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[No.4923] 続・東ドイツ紀行 23  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/23(Fri) 07:35
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 国鉄の乗車券について

 日本でホテルの予約をしたとき「鉄道の切符も手配してあります」といわれた。このときは多分、フリー切符か周遊券のようなものが用意してもらえるのだろうと思った。
 ホテルのクーポン券を受け取るとき、このことをたずねるとあんまり要領を得た答えがなかったので、あっちにいけばわかるだろうとそのままにしておいた。
 前日、ホテルエルフルターホフのフロントで「ライゼビューロー(国営旅行社)からです」という封筒を渡された。なかには普通切符が一枚と手紙がはいっていた。切符はエルフルトからドレスデン迄で、手紙には多分、「この切符でワイマールには途中下車できます。ドレスデンから先の切符はあちらで用意しております」。と書いてあったにちがいない。
 というのは、ドレスデンのホテルでもチェックインのときに同じように次の目的地までの切符と手紙を渡されたから。それにしても、ここのライゼビューローは仕事がしっかりしているしインターホテル(外国人が宿泊してもいいホテル)との連携プレーも見事だ。
 という訳でエルフルトから先は切符をいちいち買う必要はない。(しかし「親切で仕事きっちり」なので別に文句を言う筋はないが、最初にまとめて6日分の切符を渡しておくほうが、先方も仕事が減っていいのにな、とも思った。やはり誰かが西側の行動を監視するためだったのではないかと勘ぐっている)

 ″親切″の街、ワイマール

 アイゼナッハから再びエルフルトを通って約50分でワイマールに着いた。ここだけではないが列車の乗り降りはホームにいるひと、車内のひとの完全な助け合いですすめられる。荷物を受け取ってあげるひと、こどもを抱きとってあげるひと、お年寄りに手を貸してあげるひとなど。旅行者に親切なだけでなく、お互い同志も助けあっているように見えた。(後刻、例の友人から聞いた話では、何かにつけて、辛い大変な時代を過ごすうちに「助け合い精神」が育まれたのでは、とのことであった。現在でも「あの時代」を懐かしむ年寄りがいるという)
 この駅は街から少し離れているのでバスを利用する。例によってバス券売り場さがし、乗り場さがしでうろうろする。ところが、この街のひとは特に親切で切符をくれるひと、これを断るとキオスクまでついてきて切符が買えるように世話をしてくれるひと、マルクトプラッツ方面に行くバスの乗場までついてきて、車内のひとに郵便局前で降ろしてやってくれとたのんでくれるひと、バス停からマルクトプラッツまでついてきてくれるひとなどなど、とにかく親切なひとばかりで恐縮してしまう。
 (写真は、ワイマールのマルクトプラッツとその近辺、それと、くだんの切符です)


[No.4926] 続・東ドイツ紀行 24  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/24(Sat) 06:48
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 ホテル エレフアント

 全体的には、ホテルは駅に近いところをーーーといって予約してもらったが、ここだけは例外だ。このホテルは古い歴史のあるホテルだから。 開業1696年の名門ホテルなのだ。その昔はゲーテ、シラー、トーマス・マン、バッハ、ワグナー、といった名だたる人物も泊まったり、食事を楽しんだりしたホテル。トーマス・マンの小説「ワイマールのロッテ」で,主人公ロッテが数十年ぶりにゲーテとの再会を果たすためにワイーマールを訪れたときに投宿したとされるのもこのホテルなのてある。
 特に、ゲーテの晩年、ゲーテ先生に一度お目にかかりたいとヨーロッパ各地から当時の文化人が馬車でやってくる。そしてワイマールに着くとまず、マルクトプラッツのホテルエレファントに旅装を解いたという。
 部屋の内装も洗練されたもの。どっしりとした大きなソファなども古いヨーロッパが、そのまま息づいている感じ。
 インターホテルとしてのランクは最低の星3つ。(前夜泊まったエルフルターホフは星4つ、ライブツィヒのメルクワは星5つ)であるが、どうやらこの国でもホテルの星の数は設備で決まるようだ。例えばサウナやプールがあるかどうかなど。

 夕食はホテルのレストラン、ベルベデーレで。パイ皮包み焼きにしたとり。コンソメとシュリンプカクテルのような料理が運ばれてきた。本人は半分当てずっぽうで注文しているので、なんの料理か食べてみるまで確とわからない。ところがコンソメスープを一口すって「うむ、おぬし、なかなかやるな」と思った。なんとも上品な味である。さすが、古い文化を誇る街にはおいしい料理がある。食事代はビール、デザート、チップまで含めて3千円弱であった。(当時の東ドイツとしては「けっこうなお値段である」)


[No.4929] 続・東ドイツ紀行 25  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/25(Sun) 06:31
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 5月6日(火) 晴れときどきくもり、一時雨

 ワイマールってどんな街

 森本哲郎さんは「ワイマールには、あまりにも多くの歴史が、そして歴史には、あまりにも多くの文化が、文化にはあまりにも多くの作品が、作品にはあまりにも多くの注釈が、注釈にはあまりにも多くの異論が、異論にはあまりにも多くの政治的な立場があり、その立場にはあまりにも多くの悲劇がある」と総括しておられる。そうです。小さな街ですが、大変なな街なのです。
 「ワイマール共和国」「ワイマール憲法」という言葉はおなじみと思います。
ここは、神聖ローマ帝国時代には、ワイマール公国。この時代には、バッハが宮廷楽長で、ゲーテが政務長官(宰相)いう豪華キャスト。もっとも、宰相と言っても、規模から言えば、藤沢市の市長さん、といったところでしょうか。
 ゲーテは、環境・衛生の向上に熱心に取り組むなど、意外と行政に熱心だったそうです。
 その後、アウグスト公に無期限の休暇を願い出てイタリアへ。しかし出発の時、ゲーテはアウグスト公にも奥さんにも行き先を告げていない。まあ、勝手放題みたいなところがありますね。でも、その後は、なくなるまでワイマールで過ごしました。
 一方、バッハは、その長い音楽家としての第一歩が「ワイマール時代」であったのですね。その後「ケーテン時代」「ライプツィヒ時代」と歩んでいくわけですが、私の想像では、この街でいろいろな刺激を受けたことがその後の音楽活動にいい影響を与えたのだと思います。

 ところで、ワイマールにゆかりのある方で、日本でも知られている方、と言いますと 音楽では、バッハ、リスト、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー、シェーンベルク、アルバン・ベルク、ヒンデミット。美術では、クラーナッハ、カンディンスキー 。文学では、ゲーテ、シラー、トーマス・マン、レマルク、ブレヒト。哲学でしたら、ハイデッガー、いゃ、まだまだ大勢おられるはずです。 観光地としても、見どころいっぱい、そこいらじゅう、世界遺産が散らばっている街なのです。EUから「ヨーロッパ文化首都」にも選ばれています。そのせいか、当時でも、街の中は、きれいで、諸設備もよく整備されていました。

見聞については、次回書きますね。なお、写真は市内の様子です。


[No.4933] 続・東ドイツ紀行 26  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/26(Mon) 06:54
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 さて、私がワイマールで何を見学したかについて書きます。
 例のホテルの8マルクの朝食を済ませ、まず、ゲーテパークを訪れました。ホテルのすぐ裏手なのですが、街の喧操(もともと静かな街ではありますが)をまったく感じさせない公園です。イルム川をはさんで緑の散歩道がつづいています。
 川のむこうにはゲーテ山荘があります。日本の公園のようにビルやネオンがみえたりはしないのです。深山幽谷にいるよう。そのうえ、ずいぶんと大きな公園です。
 ここから住宅地を通って「ゲーテとシラーの墓」へ。神社の鎮守の森のようにこの廟も森の奥深くにあります。広い公園の清々しい朝。柔らかい緑の木々。1824年から24年の歳月をかけて作られたという納骨堂にお参りしました。朝早いためか他にだれも参詣人がいないので、うすら寒くて暗くしめっぽい地下の納骨室に一人で降りていきました。大きな石の棺がふたつ、少し間をおいて並んでいました。なんだか気味がわるくてすぐあがってきてしまいました。入り口の小さなキオスクで絵はがきを買ったら「気持ちが悪かったでしょう」というようなことをいって、おばさんは肩をすぼめていました。この墓地には、ワイマール大公や「ゲーテとの対話」の著者エッカーマンなどのお墓もあります。

