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[No.4861] 東ドイツ紀行 1 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/01(Thu) 09:12
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 なぜ、東ドイツにいったか

 次に、どの旅行記をお読みいただこうかと迷っていたのですが、やっぱり「東ドイツ」にしました。もう既に存在しない国ですし、個人旅行の旅行記は少ないと思いますので。

 なぜ、東ドイツにいくことになったのか自分でもよくわからない。確かに、戦前生まれには馴染みの深い街、ベルリン、ポツダム、バッハゆかりの地ワイマール、ライプチッヒなどに心を惹かれたこともある。しかし、一番みたかったのは歴史ではない、「いま」の東ドイツであった。 もちろん、東欧諸国の旅はパッケージツアーのほうがなにかと便利とはわかっていながら、あえて個人旅行でいこうときめたのは、個人旅行のほうが「現実」をみるのにはいいと思ったからだった。
 なお、会えるかどうかは別として友人がここで暮らしていることも理由の一つでもあった。

 旅行情報をもとめて

 ふだん、海外旅行をするときはまず、ガイドブックなどでおおよその計画をたて、入口と出口にあたる空港、出発日、帰国日をきめて航空券の予約をする。ところが、今度の旅行はちょっと勝手がちがった。
 まず第一に、ガイドブックのたぐいが少ないのにびっくりした。非実用ガイドともいうべき、この国の歴史、文化などに関するする本はたくさんあるのに! 
 よく利用しているブルーガイドシリーズには東欧編はない。交通公社のほうはあることはあるが個人旅行者の役にはあまり立ちそうもない。
 舶来もののほうもミシュランは当然としても「$35 A DAY」シリーズにもない。ひとつ、「地球の歩き方」だけが多少なりとも実際に役にたつ東ヨーロッパ編をだしていた。愛用しているトマスクックの時刻表も東ドイツにはわずか6ページしかさいてくれていない。
 こうなると、たよりになるのは東ドイツ政府観光局ということになる。地下鉄の青山一丁目の近くの個人の家のようなマンションの3階にそのオフィスはあった。
 おずおずとベルを押すと中からてきぱきとした女性の声で「あいていますよ!どうぞ」という。初対面の印象はややきつそうな感じであったが、だんだんこのひとが親切でしかもかなり有能だということがわかってきた。「パンフレットは」。「ここにいろいろありますから好きなのを持っていってください」。「国鉄の時刻表は」。「これを見てください。でも、あっちへいけばキオスクで買えますよ」。「音楽会はやっていますか」。「当然です。ここに年間スケジュールがあります」。という具合にどんどん情報が手に入った。と同時にそれまで、この国に対して抱いていた「何となく近より難い国」という先入観が消えていった。パンフレットは主要観光地ごとに個別にあり、わかり易い、使い勝手のよいもので、これを見るとこの国が観光事業になみなみならぬ力を注いでいることが察せられる。

 (写真は、東ドイツ側のベルリン、ブランデンブルグ門です)


[No.4864] 東ドイツ紀行 2 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/02(Fri) 08:21
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 ビザをとる

 観光ビザで東ドイツにいくには、この国のライゼビューローに、滞在中に泊まるすべてのホテルの予約をしてバウチャーをもらい、パスポートにこれを添付してビザを申請しなければならない。一番簡単なのは、西ベルリンのいわゆる壁の穴で日帰りビザをもらい(これは簡単)、東ベルリンヘ行き、ここのアレキサンダー広場のライゼビューローでホテルの予約をし、このバウチャーを持って隣の警察へ行き滞在ビザに切り替えてもらうことのようだ。もちろん、ドイツ語・オンリー(東ドイツには英語の話せる人はあまりいない)。しかし、勤めのある身でゴールデン・ウイークを利用した旅。6泊7日で一つでも多く見てまわりたい私には、こんな時間の無駄づかいは許されない。
 日本でもやれることは極力済ませて行くことにして、ホテルとビザの手続きを懇意な個人旅行専門の業者に依頼した。(いきつけのエージェントに依頼すれば、いわゆる東欧との友好エージェントに取り次いでくれる。(このときは「Bunka Hoso Brains」現存しています)に依頼。

