と詠むのでしょうか。瀬里恵は寡聞にしてこの詩は
    > 知りませんでしたが、誰の作でしょうか。
    > 三枝会とはこれから世に出る若者の出発に相応しい
    > 命名ですね。瀬里恵も 旧中の長く白髯を垂らした
    > 小柄な漢文の川口先生を思い出しました。
    >
    > (注)九思…、君子として心掛けるべき九つの条件

     注釈有難う御座いました。
     作詩者名の記録が御座居ませんでしたが
     先生は矢張り小柄で藤田姓と記憶致します。

                        変蝠林(1917-)                     


    [No.774] Re: 三始会。 投稿者:瀬里恵  投稿日:2008/10/24(Fri) 08:18
    [関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

    変蝠林さん、お早うございます。

    > 昭和十年に卒業した我々の同窓会の名称です。
    > 之は第三十四回卒業の我々の為に漢文の教師
    > が下記に由来して与えて呉れたものです。

    > 早梅已動一枝新
    > 黄鳥未鳴三始春
    > 仰看天晴陽欲旺
    > 凡愚九思自精純。

    「早梅すでに動きて(開きて?)一枝新たなり
     黄鳥いまだ鳴かざるも三始の春
     仰ぎ看れば天晴れ 陽旺かんならんと欲す
     凡愚なれど九思 自ずから清純なり」

    と詠むのでしょうか。瀬里恵は寡聞にしてこの詩は
    知りませんでしたが、誰の作でしょうか。
    三枝会とはこれから世に出る若者の出発に相応しい
    命名ですね。瀬里恵も 旧中の長く白髯を垂らした
    小柄な漢文の川口先生を思い出しました。

    (注)九思…、君子として心掛けるべき九つの条件


               瀬里恵


    [No.773] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/23(Thu) 15:28
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    不虻さん

    >  私は名古屋に22年から24年2月までいました。3ヶ月ほどは同じ時期に
    > 名古屋にいたのですね。

    当初は繊維部でしたから所謂ガチャ万時代、転任早々から丸善地下のキャバレイ
    に連日のアフターファブでした。

    >  私はその間に名古屋の女性と結婚し、長男が生まれました。22年に赴任したときは
    > 商工局の寮に居住していましたが、朝食は甘藷でした、そんな時代でしたね。

    私の寮は新出来町でしたが偶然にも県営住宅に当選、小桜町の二室美宅に・・・・
    名古屋の結婚は嫁入り道具数車と聞いて、長女の成長を心配してたのですが・・・

    >  石炭課長もして居られた由。局でも割り当て以上の石炭入手を目論み、管内で生産された日用品をかき集め、それを九州の炭坑に送って、見返りに石炭を管内に送って貰うようなこともやっていました。何か御縁があったかも知れませんね。

     米国よりの石油コークスが主体で東邦瓦斯、揖斐川電工に良く通いました。
     城内の関係官庁は食料庁で三井三菱等と談合宴会の多い時期でありました。

     時効とは居え変な方向に進まぬように此の辺りで。

                                   変蝠林(1917-)



    [No.772] Re: 大正人の責任。 投稿者:不虻  投稿日:2008/10/23(Thu) 14:24
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    変蝠林さん

     私は名古屋に22年から24年2月までいました。3ヶ月ほどは同じ時期に
    名古屋にいたのですね。

     私はその間に名古屋の女性と結婚し、長男が生まれました。22年に赴任したときは
    商工局の寮に居住していましたが、朝食は甘藷でした、そんな時代でしたね。

     石炭課長もして居られた由。局でも割り当て以上の石炭入手を目論み、管内で生産された日用品をかき集め、それを九州の炭坑に送って、見返りに石炭を管内に送って貰うようなこともやっていました。何か御縁があったかも知れませんね。