 昨日の「ワイマールゆかりの人」には書かなかったのですが(と言うより。この方自身がワイマール物語の主人公ですから)ワイマールが今日あるのは、ここの歴代の領主によるところが大きいのです。
 バッハを招聘したのも、史上最高のスカウトともいうべきゲーテをフランクフルトからはるばるひっぱってきたのも、領主、皇太子という人たちであったといいます。
 話は飛びますがエステルハーツィー公がいなかったらハイドンもシューベルトも困ったにちがいない、現代の云術家はマスコミや大衆に、冷戦時代には社会主義体制というご主人に仕えていたわけです。「メセナという名の旦那?タニマチ?」も、やや安定性を欠いた存在です。こんな「ご主人様」にお仕えするのと、文学や芸術に理解ある殿様に仕えるのとどっちがしあわせでしょうか。
 そんなことを考えながら、次に国民劇場にいきました。ゲーテやシラーの作品が上演されていたばかりでなく「ワイマール憲法」もここで採択された、というワイマールの重要な舞台です。

 ここで、にわかに大雨に。ゲーテの像もシラーの像も放射能の雨にぬれていました。
 広場をぶらぶらしていたひとたちがいっせいに雨宿りをします。慌てている様子が見えました。
 大急ぎで子供にレインコートを着せているひともありました。
 ヨーロッパのひとたちは、普段は、わりに傘をささないと思っていたのに、この日は違いました。これは相当チェルノブイリを意識しているな、と思いました。私も放射能を浴びるのは嫌なので郵便局に駆けこみました。
 もっと、あちこち、見物していたかったのですが、この雨がかなりの放射能を持っているらしいことは、周囲の皆さんの行動でわかったので、なるべく屋内にいることにしました。
 そこでカフェにいき、絵はがきを書くことに。書きあがったハガキを郵便局の窓口に持っていくと、老年の少し手が不自由で発語の不自由そうな窓口氏が45ペーニッヒだといって料金表のヤーパンを指で示しました。 不思議です。前日、エルフルトの郵便局では55ペーニッヒだといったのに。
 しかし、どちらもつつがなく日本へ着いていました。料金改定があったのに、料金表を差し替えるのを失念していたに違いないないです。しかし、その後も、この国のあちこちで、障害者・高齢者が働いている姿はよく見かけました。 しかも職場でも戦力として定着していたように見受けました。この面で、こんなに進んでいる国はなかったのではないかと思います。 お上のお声がかりで、一斉に何かがやれる「全体主義」というのも、悪いことばかりではなさそうです。
 ヘルダー教会だけをみてホテルに戻り、チェックアウトしワイマール駅に向かいました。
 写真は、大公家の墓所。地下の納骨堂に、ゲーテとシラーのお棺があります。次が国民劇場です。


[No.4937] 続・東ドイツ紀行 27  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/27(Tue) 07:39
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 プーヘンヴアルト収容所に行かなかったわけ

 もうひとつのワイマールにおける必見の地、ナチスのユダヤ人収容所には行かなかった。時間がなかったからではない。今度の旅行はまったくの個人旅行なので、この6日間どこでなにをみるか、これをすべてきめるのは私自身なのだから。理由は恐ろしかったからだ。暴君ネロやキリシタン殉教の史跡ならばだいぶ風化しているからまだしも気が楽である。しかし、これは私が生まれてから後の、当時の同盟国でのなまなましいできごとだ。卑怯かもしれない。でも、これに直面する勇気は私にはなかった。

 重々しい車内の雰囲気

 このあとは、ライプツィヒ経由でドレスデンヘいく。雨は上がっていた。列車がまた遅れた。
 ライプツィヒでドレスデン行きのホームにいってみると何やら異様な空気がただよっている。兵士、兵士、ものすごい人数の兵隊さんが広いホームを埋め尽くしている。そのうえ、まだまだ階段からあがってくる。皮の長靴をはいてカーキー色の制服をきて、おなじカーキー色のザックと毛布を背負っている。ホームの両側に5メーターおきぐらいに将校らしいひとが立って鋭い目つきであたりを見張っている。列車がはいってきた。今日の列車はコンパートメントでなくサロンカーである。なるべく兵隊さんたちの乗らない車両をさがして乗る。それでも、通路の反対側の席は将校で一杯だ。私の前の席もそうだ。いつもの癖で「この列車はドレスデンヘいきますよね」といった。向かいの軍人はガラスのような目でちらっとこっちをみたがなんにも答えなかった。シラッとした重々しい空気が車内に漂った。隣の奥さんがあわてて「ええ、いきますよ」と答えた。私の隣の若い男の人は読みかけの新聞から目をあげない。ちらっとみたらどうやらチェッコの新聞らしい。いままでいつも車内を覆っていたほんわかムードはここにはない。将校のひとりがペーパーバックを読んでいる。ちらっとみるとロシア語だ。しかも、表紙には英語でCIAとかかれている。背筋に冷たいものが走った。と同時にすべてが理解できた。彼らはロシア兵なのだ。ドレスデンはポーランドにもチェコにも近い。おそらく、ポーランド国境警備に向かう一隊なのだろう。とかくもめごとの多いポーランドで何かあれば、ソ連と東ドイツの両側からはさみ打ちするつもりか。彼らはドレスデンのひとつ手前、レスデンノイシュタットで降りた。 
 ざっく、ぎっく、ざっく という軍靴の昔が重いリズムを刻む。これから行くドレスデンが今度の戦争で壊滅的な被害をうけたときいているだけに、余計、この軍靴のリズムが耳に残った。あの音を聞くと子どもの時に戦争を経験している私にはアタマの上に重しがのしかかるような気分になる。
 (写真は、戦後建てられたと思う巨大な安普請の住宅)


[No.4949] 続・東ドイツ紀行 28  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/01(Sat) 10:16
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 現在のドレスデンと歴史的ドレスデン

 すっかり、重々しい気分でドレスデンの駅をでた。ところが、この街はいままでみたエルフルト、アイゼナッハ、ワイマールなどと違って近代的な大都市にみえる。新前広場はびっくりするほど広い。土地の私有が認められていない国では市街地の再開発を邪魔するひともいないのであろう、利権屋さんとヤーサンのお陰で駅前にバスターミナルさえ作れないどこかの街とはちがう。駅前広場はすべて歩行者天国になっている。そして広場の両側にはネバ、バスタイ、ケーニッヒシュタイン、リリエンシュタインといったインターホテルやブテックなど高級品を売る商店もあり、高層ビルが軒をならべている。 
 ただ、このところの暑さで広場ではアイスクリーム屋さんは大繁盛だが、他の店にお客さんが入っているところは見かけなかった。
 今夜の宿はこのひとつ、リリエンシュタインだ。