 ああ、アエロフロート

 はじめの計画では、東ベルリンから入り、ポツダムを経て南下、ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデンを経てプラハ経由帰国することを考えていた。そこで当然のごとく、一番便利なアエロフロートを申し込んだ。ところが、旅行会社のYさんがいうには、「東欧の諸都市の場合はノーマル運賃をとられることが多いんですよ」。とのこと。「だって、東京からならロンドンやパリよりベルリンやプラハのほうが、ずっと近いじゃないですか、どうして近いほうが高いんでしょうね」と首をひねる私。―――結局、Yさんの話などを総合すると、−−−アエロフロートすなわちソ連(いまのロシア)は外貨(西のお金)が「のど」から手がでるほどほしい。日本から西ヨーロッパヘいく人がJALやエールフランスなどに乗らないでアエロフロートに乗ってくれれば大いに有り難い。だからディスカウントしてお客をあつめる。しかし、東欧諸都市の場合は西の会社とは競合しない、いわば独占路線なのでディスカウントの要なしーーーーといった処らしい。なお、ディスカウントしてくれるときもあるが、これにも一定のルールがある訳でなく、すべてアエロフロート様の御意のままということらしい。
写真は、当時としても珍しかった「手書きの搭乗券」と「ホテル予約と列車の乗車券についてのバウチャー」


[No.4866] 東ドイツ紀行 3 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/03(Sat) 07:35
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 そうなれば、コースの変更で対応

 そうはさせない。こちらだって、そう甘くはない。そこで、急遽コースを変更、西ドイツのフランクフルトから入って列車でベブラを経て東ドイツに入り、アイゼナッハ、エルフルト、ワイマール、ドレスデン、ライブツィヒ、ポツダム、東ベルリンを経て西ベルリンヘ、ここから空路フランクフルト経由帰国することにした。こうしてみるとこれはこれでなかなかおもしろそうなコースである。問題は「西ベルリンへ乗り入れている飛行機」である。東西冷戦時代には、西ベルリンの空港を使用できたのは、イギリス、アメリカ合衆国、フランスの3ケ国の航空会社が運航する国際線のみ。ルフトハンザも、アエロフロートも飛ばせてもらえなかった。そうなると、こちらも帰路も列車に頼らざるをえない。
 冷戦とは、かくもややこしいものなのである。
 まあ、それはそれとして、エアーチケットとホテルの予約をした。なお、ホテルはいろいろな経験ができるように、超デラックス級からエコノミークラスまでとりまぜて予約してみた。

 長すぎた前奏曲

 申し込み手続きをしたのは出発予定日の一か月半前の三月十八日であった。ところが、ひと月たっても、さらに三十五日たってもなんの音沙汰もない。
 東ドイツ大使館のビザの受け付けは毎週火曜と木曜、受け付けて一週間後に交付される。しかもほどなくゴールデン・ウィークに入る。いささかあせった。旅行会社のYさんも心配してあちこち照会してくれた。一方、アエロフロートのほうも帰りの便がとれない。なんとも長くスリルに満ちた前奏曲であった。
 ところが、出発予定日を5日後にひかえた四月二十八日、突然、アエロフロートから予約オーケーの返事がきた。しかも、東ベルリン経由にてもディスカウントにて苦しからずとのご託宣があったので東ベルリンからまっすぐ帰国できることになりすべては解決した。追って、ホテルの予約も完了との通知もきた。態度激変である。

 (写真) 東ドイツの領土の周囲は、すべて立ち入り禁止です。 Grenzgebiet 国境地帯 


[No.4868] 東ドイツ紀行 4 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/04(Sun) 07:55
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 とびこんできた不協和音

 しかし、喜んでいる場合ではなかったのである。4月26日、未明に起こった「チェルノブイリ原発大事故」は、史上最悪の原発事故であった。(ただし、ソ連では、組織の末端から書記長へ上がってくる情報は「大した事故ではない」というものばかりだったようだ。ありがち!)最初はいつもの通り「そんな事実はない。西側諸国による悪質なデマである」で片付けようとしていたが、すぐに真相がわかり、世界中のメディアが大きく取り上げるようになっていた。(最初に気がついたのはノルウエーのようであった)。     
 こうなりゃ、ロシア・東欧方面へ旅行する人はガタ減り。フライトもホテルも予約がはいらず、キャンセルの依頼ばかり。当時の新聞を読んでいるとソ連や東欧はまるで永遠に人か住めないような話だったから。ふたりの兄も心配してかわるがわる電話してきて「トマトはよく洗ってたべろ、牛乳はポーランド製かどうかよくみてから飲め、雨が降ったらすぐ傘をさせ」などと忠告してくれた。
 しかし、冷静に考えてみればモスクワもベルリンもチェルノブイリから800km以上離れている。このあたりを5、6日うろうろしただけで健康に影響がでるのならユーラシア大陸は病人だらけになるはずである。なんとなくばかげているので気にせずにでかけることにした。