     当時の名古屋も焼け野原。兎も角大変な、しかし今になれば懐かしい時代でした。




    [No.771] Re: 大正人の責任。 投稿者:千葉の小猿  投稿日:2008/10/23(Thu) 11:38
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    不虻さん 貴重なお話有難うございます。
    >
    >  こんな状況下で、有澤広巳・東大教授等の提唱したのが「傾斜生産方式」でした。これによりあらゆる物資の割り当てや資金供給などを石炭、鉄鋼、化学肥料に集中しました。
    >
    この頃私は国民学校から新制中学でした。社会人になって先輩達からこの頃の話を聞きました。大正生まれの方がこの頃を仕切っていたはずです。私の感じですがこのころの動きが日本の経済復興の原点と思っています。大正生まれの方に経済復興の原点の記述を何らかの形で残していただきたいと願っています。
    賠償指定物資の稼動(戦艦大和主砲加工機械を使った発電機主軸の生産など)も判ればぜひお願いします。

    >  長々と御免なさい。 
    決して長いとは思いません。朝鮮動乱ブームもこの時期の活動がなければ乗れなかったと信じています。
    千葉の小猿


    [No.770] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/23(Thu) 07:24
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     みなさん  

    >  そうですね。重要産業の一つであった化学肥料工業も政府育成の効果有り、昭和24年には早くも戦前水準に回復しましたが、反面有名な「昭電事件」を生み出しました。

     詰まらぬ事を思い出しました。
     あの頃、名古屋から東海道線夜行で浜松町下車、大門前の角に在った昭和電工を
     訪れました。

     其の折に、先方社員に鶯谷辺りの赤線宿に連れ込まれ苦しい一夜を過ごしました。
     何の用件だったか記憶せぬのに、嫌な一夜を未だに思い出す変な変な時代でした。

                                            変蝠林(1917-)


    [No.769] Re: 大正人の責任。 投稿者:不虻  投稿日:2008/10/22(Wed) 23:54
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    マーチャン、Panさん、みなさん   こんばんは。

     「ガリレオ」はPanさんの言われるとおり「ガリオア」の間違いでした。つい書き違えました。申し訳ありませんでした。

     このような資金援助は20億ドルに達したそうですが、これが無かったら、都市生活者の飢餓や鉱工業の再建など出来なかったと思います。

     昭和24年GHQの指示の依って、これら援助資金は日本円に換算され、「対日援助見返り資金」として積み立てられ、復興金融金庫を通じて重要産業の復興資金に貸し付けられました。これらは後に開発銀行融資になりました。

     またこれらの援助資金が日本の対米債務か、贈与かは随分問題になったようですが結局一部を返済することとなり5億ドルほど返済したとのことです。

    >  何かお金や物が纏まって動くと、必ずそこには黒い物が動きますね。

     そうですね。重要産業の一つであった化学肥料工業も政府育成の効果有り、昭和24年には早くも戦前水準に回復しましたが、反面有名な「昭電事件」を生み出しました。


    [No.768] Re: 大正人の責任。 投稿者:Pan  投稿日:2008/10/22(Wed) 17:15
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    マーチャン、みなさん、こんにちは。

    > ただ、小学生も「エロア、ガリレオ」「ララ物資」などという言葉だけは存じています。

     ガリオア[GARIOA]資金(援助)の事だったと思います。

     『ララ物資』の再縫製に戦争未亡人を雇用する事業を立ち上げた人がありましたが、最初から計画的だった政治家がらみの詐欺師に酷い目に遭いました。

     もう少しその人から具体的な経緯を聞きたかったのですが、亡くなってしまわれました。

     何かお金や物が纏まって動くと、必ずそこには黒い物が動きますね。


             ***** Pan *****


    [No.767] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/22(Wed) 12:29
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    不虻さん

    >  当時私は商工省に勤務、と言っても新米そのもので何も知りませんでしたが、昭和22年に名古屋商工局に転勤したとき、化学肥料担当を命じられ、四日市に幾つかあった硫安工場に日参し、増産のお手伝いをしたことを微かに覚えています。

    私が名古屋支店に転勤したのは昭和23年10月でしたが当初は繊維課所属。
    後、食料課、燃料課兼務に転属させられ当時未だ沖取りだった名古屋港には
    伊勢湾海運を使って良く通いました。石炭課長を兼務した頃には四日市にも
    社用車で化学工場訪問が増えました。

    エロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入ではマイロ等陸揚げで中川に大分零し
    泥川にした責任有りです。兎に角夢中の時代でしたね。

                                        変蝠林(1917-)


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