 ライゼビューローに行かされる

 リリエンシュタインのフロントにクーポン券を渡すとしばらく待たされた。やがて主任らしい女性が現れて「最初のホテルで間違って(正)の方をはぎとってしまった。次のエレファントでもそのことは知っていたがそのままにしていた。あなたの落ち度ではないけれどこのままでは、これから先も行くさきざきで問題になる。ここのライゼビューローでクーポン券の再発行をうけたほうがいい。あなたはこれからすぐ行くべきです。ライゼビューローには私から電話で事情を説明しておきます。荷物はここのクロークで預かりましょう。それから、ライゼビューローヘの道順は、この地図の通りです」。と分かりやすい英語で説明した。自分の落ち度でもないのに大事な時間をこんなことにとられるのは不本意だが、この主任さんの対応は資本主義国のレベルからみてもまずまずなので素直に指示どうリライゼビューローに行くことにした。
 ホテルから5分ほどでライゼビューローに着いた。ここでも中年の女性がにこやかに待っていた。確かに話は通じていて5分も待つとタイプで打たれたばかりの書類ができあがった。かくして、ホテル・リリエンシュタインに無事チェックインできた。
 このホテルはバスつきの部屋がない。おまけに相当な安普請でべ二アの床板が反っている。おそらく急激なホテル不足に対処すべく突貫工事で作ったに違いない。一見「戦後建った明るく近代的なビル」の正体がわかったような気がした。
 これも後でわかったことであるが、この時期、すなわち「メーデー・ウイーク」は、東側諸国では「お盆と正月」が一度に来たような連休なのだ。お盆や正月だけでなく、クリスマスやイースターの連休とも縁のない国における大切な連休なのだ。だから、東ドイツだけでなく東ブロックの人たちも旅行をする。いいホテルは、すでに売り切れていたのだ。それで私も、安普請ホテルヘ回されたようだ。
 (写真は、マルクトプラッツ、ブティック です)


[No.4950] 続・東ドイツ紀行 29  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/02(Sun) 07:31
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 エルベ川との対話

 ホテルに荷物を置くと街へでた。旧市街を通ってエルベのブリュールのテラスにいく。1945年の爆撃で徹底的に破壊されたというのに、いまやほぼ完全に昔の町並みが復元されている。ノイマルクトにある瓦礫の山だけが41年前を物語っている。
 テラスに腰をおろしてあたりを見回すと河畔にはバロック建築が重厚な姿でならんでいるし、遊歩道にはこれも由緒ありそうな彫刻が並んでいる。暑い日だったが河面をふく風は心地よい。傾きかかった陽がエルベに反射している。
 すべて明るい風景なのに、私の心は重く沈んでいた。耳の奥にはさっき、車内できいたあの、ざっく、ざっく という軍靴の音が残っている。
 ドレスデンはたしかに復興した。
 あの瓦礫の山だけを残して。
 しかし、ここから幾らも離れていない国境地帯には、ソ連、東ドイツの大部隊が駐屯している。彼らはソ連の防人だ。本当に、エルベの水が再び血に染まることはないのであろうか。私はすっかり気がめいってしまった。
 センパー美術館でラファエロのシスチンのマドンナをみた。が、これも私の気持ちを引き立てたりにしなかった。十字教会も市役所もみる気がしなかった。アンデルセンやゲーテが賛美した、北のフィレンツェといわれたドレスデンは見事に蘇っている。この市民たちの驚くべき根気と努力には深く敬意を表したい。でもこれをみないという私の勝手を許してもらいたい。
 まだ、昼間のように明るいプラガ一通りをとぼとぼと引き返した。そしてホテルのレストランで夕食をして早めに寝てしまった。
 (写真は、ブリュールのテラス近辺の風景と、センパー美術館の入場券と「ラファエロのシスチンのマドンナ」の絵葉書です)


[No.4951] 続・東ドイツ紀行 30  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/03(Mon) 08:50
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 5月7日(水)晴れ、夕方雨、日中暑い

 エルベの船旅

 今日は気分をかえてエルベの船旅を楽しむことにした。
マイセン行きは出発時刻の関係で無理なので逆にエルベを遡ってみることにした。遊覧船はテラスの下からでている。乗船券は片道1時間半の船旅で70円である。定刻に岸を離れるとちょうどパリのバトームシューのように街の景色をみせながらいくつもの橋をゆっくりゆっくりくぐっていく。                      
 やがて街を離れると両岸は緑が深くなってくる。緑の間には古いシャトーやマンションが見え隠れする。そしてエルベはゆっくりとながれている。あの戦火のさなかにもこんなに美しい流れだったのであろうか。  
 川幅は徐々にせばまっていく。両岸は草が萌えておりホルスタインがねそべっている。ポプラの並木が川面に陰を落としている。
 船はどこにでもあるような遊覧船だ。乗客は80%ほどの混みかた、チェコ、ブルガリアなど東欧の人が多いようだ。売店では絵はがきや写真も売っている。また、たのめばコーヒー、ビール、ジュースも持ってきてくれるしソーセージ、黒パンなどで軽食をとることもできる。マイクを使った説明などはない。到着のときだけアナウンスがある。
 船員はここでもイレズミをしている。

 風に吹かれてぼんやりと景色ながめていると、突然、女の子がきて袖をひっぱって何かいう。一目みて知的障害のお子さんとわかった。「こんなところで何をしているの。早くこっちでみんなと遊びましょう」といっている様子。
 明らかに私を仲間のひとりと思っている。ついて行ってみると船尾のほうにこの子の仲間がたくさんいた。おそらく、いまでいう「特別支援学級」の遠足なのだろう。私も一緒にかくれんぼみたいなゲームに参加した。言葉の壁も、外国人の区別・差別もない世界に生きるこどもたちとは、直ぐ友だちになれる。
 一緒に遊んでいると先生が挨拶にきた。どうやら「一緒に遊んでやってくださってありがとうございます」といっているようだ。さすがドイツでこんな子供たちに対してもなかなか躾が厳しいが、それでも先生の子どもたちを見る目は優しい。
そうこうしているうちに下船予定のクラインチャッハヴィッツという船着場に着いた。
 (写真は、川辺の風景、遊んでくれた子どもたちの先生たち、船の様子です)


[No.4952] Re: 続・東ドイツ紀行 30  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/03(Mon) 08:51
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 遊んでくれた子どもたちの先生と一緒に


[No.4953] 続・東ドイツ紀行 31  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/04(Tue) 06:46
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 市電の運転手は困惑する

 ここは、まったくの草はらでなんにもない。ベンチに座ってのんびりと川をみていた。さて、帰るとなると、ここはどこなのか、どうやったらドレスデンに戻れるのか、さっぱり分からない。ちょっと心細くなった。 
  
 でも、船着場がある以上街が近くにあるに違いない。そう思って家のある方向にどんどん歩いていった。びっくりするほど立派な家が立ち並んでいる。どの家も庭が広く季節の花が咲きみだれている。社会主義国家にも高級住宅地があることを初めて知った。地方都市だから政府高官の家のはずはない。
ドレスデンは工場の多いところだから、おそらく国営企業のエライサンの住宅なのだろう。

 更に進むと市電がみえた。シメタ!これで安心だ。運転手さんに「この電車は駅にいきますか」ときくと、「何処の駅にいきたいのか」ときく。「どこでもいいから最寄りの国鉄の駅までいきたい」−−−といえるほど、じつはドイツ語はできない。運転手も困ってしまったようだ。もじもじしていると市電はいってしまった。5分ほどしてまたきた。同じように「バーンホッフにいくか」ときくと手真似で乗れと合図する。
 市電は、住宅地をぬけ、工寒地帯を通り、労働者住宅らしい団地(先程の高級住宅とは大分違う。社会主義国にも歴然と格差は存在する)の前を通ってえんえんと走った。

 おかげでドレスデンの市内見学ができた。しかも、観光バスではみられない街の様子がよくわかった。 スポーツセンターの前を通り電車はとうとうドレスデン中央駅に到着した。やれやれ助かった。少し川べりを散歩してホテルへ戻った。預けておいた荷物を受け取るとライブツィヒに向かうべく駅へいった。

 (写真は、エルベ川の風景です)


[No.4954] 続・東ドイツ紀行 32  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/05(Wed) 07:35
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 社会主義国のボナペテ