 写真は当時のイリューシン


[No.4871] 東ドイツ紀行 5 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/05(Mon) 06:41
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 さて、いよいよ出発

 5月3日(土)くもり、ときどき雨、うすら寒い

 長かった前奏曲もようやく終わり、いよいよ出発の日となった。心も軽く、荷物も軽く(折畳みナイロンバッグには洗面具、最小限の着替え、ショルダーバッグにはカメラと資料、合わせて2・5kg)家をでる。母が西鎌倉の駅まで送ってくれた。大船からは横須賀線・総武線直通の成田行き。

 成田空港27番ゲイトには、13時発SU588便のイリユーシン62Mが待っていた。例の写真でお馴染みの尾翼の下にエンジンを4つ付けた機体である。はじめて乗ってみたが内装はボーイングなどとほぼ同じようなものだ。

 なかは、20%ぐらいの入りでがらんとしている。チェルノブイリ事故の影響であろう。さて、機内食だが材料は成田仕込みながらメニューはロシア風。やっぱりチキンカツがでた。チキンフロートと異名をとるアエロフロートらしくていいのだがメニューに「キエフ風」とあるのが、時節柄一寸気になった。感心なことに、食事のときはかならずワインが一杯だけつく。お酒のお替わり有料。

 スチュアデスさんは美人でサービスも良好。というより、お客さんが少ないからサービスが行き届くのだ。日本の新聞、スポーツ新聞も置いている。さすが「フライデー」はなかった。「何か雑誌を」とお願いすると「今日のソ連」という広報誌を持ってきてくれた。

 映画・イヤホーンのサービスはないが、大部分のお客は、そんなサービスより運賃の安いのを望んでいるはずだ。少なくとも私はそうだ。今日はすいているので3つぐらいの座席を占領してのびのびと横になれた。かくして、モスクワ時間の17時30分、白樺の新線が目に染みるシェレメチエポ空港についた。

 (写真は、機内食のメニュー)


[No.4873] 東ドイツ紀行 6 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/06(Tue) 06:51
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 シェレメチエボ空港の忍耐

 今晩はここ、モスクワ空港でのトランジット泊ということになっている。どこの空港でも、翌朝まで乗り継ぎ便がないときはホテル代など先方もちで泊めてくれる。この制度を利用してヨーロッパの帰途かならずシンガポールやバンコクに寄り道して見聞を広めてくる人もいるとか。特に、アエロフロートは、アジアとヨーロッパの中継地としてモスクワトランジット泊を売り物にしているようだ。しかし、モスクワの場合は「少しの空き時間利用して市内見物」は難しい。

 ターミナルビルの案内標識にしたがって2階にあがってみるとまだ誰も来ていなかった。やがてぞろぞろ30人以上も集まってきた。結局、SU588便の乗客のほとんどがトランジットなのだ。ここには椅子のたぐいがないので立ったままで待つ。30分程してようやく制服の係員がやってきた。ヴォリュームのあるカラダが踵のやたらに細いハイヒールに辛うじて支えられているのが印象的なおばちゃんだった。
 何かいっている。どうやら行列の先頭は誰かときいている様子。本当は私が一番なのだがこんな場面では、奥ゆかしく人に先を譲り、何をどうするのかをよく確かめてからそれにしたがうのが無難なことは何度も経験ずみである。
 そこでわざと後ろのほうへ並んだ。

 ここでは、航空券を見せて乗り継ぎ客であることを確認する。(ここまではアエロフロートの受け持ち)次に、別のカウンターで仮ビザをもらってパスポートを預ける。ここからは、モスクワのトランジットの監督さんへの手に移される。(出入国管理の厳しいソ連でもトランジット泊にはビザを用意していく必要はない)。最後に翌日の出発便ごとに名前を確認してから空港ビルのそとに待機している送迎バスにのせてもらうことになる。しかし喜んではいけない。バスは他の便のお客も待つのである。

 結局、われわれを乗せたバスが空港を離れたのは、実に着陸の3時間後であった。これは、到着客名簿、行き先別乗客名簿、宿泊客名簿がすべて手書きなので記入漏れ、記入相違が何度も起きることによる。何度勘定しても客数が一致しない。すなわち事務疎漏なのである。さらに予定を変更したお客さんなどイレギュラーが発生すると、仕事を中断して別室の上司にお伺いをたてにいってしまうなど、めちゃめちゃ能率が悪いのである。また、手続きの説明をまえもってすることもしないのであった。
(写真は機内食のメニュー、外国人用です。(ほかにロシア語のものも用意してありました))


[No.4875] 東ドイツ紀行 7 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/07(Wed) 07:49
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 空港ホテルに泊まる

 ホテルは空港の敷地のすぐ外に聾えたっている。部屋はすべてバス、トイレつきのツイン。ただし、なかは相当安普請で床のリノリユームはぺこぺこしている。
 ホテルに着くと今度は部屋割りの番だ。これがまた難物である。宿泊客には私のような一人旅や、3人づれもすくなくない。ところが、部屋はすべてツインである。私は当然、日本人同士一緒の部屋にするものだとおもっていた。

 ところが、フロント嬢は国籍に関係なく名簿の順にどんどん部屋割りをはじめた。バスで一緒だったベルリンに留学するというお茶の水大の学生さんが初めての旅で心細そうにしていたので同室にしてほしいと申し出たが即座に「ニエット」と断られた。なぜか、ソ連のスタッフは、この言葉をいう時に実に嬉しそうな表情を見せる。
 私の相客は中年のドイツ人でシュツットガルトの住人。ルクセンブルグ経由モスクワに来た由。明日、ここからソマリアのモガジシオヘ行くそうだ。(遠まわりでもこのルートが一番安いとのこと)。とってもいい人でお風呂に先に入るように勧めてくれたりいろいろと気を遭ってくれた。

 さすがに疲れたので夕食もとらずベットにはいった。(後できいた話では抜かしても後悔するような内容ではなかった由)。
 トランジット泊のときは機内預けの荷物が出ないということを知らなかったので今・夜はパジャマもハブラシもない。まあいいや。一晩だもの。
 就寝中に時折「キーン」という鋭い飛行機の離発着音がする。
 
 このシリーズには写真が少ないというご意見もありますが、当時のソ連には、撮影禁止場所などもいろいろあり、やたらカメラを出していて「スパイ容疑」で監視されると面倒なのでカメラはしっかり閉まっておきました。東ドイツではたくさん写真を撮りましたのでご期待ください。


[No.4877] 東ドイツ紀行 8 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/08(Thu) 06:41
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 モスクワの朝

 5月4日(日)晴れ、午後暑くなる
 ピーピーというものすごいブザーの昔で目がさめた。飛行機の中とは違ってぐっすり眠れた。隣のベッドに寝ていたドイツ人が「あんたを起こしにきたらしいわよ」という。あわてて着替えて廊下にでてみると「支度をしてロビーに集合せよ」とのこと。ところでわざわざ起こしにこなくてもモーニングコールをやればよさそうなものだが、このホテルには電話がないのだ。内線だけではない、外線もないらしい。フロントの掲示に「当ホテルには電話はありません。緊急に外部と連絡が必要な際はテレックスをご利用ください。この場合、費用は当ホテルで負担します」。という意味のことがかいてある。首都の空港ホテルに電話かないのはこの国だけではあるまいか。なんといってもユニークな国である。しかし、分かるなぁ。電話だと盗聴しなければならない。テレックスならば記録が残るってわけなのですね。
 時計をみるとまだ6時20分だ。私の乗るフランクフルト行きは9時45分発のはず。なんだってこんなに早く起こすんだろう。いや待てよ、昨日、手続きに3時間かかっているんだから今日も同じくらいはかかるのだろうと一人で納得した。

 空港レストランの朝食

 今日は手続きがスムーズにいって8時ごろには完了した。
 さて、朝ごはんはどこで食べるのかなとおもっているとみんなぞろぞろ空港レストランに入っていく。例によってなんの説明も指示もない。ゆうに百人はすわれるこのレストランのテーブルの上は前の人たちの食べあとがそのままで従業員はだれもいない。30分待ってもいっこうに現れない。どうやら、奥の調理場で自分たちの朝ごはんをたべているようだ。さらに、30分ぐらいしてやっと現れ、ゆうゆうたるテンポでかたづけはじめた。メニューは、半熟卵、ハム、チーズ、トースト、ジャム、バター、コーヒーと堂々たるもので味もなかなかよろしい。ただ、コーヒーだけは、西側のコーヒーとは違う代用品であった。