 とにかく、おなかがすいた。ドレスデンの駅には、セルフサービスのものを含めて3つのレストランがある。 この日は中級のレストランヘいってみた。隣のテーブルのひとが、大皿に焼肉やサラダを山盛りにした料理をもらっているのが美味しそうにみえたので、蝶ネクタイに白の上着のウエイターに手真似をまじえて注文した。彼は運んできた料理をテーブルにならべると「ボナペテ、マダム」といった。もちろん、お勘定のとき、これに、見合ったチップを置いたことはいうまでもない。
 江国 滋氏の「旅はプリズム」という本は、同氏が東ドイツ政府に招待されたときの旅行記であるが、このなかに、レストランが満員であやうく食事をしそこねる話、ウエイトレスの態度が悪くて腹をたてる話か再三でてくる。今回の旅行中、そんなことはまったく経験しないですんだ。1976年当時は、江国 滋氏のような招待客であり現地のガイドに四六時エスコートされていたひとでも、こうだったのだから、事情がわるかったのであり、ここ数年で大幅に好転したのであろう。
 目下、国をあげてサービス改善に精一杯努力していることはよくわかる。たとえば、インターホテルなどでは、日本の会社のように従業員が胸に名札をつけており、「万一、応対の悪いものがおりましたら名札の名前をみておいてマネージャーまでご一報ください」という掲示がでていたり、例の「バスルームの清掃 1、よい  2、ふつう 3、わるい」といつたスタイルのアンケートがライティングデスクに置いてあったりするのだから。
 そのうえ商店でも、郵便局にも、「この窓口は何曜日は何時から何時まで開いています」ということが明記してあり、しかも私の経験では間違いなくその時刻には係員がいた。
 でも、ボナペテ、マダムは一寸意外であった。

 それから、もう一つ、気がついたのは、到着した日には、注文した料理には、たしかにトマトやレタスなどの生野菜のサラダがついていたが、二日目以降サラダはこの国のレストランというレストランから一斉に姿を消した。それがこの日、ドレスデンで「復活」したのである。東ドイツのテレビニュースでは「チェルノブイリの事故」については、あまり取り上げていなかったようだが、密かに国民の健康を心配していたのであろうと思う。そして、おそらく「汚染度の低い野菜の確保」に目途が立ったのではないかと思う。

 (写真は「北のフィレンツェといわれた美しいドレスデンの街」)


[No.4955] 続・東ドイツ紀行 33  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/06(Thu) 09:45
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 私が乗換案内担当です

 さて、駅で、番線を調べようと思ったのに、電光掲示板が見つからない。そこで、インフォーメーション・オフイスへ行ってみた。部屋の壁に、時刻表などが貼り付けてあって、私としてはそれで用は足りたが、ふと、カウンターの向こうにいる中年の制服を着た女性が、旅行者へ説明をしているのを見て、びっくりした。
 手をヒザに乗せて、何も見ないで説明をしているのだ。ドイツ語はわからなくても「鉄道用語」はある程度理解できるので聞いていると「次の駅で降りたら、右の方に行きなさい。そこに連絡階段があるから、そこから4番線へいきなさい」などと話している。
 この方、まったく目が見えないらしい。
 東ドイツの鉄道時刻表をすべて暗記しておられるのだ。そして、お客さんにわかりやすく説明して上げている。感動した。覚える努力も大変なものだが、そのいう才能のある障害者に活躍の場を与えているこの国に 大いに感動した。(もっとも、今は、コンピューターが全てやってくれるのだろうが)

ライプツィヒ市民はホテルメルクアを見上げる

 急行に乗ればライブツィヒまでは1時間半でいく。小さい国なので大都市相互の距離は、ほとんど2時間か3時間以内だから移動にはあまり時間をとられない。列車がライブツィヒにさしかかると早くも車窓から天高くそびえるホテルメルクア(Mercury・水星)が目に飛び込んでくる。中央駅のすぐわきにあり27階建、高さ100m。泊まるのが気恥ずかしくなるようなごたいそうなホテルだ。これが、今夜の宿泊ホテルとして「指定されている」ホテルなのだ。本当はクラシックホテルが好きなのだが、当時は観光客には「ホテルを選ぶ自由がなかった」のだから仕方がない。勇気をふるってフロントに近づく。厳かに、且つ、にこやかに迎えられた。
 このホテル、5年前、鹿島建設の施工により完成、エレベーターは三菱電機の高速用が据付られている。単に入れ物だけでなく、ホテルのソフトも日本流だ。部屋には小型冷蔵庫、いわゆるミニバーがあり、ちゃんと伝票とエンピツが置いてある。廊下の大型冷蔵庫には、ミズワリには欠かせないアイスキューブがたっぷりと入っている。トイレットは消毒済みのシールで封印されている。ドアのノブにかける「DO NOT DISTURB」の札も独、英、露、仏、西とあって最後は「起こさないでください。就寝中のため」という日本語である。MESSEのときなどにやってくる西側のビジネスマン向けで、おそらく日本の商社マンも利用するのであろう。
 ここにはプールはいうにおよばずサウナからフィットネスクラブまであるそうだ。正に至れりつくせりの感がある。 
 どうやら、我々の知っている以上に、日本と東ドイツの、産業・経済協力関係は進んでいたようだ。
 立派なものを作るとなればとことん立派にしないと気が済まないというのもやはりドイツ式である。ここだけは、超一流だけあって朝食も例の8マルクの枠はなく食べ放題の由。

 (写真 駅舎はパッといないが、車内は結構立派でした)


[No.4956] 続・東ドイツ紀行 34  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/07(Fri) 06:47
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 またまた、ライゼビューローヘ

 まず、ライゼビューロー(国営旅行社)にいく。明日のホテルがマグデブルグに指定されている。誰もこんなところをたのんだ覚えはない。一方的に当てがわれたのだ。明日はベルリン見物を予定しているのにそんなところに泊まったら不便だ。大体、マグデブルグになにがあるというのだ。昔、教科書に、この街で、真空の実験をするために馬で空気を抜いた玉を両方からひっぱったという話がでていたが、私がこの街について知っていることといえばこれだけだ。

 ライプツイッヒのライゼビューローには例によっておばちゃんがいて「分かりました。ベルリンにきいてみましょう。但しベルリンのホテルはみんな高いですがよろしいですね。いえ、差額を払っていただくという訳にはいかないのです。一旦全額支払っていただいてマグデブルグのクーポンは日本へ帰ってから払い戻してもらっていただくことになりますが」。と分かりやすい英語で応じてくれた。なんでもいいからとにかくベルリンに泊まりたいというと、20分ぐらいあちこち精力的に電話をかけていたが、「アイアムソーリー、ベルリン市内のホテルはすべて満員です」とのこと。丁寧にお礼をいってライゼビューローを後にした。やはり「メーデー」ウイークで、首都のホテルは混んでいたのであろう。

 聖トマス教会にて

 街を歩いてみる。若いひとが多い。服装もなかなか垢抜けしている。本屋、楽譜屋がめだつ。たしか、ペーター版、レクラム文庫の「発祥の地」のはず。楽譜屋さんには、モーツアルト、ベートーベン、バッハ、メンデルスゾーンなどの古典が多い(ただ、日本の古本屋で買える「昔のペーター版」にくらべ紙質がよくない)。なお、この街にきてからヴァイオリン抱えた子供によくあう。クラシック音楽は盛んのようだ。
 また、本屋さんにはコンピューター関連のものが目につく。この国は今、国をあげてハクテク化に取り組んでいるのだ。しかし、これは「専制主義国家」にとっては「危険な徴候」と私には見えた。
 先ず、聖トマス教会へ。ここには、ヨハン・セバスチャン・バッハが1723年から世を去るまでつとめていた。沢山の名曲を残しており、今もここに眠っている。祭壇に墓標があり、赤いバラが手向けてあった。  一体、幾度、バッハの音楽に慰められたことだろう。きっと、この後もまた。
 ここのバッハの像は、少し庶民的で世帯やつれしているような表情をしている。子沢山の上,内弟子さんもいて、扶養家族が多かったので、楽長さんもラクではなかったのであろう。
 幸いにして、今回の旅ではアイゼナッハ、ワイマール、ライプツィヒと、ケーテンをのぞきバッハの足跡をすべてたどることができた。
 ここで、はじめて、日本人観光客に出会う。新婚らしいカップルで当地のガイドを連れている。ガイドは英語で解説していた。聖トマス教会は小さいが、すきっとしたゴチック建築でステンドグラスも美しい。