 トランジット仲間

 昨日、今日と長い待ち時間を一緒に過ごしたトランジット仲間とすっかり親しくなった。学生など若い人が多く、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、デンマークなどあちこちからきている。運賃の安いアエロフロートがあって助かるといっていた。例のモスクワ式非能率についてもむしろ面白がっている。日本人も数人いたがみんな気のおけない連中だ。食事がやっとはじまりかけたころから、ヨーロッパ各地へいく便の搭乗案内がはじまった。早い便に乗る人は、ごはん食べかけでたっていった。どうにか食事がすんだころフランクフルト行きの案内があった。「アリベデルチ」 「ハヴアナイストリップ」とつかのまの同志に別れをつげ、SU255便(ツボレフ)の機上の人となった。面白いのは空港のアナウンス。ロシア語と英語のみ。チューリッヒはズーリュック。ミュンヘンはミューニック。ウィーンはヴィアナ。ドイツ語圏に留学する学生さんたちは「調子が狂う」と言っていた。


[No.4879] 東ドイツ紀行 9 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/09(Fri) 06:57
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 機内での反省

 定刻に離陸した255便は新緑の林に囲まれたシェレメチエボ垂港をたちまち箱庭にしてしまった。まもなく配られた機内食はとてもローカルカラーにあふれたものだった。縦に4つ切りにした大きくてややふやけたキュウリひときれ、まっくろな黒パン、レモン一片、バター、ワイン、そして親指の半分ほどのキャビア。少なくともアエロフロートでなければ味わえない献立である。なかなかおいしい。

 食べながら、いままでモスクワの悪口を言い過ぎたことを反省した。この一日、「待たされた」という点を除いてはなんの不都合もなかったのである。「待たせる」という不満も、悠久の大地に生きる大国民はせかせかしないからであって、極めて気ぜわしい国民性を持つ日本の、効率を最大の使命とするビジネス社会の、お客さまをお待たせしないことが最高のサービスと考えている銀行に長年勤めている人間が起こしたカルチュアショックに過ぎないのであろう。だいたい、空港ホテルに一泊するというのは、ソ連との付き合い方としてはもっとも不味い方法で、これでこの国を評価しては的はずれもはなはだしいはず。改めてゆっくりこの国のいいところを見に来ることにしょうとおもった。こんなことを考えているうちに255便は着陸態勢に入っていた。

  ガイガ一計数器の待つフランクフルト

 ところが、我らが搭乗機は、フランクフルトと上空を旋回していてなかなか着陸態勢に入らない。
 結局、空港から離れた草原のような所へ、着陸したようだった。
 やがて、タラップが取り付けられ、ドアがあき、乗客が降りはじめた。ところがいっこうに行列が先に進まない。私はいらいらしていた。一日一本しかない東ドイツ行きの列車は11時57分フランクフルト中央駅を発車する。乗り遅れたときは空港にとってかえし、パンナムで空路西ベルリンヘ行き、東ベルリン経由でエルフルトヘ行かねばならない。こうなるとエルフルトに着くのは夜8時を過ぎてしまう。
 2〜3人ずつ降りては2〜3分待つというようなテンポで行列はいっこうにはかどらない。それでも15分ほどでやっとタラップに出られた。ここでやっと待たせられた理由がわかった。アイロンのような器具を持った空港係員が乗客ひとりひとりのからだを調べている。我々は汚染地域のモスクワから到着したので放射能のチェックを受けなければ入国できないのだそうだ。私の順番がくると、にこにこしながら入念に体じゅうをガイガー計数管と思しき機器で検査し「オーライト」と言って空港バスのほうをさした。   
 無事、無罪放免となった人は、空港行きのバスに乗せてもらえる。
 まあ、あまり緊張感はなくお客も係員もふざけたりしていた。結局、全員異常がなかったらしくその場に残され人はいなかった。
 そうだったのだ。我々は原発事故の汚染区域から飛来してきた人間だったのである。