[No.4957] 続・東ドイツ紀行 35  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/08(Sat) 06:42
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 何はさておきゲバントハウス

 ライプニッツの像のあるライブツィヒ大学をちょっとみて、再建なったゲバントハウスヘいく。思えば東ドイツにきてまだ一度もコンサートに行っていない。いくならば今夜をおいてチャンスはない。入口の案内版によると木曜は大ホールは休みだが、今夜は小ホールでソ連のピアニスト、ルドルフ ケーラーというひとのリサイタルがある。プログラムはショパンのポロネーズ、ノクターン、プレリュード、リストの葬送曲(はじめて聴く曲)、ハンガリアンラプソディ、ベトラルカのソネット。
 早速、窓口にいって当日売りの切符は何処で売っているかを尋ねる。といってもドイツ語はわからない、知っている限りの単語を必死でならべる。「ホイテ、アーベント、クライナーザール、ピアノ、いや、ええとクラヴィーアかな、チケットじゃなくてカルテかしら」。こっちのいったことが分かったらしくしやべりだす。よく分からないけど腕時計を見せて「ジーベンウーア」といいながら小ホールの入口を指差す。〈多分、7時にここにくれば買えるーーーといっているのであろう。違ったらどうするか、心配ない、別に生命に係わる問題ではない。庶民はたくましく、恥しらずに旅を続ける〉

 レストランさくらと、また親切な日本人

 こうなると忙しい。ホテルに戻って着替えなければ。とはいっても着たきりスズメのこと、大したものは持っていない。でもコンサートに行くのだからせめてブラウスぐらいは替えよう。それから食事も済ませておかなければ。
 ホテルメルクアには、日本レストラン「さくら」があって、東ドイツの板前さんが腕をふるい、東ドイツの娘さんがお給仕をしてくれるとか。話のタネにここにいってみた。鉄板焼きを注文する。時間がない。急いでもらわねば。―――ところで、ええと、「急いでください」は何というのだったっけ。わずかな単語をやり繰りしている身には一つ忘れるのは痛手である。近くで列車の走る音がする。急行列車は確かシュネルツークだ。当時は「テッチャン」だったから鉄道用語は少し詳しい。青い眼の板さんに「シュネルツーク、ビッテ」というと分かったらしくニコニコしていた。 やがて、紺地のゆかたに黄色の博多帯の東ドイツ娘さんがしずしずと赤だしをお盆に乗せて運んでくる。突き出しは「糸ごんにゃくときのこの煮付け」。あとはビールと鉄板焼き。これは牛肉の他にじゃがいも、人参、しいたけがついている。タレはポンズとゴマダレがグートとのこと。
 向こう側テーブルの3人連れのひとりが「これから何処かへお出掛けですか」と日本語で話しかけてくる。やはり、東ドイツの企業に技術指導のため派遣されているのだそうだ。ゲバントハウスヘ行くことを話すと、「この雨の中を。ちょうどそっちに行きますからお送りしましょう」といってくださる。外は激しい夕立。ご厚意に甘えることにした。
 彼の部下らしい東ドイツの青年2人と車に乗せてもらう。
 この2人はこのケンと呼ばれる日本人を尊敬していてよくいうことをきく。そして、たどたどしいが日本語も知っている。
 私のために近道をする。「ケン、ポリツアイ(警察官)がくるよ」と青年のひとりが注意している。最初の日に会った日本人が現地の生活に馴染もうとせず、ひたすら日本を恋しがるタイプであったのに対し、この人は積極的に現地の人たちと打ち解けていくタイプらしい。2人に共通することは私に親切なことである。5分ばかりで雨の上がったゲバントハウスに着いた。

(写真は、ホテルの窓からながめ。ホテルの室内。バスルームーーー豪華でしょう)


[No.4958] 続・東ドイツ紀行 36  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/09(Sun) 08:01
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 順番は公平に

 入り口にはすでに6、7人が待っていた。また雨か激しくなったので列をくずして軒下に入っている。7時きっかりに開門、 前売り券をもっている人から入れていく。その後でお客の入り具合をみながら3、4人ずつ、当日売りを待っている人を入れていく。列は崩れていたが、みんなさすが行列のプロだけあって順番はよく覚えている。10分ぐらいたって「次のひと」と呼ぶと誰かが私の背中を押す。
 なかに入ると、紺の上っぱりをきたおじいさんの係長が切符売り場に連れていってくれる。切符は8マルク=六百円)。プログラムは40円。ロビーは華やか。みな精一杯おしゃれをしてきている。尼さんたち、眼のみえないご主人の手をひいているおばあさんもいる。
 ワイン、ジュースも売っており、ワイン片手におしゃべりを楽しんでいる様子はウィーンのシュタートオーバーあたりと少しもかわらない。座席は完全にふさがっていた。

 聴きごたえのある演奏

 このケーラーというひと、日本ではレコードもでていないし、名前も聞いたことがない。60過ぎの逞しいひとである。まず、ポロネーズ(英雄)の出だしでぴっくりした。おなかにどどんとくるような逞しい弾きかただ。もっとも、ゲバントハウスの音響効果もそうとうなものだ。
 しかし、なんといっても、彼はロシア人、しかもかなり武骨な感じのするひとだ。そして、ショパンはポーランド人、リストはハンガリーの農村の生まれ、そして、ここは東ドイツである。ショパンもパリの社交界にいるときのように気どってはいない、逞しいショパンである。そのせいか、プレリュードでは、あのやるせなさ、悩ましさが感じられない。リストでは、特にハンガリアン・ラプソディーで確かな技巧をみせていた。しかし、なんといっても力のこもった演奏でふかく感動した。

 ゲバントハウスの聴衆

 満員の聴衆は一曲ごとにわれるような拍手でこたえた。
 また、演奏中も身をのりだし、からだで拍子をとりながらききいっている。
 メンデルスゾーンを初代の常任指揮者としているゲバントハウスオーケストラを長年にわたりささえてきたのは聴衆、すなわちライブツィヒの市民である。かれらはきわめて質の高い聴衆として自他ともに認めている。ここでうけたということは、おそらく演奏家冥利につきることであろう。アンコールに6曲ひいたことでもかれの感激がわかる。(後でわかったところでは、結構有名人で、ジョージア(グルジア)生まれでモスクワ音楽院教授をへて、のちに、ウィーン国立音楽大学マスタークラスの教授となった方だったのだ)。
 終盤では、舞台と客席が完全に一体となっていた。最後のアンコールのとき、もう終わけだろうと思って廊下にでたらまたものすごい拍手なので引きかえしてみると、かれはステージから私をみつけて手真似で席に着くように合図する。私が座ると「ダンケ・シェーン」といってグリークをひきはじめた。
 ホールをでるとすでに雨はあがっていた。東ドイツは治安のよいところなので深夜の道をホテルまで歩いても、心配はない。この夜は興奮したのかなかなか寝つけなかった。

 (写真はゲヴァントハウスの建てものと、入場券)


[No.4959] 続・東ドイツ紀行 37  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/10(Mon) 06:16
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 5月8日(木)くもり、ときどき晴れ

 さて、いよいよベルリンヘ

 昨夜はよく眠れなかったが、今朝は早く目がさめた。今日はベルリンヘ行く日なのだ。ライプツィヒからベルリンのシェーネフェルト空港駅まではノンストップで1時間50分。幹線だけにコンパートメントもきれいだ。女の車掌さんが来て特急券を買わされた。300円なり。空港に駅があって、しかも急行、特急がすべて止まり、国電までが乗り入れているのは、さすが、東ベルリンだと思う。
 とりあえず、西ベルリンヘいってみたい。西ベルリンヘの入り口(すなわち、壁の穴)はふたつある。ひとつはチェックポイントチャーリー、もうひとつはフリードリッヒシュトラーセである。今回は国電の便利のよいフリードリッヒシュトラーセ経由でいくことにした。シューネフェルト空港駅からフリードリッヒシュトラーセ駅までは案内板をたより国電を乗り換えてなんとか行けた。

 とうりゃんせ、壁の穴

 ここは、ターミナル駅なのでなかなか大きい。インフォーメーション・オフィスの前の案内板には駅構内の見取り図があって、レストラン、キオスク、トイレなどの場所はよくわかる。ところが、肝心の西ベルリンヘの入り口が見つからない。通りがかりのひとにきいてみようとも思ったが、ことがことだけに、べルリン市民にたずねるのはちょっとはばかられた。困ったな、と思ってなおもよく見取り図をみるとポリツァイ(警察)という字が見えたので行ってみた。パスポートをみせると、こちらの聴きたいことがすぐわかり、コンコースの外をさして「アウス(外)、アウス」という。  
 外へでてみるとなるほど、駅と隣の体育館のような建物との間に空き地がありここに動物園の入場券売り場のような窓口がいくつか並んでいた。なんとなく一番とっつきの窓口に並んだ。この日は特にすいていたのか並んでいたのは4、5人だった。しばらくすると前に並んでいたおばあさんが、私の袖をひっぱり何かいっている。例によってドイツ語は分からないのでキョトンとしていると、十六の菊のご紋章のついた赤いパスポートを指して次に奥の窓口を指す。ハハア、ここじゃないんだな、ということが分かったので改めて出国窓口をよくみてみた。そうすると窓口の上にプレートが出ている。今いるところは「BURGER DDR(正しくは「ウームラウと」がつきます)」、隣は「BURGER BDR」、その次は「BERLIN STAAT−−なんとか」とある。私はその場に荷物を置きバッグからGEMの独和辞典をだしてBURGERという言葉を調べた。そうか、手前は東ドイツ国民用、次は西ドイツ市民用、その奥はベルリン市民用なのだ(ということは、東ベルリン市民は別のパスポートを持っているのかしら)。
 それならそのどれにも属さない私は一番奥の窓口にいけばいいんだなーーーとやっとわかった。
 そこにはふたりしか並んでいなかった。前の小柄な紳士は口髭なんかはやしてどこか気障な感じがしたらやっぱりイタリア人だった。次の黒いコートの年配の婦人はポーランドのパスポートを持っていた。二人とも1、2分で済んだ。私の番がきて窓口の若い、うす青い目のポリツァイさん(警察官)にパスポートをみせた。彼は先ず私の顔を穴のあく程みつめてからパスポートの写真をじっとみた。次にパスポートをばらばらめくってヴィザを確認した。そして私のほうをみて「アインマル、か ウントツーリュック(片道か往復)のどっちにするのか」と手真似をまじえながら質問した。そのツーリュックのほうで頼むというとすぐ通してくれた。

(写真、東ドイツの切手。隣は「西ベルリン」の切手)


[No.4960] 続・東ドイツ紀行 38  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/11(Tue) 06:56
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 国電のなかはため息の合唱

 べ二アで囲った細い通路を通り抜けるとまた駅のコンコースに出た。ここから階段を登るとホームになっている。ここには別の電車が待っており、すでに半分くらいの座席がうまっていた。車掌さんも運転手さんもさっきと同じ東ドイツの制服を着ている。この後、さらに5、6人乗ってから電車は動きだした。出るとすぐ高架線になり例の壁に添ってしばらく走る。壁越しに西ドイツの国旗がたかだかとあがっているのが見える。車内から小さな歓声があがった。
 やがて電車は国境を越え西ベルリンの最初の駅に到着する。
 ここで東ドイツ側の乗務員がすべて降りる。引き換えに西ベルリンの乗務員が乗り込んでくる。乗務員交替を終えると電車はすぐに発車した。この時、私の前の座席にいた4人の家族ずれのおかあさんがびっくりするような大きなため息をついた。これにつられて車内のあちこちからため息や歓声がきこえてきた。この家族ずれ、古ぼけたトランクを8つも持っていたし服装も古びている。どんな事情があったのか。何か重い過去がこの時代遅れなトランクの底に隠されているように感じられる人たちであった。  
 単なる観光客は少なくとも私のほかにはいない模様である。
 「ついでにサラダ付きのランチをたべて」そんな不謹慎な?理由で壁を越えるなんて到底考えられないことである。なお、東ドイツでは、到着した翌日以降、生野菜がレストランのメニューからもマーケットからも消えた。例のチェルノブイリの放射能に対する懸念からであろう。しかし、後に会った日本人の話では、まったく何のご挨拶もなく「突然」姿を隠したとのこと。「消えること」も「その理由」も知らされていなかったよし。帰国の前々日ころには、また何のご挨拶もなく登場した)
 サラダのことを考えることすら何か不謹慎なような車内の雰囲気であった。

 自由とはきたなく、うるさいもの

 5分ほどで西ベルリンのZ00駅、すなわち動物園前駅、に到着。ここで下車した。東京でいえば上野と銀座をつきまぜたような繁華街だ。西ベルリン側では、まったく入国審査はない。ホームから通路へ出てびっくりした。なんともきたないのである。
 空き缶やビニールが散乱し埃っぽい。塵ひとつおちていない東ベルリンからくるとよけいにそう感じる。駅の構内をでると、まずコジキが目に付いた。しばらく歩くとアル中のおっさんがいた。昼間から完全に目が据わっていて怖い。とにかく、オイローバ・ツェンターというルミネのような雑居ビルヘいき、ここで煮込み料理とサラダを食べた。オイローバ・ツェンターの展望台はティールームになっている。ここで600円のクリームサンデーを嘗めながら(西ベルリンは物価が高いのである)街を見渡していると厚い雲の割れ目から太陽が顔をだした。まぶしい日差しを浴びながら私は太陽と話し込んでいた。
  「コジキがいるっていうけど、東ではコジキをする自由もないということじゃないのかね」。「でも西側諸国の人たちはこの40年、ありとあらゆる自由を試してみたでしょう。ゼネスト、ウーマンリブ、学園紛争、離婚、ヒッピー、ヌーディスト・クラブーーーそれで何が得られたんですか。いまじや、ユーロペシミズムなんていっているでしょう」。「しかし、あんたは、ベルリンの壁を越えてきたひとたちのあのため息をどうおもうかね」。「でも、この西ベルリンの人こそ、籠の鳥でしょう。壁に囲まれている街なんかに住んでいるからアル中になるんじゃないかしら」。「まあ、とにかく難しい問題だよ。あんたもせっかちに結論を出さずによくみてよく考えてみることだね」。
 太陽が雲の奥へ帰ってしまったので展望台を降りて街に出てみた。クーダム通りなどを歩いてみたがなんとなく落ち着かない。それに、いまやニナリッチもバーバリも西のお金さえ持っていれば東のインターショップでも買えるのだ。
 少し早いけれど東に戻ることにしてフリードリッヒシュトラーセ駅に向かった。
 (写真はカイザーヴィルヘルム記念教会と街の様子です)


[No.4963] 続・東ドイツ紀行 39  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/12(Wed) 07:59
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 えらく早かったな

 Z00駅でキオスクにいってみた。西側の新聞を見出しだけでもみたいと思ったのだ。「新聞スタンドはどこ」ときくと売り子のおじいさんはにこにこして壁を指した。8mぐらいの壁がわ全体が新聞と雑誌でうまっているのだ。
 私のわかるものだけでもフランクフルター・アルゲマイネ、ニューヨークタイムズ、イズベスチヤ、人民日報、朝日新聞など。このほかアラビア語、ギリシャ語などの紙名すら読めないものもたくさんあった。
 かつて東西両ベルリンは東西両陣営のショーウインドーだと言われていたという。このウインドー較べ、いまやクリーンで秩序正しく、しかも気の利いたブティックなどの並んでいる東ベルリンのほうに軍配があがることは、ごみだらけでコジキやアル中のうろうろしている西ベルリンも認めていることだろう。しかし、この新聞スタンドは、東ベルリンという「ショーウインドー」が西側諸国では品揃えの目玉となっている自由、中でも報道の自由という品揃えに欠けていることを訪れたひとに示しているのだなと思った。
 新聞の見出しだけみた限りではこの世の中、大事件は起こっていない。記念に切手を買った。ただし、駅の郵便局には記念切手はなかったので通常切手を買った。西ドイツのものと同じものだが、DEUSCHE BUNDESPOST BERLINと国名に「べルリン」という字が入っている。
 帰路の入国手続きも入国カードに残りのホテルヴァウチャーを添付して渡すだけで簡単に終わった。しかし入国査証料1200円也をしっかりとられた。ずんぷん高いサラダについた。東側のコンコースで往路の窓口にいたポリツァイさんが交代で一戻ってくるところに出会った。こっちを向いてにやにやしながらなにか言っている。おそらく、「ずいぶん早く帰ってきたな」というような意味のことをいっているのであろう。