[No.4882] 東ドイツ紀行 10 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/10(Sat) 06:55
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東ドイツ紀行 10 (1986年)
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東ドイツ紀行 10

 効率的なフランクフルトの交通システム

 全員がフランクフルト空港のターミナルビルにはいったのは11時10分を少し過ぎた頃だった。一日一本しかない東ドイツ行きの列車は11時57分フランクフルト中央駅を発車する。もう駄目だろう、でも行くだけはいってみようと入国手続きを急いだ。ところが、パスポートコントロールはすいすいと通過でき、バッゲージクレイムにはすでに荷物がでていた。国電の空港地下駅はロビーの真下、電車は15分に一本ずつ出ていて、中央駅までは、わずか15分。駅ではピクトグラムにしたがって進むとすぐ切符売り場がみつかった。トマスクックの時刻表のなかのERFURTというところに赤ペンでアンダーラインをひいてみせると切符はすぐ買えた。ホームの表示も分かりやすく、目指す列車もすぐみつかった。
 列車は予想していたよりずっと混雑していた。なんとか空いているコンパートメントをみつけてすわって時計をみるとまだ発車まで6分あった。これぞドイツ的効率主義である。

 車内で親切な日本人に会う

 荷物を網棚にあげてほっと一息ついていると、「ああ、あいているとこがあるワ」という、まぎれもない日本語、しかも、関西弁が耳に飛び込んできた。と同時にダークスーツの中年の二人づれの日本人がコンパートメントに入ってきた。彼らはしげしげと私をみて「へえ、おたく日本の方ですか。どこ行かはるんですか。へえ、東ドイツヘお一人で。だいぶ変わった方ですな。まあ、おたくもつれがあってよかったワ。ひとりやったら心細いでしょう」と一息でしゃべった。きけば、彼らはエンジニアで技術提携しているライプツィヒ郊外の東ドイツの会社(ここでは人民所有企業というらしい)に技術指導のために滞在している由。典型的な日本のサラリーマンでゴルフやマージャン、パチンコ、縄のれんに縁のないこの国での暮らしは忍の一字のようだった。唯一の楽しみはアパートで乏しい材料をやりくりして日本食らしきものをつくって食べることにあるという。その日はたまたまメーデーで会社が三日間休みだったので西の空気を吸いに西ドイツのバーデンバーデンに出掛けた帰りとのこと。しかしわざわざ西に行ったのに、ぜんぜん日本人に会えなかったとがっかりしてこの列車に乗ったところ私がいたーーーということらしい。
(スパイの疑いなど掛けられないように、東ドイツ行きの列車の車内で写真を撮るのは遠慮した。写真は通過する「テューリンゲンの森」の初夏の様子です)


[No.4885] 東ドイツ紀行 11 (1986年)  投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/11(Sun) 08:00
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 列車は国境を越える

 発車して一時間半ほどたつと草原のむこうに牧場の柵にしてはちょっと高いかなと思うようなフェンスが延々と続いているのがみえた。エンジニアさんたちの話では、これぞ東との国境とのこと。もちろん、無理に通れば、ものすごい電気ショッで失神するという。 上手く逃げおおせても銃殺れる確率は高い、と聞いたことがある。
 しばらくして西ドイツの係官が巡ってきて形式的にパスポートをみていった。
 ベブラをでてほんのわずかでまた列車がとまった。外をみると駅で、ホームにはお稲荷さんの鳥居の幟のようにDDR(東ドイツ)の国旗がやたらめったらたっていた。これをみれば東ドイツに入ったということは よほどぼんやりしていてもわかる。しかし、車内には予想していたほどの緊張感はない。やがて各車両二人ずつ係官が乗ってきて車両の両側から挟み打ちにするようにパスポートチェックをはじめた。 
 ちょうど、駅弁売りのようにアタッシュケースのようなものを90度ひろげて首からぶらさげている。どうやら中にはスタンプ、スタンプパッド、ボールペンなど文房具がはいっているらしい。なるほど、これは名案だ。係官は特に愛想がいいということもないが冷たい感じでもなく、まあわが成田の出入国管理官殿とかわりない。エンジニアさんたちも、おなじコンパートメントの東ドイツの老夫婦もつつがなくチェックをおえた。税関らしき人はついに現れなかった。念のためほかの車両にもいってみたが私のみた範囲では荷物を調べられている人はいなかった。ただ網棚にあった西ドイツの新聞、雑誌などは持っていったようだ。(活字の持ち込みは禁じられている)。