 鈍行でマクデブルグヘ

 行きと同じ要領で今度は逆に東の国電に乗り換えてアレキサンダープラッツまで行く。ここには、大きなホテル、デパートの他、われわれ外人旅行者の世話を一手に引き受けているライゼビューローの本店がある。ここで、もう一度、ベルリン市内のホテルを捜してもらおうというのだ。
 我ながらずいぶんしっつこいと思う。しかし結局ここでも「残念ですが」ということになる。
 ようやく諦めてマグデブルグにいくことにする。ところがシューネフェルト駅にいってみるとマグデブルグ行きの急行は出てしまっていた。駅の時刻表によると次の急行がマクデブルグに着くのは真夜中の24時になる。もっと早く着くローカル線があるのではなかろうか。駅のインフォーメーションオフィスにいってみた。日本と違って時刻表を持っているひとの少ないヨーロッパではこの種のものはよく利用されているが、ここもご多聞にもれずふたつの窓口はお上りさん達で賑わっていた。窓口の中年女性は私の求めに応じて手許の記入用紙に時刻表も見ずに出発時刻、乗り乗換駅の到着時刻、出発時刻、マグデブルグヘの到着時刻をさらさらと書いてくれた。これによると23時には着く。
 まだすこし時間がある、駅のセルフレストランでハンバーガーを食べる。パンもふんわりして暖かかったし、わりにおいしかった。

 (写真は西ベルリンです)


[No.4967] 続・東ドイツ紀行 40  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/13(Thu) 09:07
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 眠れ・眠れ、起こしてやるから。

 列車は、ベルリン近辺では混雑していたが、駅に止まるたびに、一人、ニ人と降りて行き、2時間もたつとガラガラになってしまった。次第に寒くなってきた。バッグからキルティングを出して羽織る。体が温まると、ついウトウトする。「あれも見たい、これも聴きたい」で、この数日間、あまり眠っていないからかも。「ここは外国だ。車内で眠るなんてとんでもない」と目をしっかり開く。しかし、また眠気に襲われる。
 向かいの席の作業服を着た初老の男性が「どこまで、行くのか」と聞く。「マクデブルグ」と答えると、何やら仲間と話している。そして「心配するな。眠れ。眠れ。オレは、この先の駅で降りるが、その後はアイツが引き受ける」と斜め前に座っている男性を指差す。
 信じられそうな人たちである。安心して、眠る。しばらくして、先ほどの男性は小声で「グーテン・ナハット」といって降りていった。また、眠ってしまう。誰かが肩をトントンと叩く。「引き継ぎを受けた男性」である。腕時計をみせながら「あと8分で到着する」と教えてくれているようだ。降りる支度をする。マクデブルグ駅は終点なので、全員が降りる。
 男性は「こっちだぞ」というふうに手招きをして、私に先立って道案内をする。駅の外に出て、目の前に大きなホテルが見えてきたところで、黙ってそのホテルを指差す。私が頷くと、すっと消えてしまった。お礼をいう間もなかった。
 たしかに、当時の東ドイツ市民は親切だった。

 5月9日(金)曇り、一時雨、夕方晴れ

 マグデブルグは寝るだけ?

 この街についていわゆる「マクデブルグの半球」以外思い浮かばないというのは、どうやら私の知識不足で、ここには大聖堂、聖マリア修道院などみるべきものも多いそうだ。しかし、もう余すところは一日、なにしろ先を急ぎますので朝食もそこそこに6時55分発のベルリン行き特急に乗る。今度は一時間余りで今夜の宿泊地ポツダムに着く。ここで誤算があった。せっかくポツダムに着いたのだから途中下車してホテルに荷物を置いて来ようと思ったのだ。
ところが、ポツダム中央駅からインターホテル・ポツダムのある街の中心までは市電で20分以上かかるのだ。

 近くて遠いポツダムとベルリンの間
 やっと荷物をホテルに預けてポツダムの駅に戻りベルリンヘむかう。ここに第二の誤算があった。地図でみるとポツダムとベルリンは隣接している。当然15分もあればベルリンの中心地へ行かれるものと思っていた。ところが実際はかれこれ一時間もかかった。すなわち隣接しているのは西ベルリンであり、電車はここを迂回しており二度ばかり乗換えをしないと、フリードリッヒシュトラーセ駅には行かれないのである。
 (写真は、東ベルリン。左の写真の建物は「ベルリン大聖堂」、右の写真では、市民の服装に着目してください)


[No.4969] 続・東ドイツ紀行 41  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/14(Fri) 07:49
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 ウンターデンリンデン通り

 フリードリッヒシュトラーセ駅に着いたのは10時半ごろであった。ただちに、ウンターデンリンデンヘ。今や、リンデンバウムも新緑の季節を迎えており、この国の表看板にふさわしくなんとも美しい。そのうえ広くて清潔な通りの片側には気のきいたブティックなどもある。まさに東欧のショーウィンドウである。
 ただ、なんとも目障りなのが、東京でいえば銀座の尾張町の角に相当するところに、でんとそびえているお城のようなソビエット大使館、通りをはさんで居座っているアエロフロートのベルリン支店なのだ。われわれからみても気になるのだからこの国のひとびとにとってはどんなにうっとうしいことであろう。 
 街のあちこちに「ソ連との友好関係を深めよう」というスローガンが目につく。浮気をはじめたご主人がやたらに「愛しているよ」といいはじめるのと同じで、西側諸国との関係を深めつつあるからこそ、この国がソ連に気を使っているのではなかろうか。
 そのアエロフロートヘ航空券のリコンファーメイションに行く。若い窓口係りがこぼれそうな笑みを浮かべ(気持ちわるい)私の切符を受け取ると、手許の端末機をちょんちょんとたたいて「オーケー、べリーグツド、マダム」とのたもうた。手渡された粗末なメモには便名、出発時刻などと一緒にわが留守宅の電話番号まで印字されていた。やれやれこれでひと安心。
 ウンターデンリンデン通りが突き当たったところがブランデンプルグ門である。そのはるか手前に柵があってその先は立入禁止の無人地帯になっている。ここには国境警備隊らしき数人の姿がみえるだけだ。柵のこちら側では 2、30人の観光客がお互いに記念写真のとりっこをしていた。
 ただひとり中年の男性がじっと柵にもたれて何時までもブランデンプルグ門の彼方を見つめていた。  おそらく西ベルリンに身内がいるのであろう。あくまでも明るく爽やかで清潔な風景のなかでのことだけに一層、この人の背中だけが悲しそうにみえた。
 ブランデンプルグ門こそかつてのベルリンのシンボルであり門のうえには4頭の馬車る女神の像があるといわれている。これらの観光客がみんなで門のそばへ寄ってこの像を見物できる時代がはたして来るのであろうか。

 (写真は、ブランデルブルグ門の手前の無人地帯と、その手前にそびえ立つアエロフロートのオフイス)


[No.4972] 続・東ドイツ紀行 42  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/15(Sat) 06:50
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 ベルリンを歩く