 東ドイツという国はない

 いままで、東ドイツ、東ドイツといっていたが厳密にいうと東ドイツという国名は存在しない。この国は正確にはドイツ民主共和国と呼ぶのだそうだ。ちなみに西ドイツはドイツ連邦共和国というらしい。なんだか民主というと西側のイメージが強いし、連邦共和国というとソ連みたいでなんとなくまぎらわしい。やっぱり東ドイツのほうが分かりやすいのでこれからもそう呼ぶことにしたい。
 ついでに、東ベルリンという街の名前も正しくない。これは「ドイツ民主共和国の首都であるベルリン」と呼ぶのが正解。落語の「じゅげむ」みたいでとても付き合いきれない。
 更に、東ドイツを東欧諸国とするのも異論があるようだ。東ドイツ国鉄(ライヒエスバーンという極めて帝国主義的な呼びかたをする)の食堂車や駅の構内食堂を経営している、いわばこちらの日本食堂にあたる企業をミトローパというがここは地理的にも文化の面からもまさに、中欧であって東欧ではない。例えば、アイゼナッハは西経10度すれすれに位置している。ミュンへンやニュールンベルグ、イタリアの大部分より西に当たる。ここが東欧だとするとウィーンなどは極東といわねばならなくなる。
 文化的にも音楽、哲学などヨーロッパ文化の真髄がここから生まれており、まさにヨーロッパのなかのヨーロッパといえる。東欧というのは単に政治的な区分でしかない。しかし、この区分が当時のヨーロッパではなにものにも替えがたい極めて重い意味をもっているのでやむを得ず東欧と呼ばざるを得ない。


[No.4888] 東ドイツ紀行 12 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/12(Mon) 06:49
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 両替とため息

 他の東欧諸国と同じようにここでも車内を銀行の人が巡って両替をしてくれる。もちろん、西ドイツマルクと一対一の公定価格である。銀行屋さんを呼び止めて(あとで、知ったのですが、実際はこの国では「税関の人」が両替をしているのだそうです。両替をすることは、入国に際しての必要条件なのですね)
 さて、金額ですが、六日間、滞在するのだからどっちみち3方円は要るだろうと4百マルクを差し出した。すると、かたずをのんで事態を見守っていた東ドイツの老夫婦から悲鳴ともため息ともつかぬ声がもれた。エンジニアさんの通訳によると「大事な西のお金をそんなにあっさりと大量に両替するものではない。すこしずつ、足りなくなった都度両替をすべきだ」といっているとのこと。

 お気持ちは有り難いが私にも私の事情がある。
 わずか六日間であれもこれもみたい私には両替についやす時間こそもったいない。こういう国である以上、市内で両替してくれる場所を探すのも、手続きも面倒なことは容易に想像できる。
 しかし、せっかくのご意見なので100マルクヘらして3百マルクにした。日本円にして2万円ちょっとであった。それでもまだ老夫婦は不満そうであった。この3百マルクがどのくらい使いでがあるかこの時点での私は知らない。
 なお、東ドイツの名誉のために敢えて付言すると滞在中に一度もいわゆる「闇ドル買い」に声をかけられたことはなかった。

 写真は、もうすぐ到着する「エルフルト」の駅舎です。


[No.4890] 東ドイツ紀行 13 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/13(Tue) 06:55
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 コンパートメントのなかで

 エンジニアさんたちと一緒だったのでとても助かった。
 まず、東ドイツの老夫婦の通訳をしてくれたこと、それから、旅行者ではなかなかわからない東ドイツ事情、とくに日本人が知りたいと思うようなことをいろいろきかせてくれたこと、例えこの国の生活を楽しんでいない彼らの偏見がまじっていたにしてもやっぱりナマの生活者の実感は貴重である。以下の記録のなかで出てくるこの国の実情の多くのなかにはこのとききいたこともすくなくない。
 まず、老夫婦のことである。東ドイツでは男は六十五才、女は六十才になると西側への旅行が認められる。おそらくこの老夫婦もそのくちであろう。西へ必死で出たがるのは主として中年で老人連中は西に遊びにいってもまず、もどってくる。万一、もどってこなくても国家にとっての損失はない。働かないで年金をもらっている彼らは国家にとっての、いわば扶養家族なのだから。