 ここからウンターデンリンデン通りを東にむかう。どっしりとした国立ドイツ図書館(?)の隣の大きな建物はフンボルト大学。入り口には創設者、フンボルト兄弟の像がありベルリンの街を見下ろしている。中公新書の「フンボルト」によれば彼の論文には「−−−国家は人間のために存在するのであって、人間は国家のためにあるのではない。−−国家のなし得る最も積極的なことは、市民の自発的な活動にいささかでも影響を及ぼすようなことから手をひくことであるーーー」ということが書かれているそうだ。彼は18世紀末に今日のドイツを想像できたのであろうか。
 像のそばのベンチにはジーパンにティーシャツの男女の学生がくったくなげにくつろいでいた。

 かつてここでは森林太郎(森鴎外)、北里柴三郎などたくさんの日本人が「学んで」いる。今回の旅行で出会った日本人はいずれも技術指導など「教える」ためにこの国に滞在している人であった。ここに時間のへだたりを感じる。
 シュプレー川を渡ると中の島になっておりここは博物館が集中していることから博物館の島とよばれている。どっしりとした建物の旧博物館、国立美術館もみたかったがベルガモン博物館へ行った。ここには紀元前180年ごろの古代都市ベルガモンから発掘されたゼウスの神殿の祭壇、メソポタミアのバビロンで発掘された城壁の模様などすばらしいコレクションがあり、しかもいかにもドイツらしく見学者にみやすい陳列方式をとっている。ベルリンでどんなに時間がなくてもこれだけは見たかった博物館であったが実際みる価慣がある。

 ホテルウンターデンリンデンのレストランで遅い昼食をとる。ここには西のレストランとおなじようなサラダバーがあり例のキャベツやじゃがいもだけでなくピーツ、トマト、カイワレらしきものなどいろいろ選べるようになっていた。ところがおなじテーブルの母娘はこの色とりどりのなかからキャベツだけをお皿に入れてきた。きっとふだん食べているものだけが安心してたべられるものなのであろう。私はパンを浮かべてオーブンで焼いたスープなどをこれが東ドイツ料理の食べ納めとばかりお腹いっぱいたべ、ベルリンの街をあとにした。

(写真は、フンボルト像、ペルガモン博物館、シュプレー川)


[No.4975] 続・東ドイツ紀行 43  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/16(Sun) 06:35
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 ベルリン無法者

 シューネフェルトからポツダムにむかう列車のなかでめずらしい事件に出会った。サロンカーの座席に腰掛けていると青年団のような20人ぐらいの一隊がどやどやと乗り込んできて先に乗って座っている乗客になにか言った。そうするとドイツ人の乗客は通路に出て行った。彼らは手に手に酒びんを持っており、すでにかなりきこしめしている。
 一人ぽつんと彼らのあいだに座っている私に気がつくと、リーダー格の男が私の前にきて「ハローグッドアフタヌーン、ナントカカントカ」と多分 かれが知っている数少ない英語の単語とともに私は立ち退きを要求してきた。他の乗客を全員退い出して自分たちの専用車にしてじっくりお酒を飲もうという魂胆らしい。君子危うきに近寄らず、私も出てきた。
 通路にいた女子学生らしい子が私が追い出されてくるのを見て目に涙をうかべながら退役軍人のような がっしりした身体つきの小柄な老人に必死の表情でなにか訴えている。
 おそらく外国人にまであんなことをして恥ずかしいとでもいっていたのであろう。老人は車内にはいっていくと若者たちを睨みつけながら強い口調でなにかいっている。その甲斐あってかわれわれ迎えにくることこそしなかったが静かにはなった。車掌さんは検札にきたけれど見てみぬふりをしていた。
 ここもひとつの国であってみれば、ヤクザもいれば、正義漢もいる、みてみぬふりをする人もいるーーーどこもおなじだなと思った。

――――――――――――――――――――――――――――――
 この件について当時、東ドイツに長く住んでいた、友人のY氏は下記のように説明してくれた。
 ―――ベルリン無法者の件、酒の勢いでなだれ込んできた「青年団らしい20人ほどの若者たち」というのが(青シャツ着てましたか?)まさに メーデーから解放記念日まで隊列行進や警備・整理などのために首都に動員されていた自由ドイツ青年同盟の若い衆たちでしょう。中国の紅衛兵ほどではなくても日が日だけに車掌もあまり触りたくないのだろうと思います。


[No.4981] 続・東ドイツ紀行 44  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/20(Thu) 06:47
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続・東ドイツ紀行 44  (1986年)
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 ポツダムはセンスある街

 ポツダム中央駅から街の中心地へは林のなかをくぐって電車でいく。この街は大都市ベルリンに隣接していながら林と湖にかこまれた小粋なリゾートタウンである。
 インターホテルポツダムはハーペル湖のはじっこにある堂々としたホテルである。(こんなに立派なホテルに泊めてくれとたのんだおぼえはない)。この街で必見のものといえばサンスーシー宮殿とツェツィーリエンホフである。
ところが、この時すでに閉館時刻の5時間近であった。朝方のんびり時間を消費したので遂にポツダム見物の時間がなくなったのだ。

 ここにも厳しい現実が

 とにかくより近いツエツィーリエンホフヘ急ぐ。赤レンガの門を入ってよく手入れされた新庭園のなかを15分近く歩くとやっとツェツィーリエン宮殿に着く。庭園は通路の両側に緑の木立がつづいており、そのまわりは芝生になっていた。右手には芝生のむこうにへイリンガー湖が光っている。木々では小鳥が歌をうたっている。途中の建物は兵器博物館だ。この辺りにはロシア兵がたくさんくつろいでいた。その少し先にツエツィーリエンホフがあった。
 ポツダム宣言により、その名を当時のすべての日本人に忘れることのできないものにしたポツダム会談のおこなわれた場所である。20世紀のはじめホーエンツォレルン家最後の王子であったウイルヘルムが住んでいた宮殿ときいていたが英国風の建物である。もう5時を過ぎているので内部の見学は出来なかったが建物は田舎の別荘のような作りになっておりむしろ質素な感じがする。あれから41年、OLの私がはるばる日本からこうして気軽に見物に来ていることを知ったら当時の米、英、ソの3首脳はなんと思っただろうか。
 宮殿を後にしてしばらくすすむと森のなかに湖に沿って金網が張ってある。掲示板があって「国境につき注意!」と各国語で書いてある。この先は西ベルリンなのである。
 そういえば、さっき手前にあった小高い丘は、こちら側から西を眺めるためのお立ち台であったのだ。オペラグラスをぶらさげた人たちがぞろぞろ降りてきたのは西側見物を済ませたひとたちだったのだ。また、そのすぐ先には米軍の駐屯地がある。(もし私の見間違いでなければ)。
 日本にいると戦後は遠くなりにけりの感があるがこの辺をうろうろしているとまだ、第二次世界大戦は終わっていないのではないかという錯覚に陥ってしまう。出口のすぐ脇にバス停があり丁度よくバスが待っていた。ホテルの近くまで5分ぐらいで着いた。


[No.4983] 続・東ドイツ紀行 最終回 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/22(Sat) 06:58
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 虹の終楽章

 ホテルに着くと、今回の旅行で4回目の夕だちになった。
 40分程で雨があがったので外に出てみた。ハーベル湖にかかる橋のうえに見事な虹がでていた。私にはこの虹が明朝、ここを離れる私へのこの国からの贈り物のように思えた。
 わずか6泊7日の短い滞在ではあったが本当に感じること、考えさせられることの多い旅であった。しかし、不勉強のため歴史的、社会的背景が理解できていないのでせっかくの文化遺産も、現実も消化できないことがあまりにも多かった。
 日本に帰ったら極力、時間を作って本を読もう。たとえば、ワイマール共和国のこと、ナチズムのこと、ヤルタ体制のこと、社会主義経済の現状など。よく勉強してからもう一度ここへきてみよう。 これが私のポツダム宣言である。
 (写真は、虹のかかるハーベル湖です)
 長文をお読みいただきありがとうございました。
 明日以降は、しばらく海外旅行記を離れます。引き続きよろしくお願い申し上げます。
 −−・完−−