 ただし、この国の外国為替管理は厳しいので西のマルクに替えられるのは一日わずか二千円程度とのこと。したがって万事物価の高い西では民宿に泊まることもままならない。やっぱり西に親戚でもなければ出掛けられないというのが実情のようだ。 この老夫婦はデュッセルドルフヘいった帰りとのこと。おじいさんは紙袋からウイスキーのビンをとりだしてはチビリチビリと飲む。そしてビンを光線に透かして「ああ、もうこんなに減っちゃった」というように笑っておばあさんのほうをみる。
 おばあさんは袋からバナナをとりだしておじいさんと半分ずつ食べる。そして残りをかぞえる。(5つ残っていた)。コメコン経済圏ではバナナの生産地は、キューバくらい。 街に出回るのはせいぜいクリスマスとメーデーぐらいとのこと。すなわちバナナは貴重品なのである。そのくせ、西ではバナナは至って安い。だから西へ行った人はよくおみやげにバナナを買ってくるのだそうだ。 おひとついかがですかとすすめてくれたがこれをきいたあとではとても受け取れない。「おなかが一杯なので」と断った。(なお、東西分離前を知っている年寄りとは違い、多くの子どもたちはバナナを知らない。たまに眼にしても気味悪がって食べなかったという話もある)
 また、おばあさんは網棚のカバンからお孫さんに頼まれて買ってきたというジーパンを出してみせてくれた。東ドイツでももちろん、ジーパンは売っている。しかし、お孫さんの意見では西の製品に較べてなんとなくダサイのだそうである。「孫が気にいってくれるといいのだけど」といいながらおばあさんは荷物を網棚にもどした。
 写真は、エルフルトの駅前広場です。


[No.4892] 東ドイツ紀行 14 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/14(Wed) 09:04
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 テューリンゲンの森

 40分ほどで列車は出発した。トンネルをでると窓の外は新緑の目にしみるような森である。まさにシェーネ・マイである。おじいさんとおばあさんはうなづきあって「さあ、テューリンゲンだよ」といっているらしい。この土地の人達のテューリンゲンに対する思い入れは激しいのだそうだ。列車はアイゼナッハに止まった。そとは雷鳴がして大粒の雨がふっている。今日は格別暑いので夕立がきたのだろう。おじいさんは「この土地では摂氏27度を越すとかならず夕立がくるのだ」という。すぐ話のなかに数字がでてくるところをみるとこのおじいさん、まぎれもなくドイツ人である。
 アイゼナッハは昔から軽井沢のように避暑地として知られたところだぞうだ。
 おじいさん、おばあさんとだんだんうちとけてきたころ、列車は今夜の宿泊地のエルフルトに定刻より10分遅れで到着した。

  ホテルエルフルターホフ

 駅の前は市民のいこいの場になっていて気のきいた街路灯とベンチがある。おりしも、仕事のひけどき(東ドイツでは終業時刻は4時)でたくさんの市民がこの広場でぶらぶらしていた。  
 ホテルは広場をはさんで駅のまん前にある。
 フロントでは若い娘さんがにこやかに応対してくれた。英語もひととおり話せるようだ。
 日本から持ってきたバウチャーを渡しパスポートをみせて部屋の鍵と朝食のクーポンを受け取れば手続きは完了する。
 外観はあまり目立たないが、なかはヨーロッパ風クラシック調で家具、調度のたぐいもなかなかシック、部屋も広い。特にバスルームは我が国のビジネスホテルのシングルルームそのものよりもはるかに大きい。さすがドイツでバスルームのタイルはピッカピッカだ。ただひとつ、ここが東欧であることを物語っているのはトイレットペイパーである。ただし、ソ連のよりはややましだ。もっとも、地球的視野で森林資源の保護を考えれば100%消耗品のペーパーに贅沢する日本こそ責められるべきかもしれない。


[No.4896] 東ドイツ紀行 15 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/15(Thu) 06:39
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 夕食は駅のセルフレストランで

 初日は無理をせず早寝することーーーという方針により夕食は一番近い駅のレストランで済ませることにした。駅にはいくつかレストランがあるらしいがまず手始めにセルフのレストランに行ってみた。隅のほうで観察しているとどうやら先に食券を買い、それぞれのコーナーヘいって食券と引き換えに料理をもらってくる仕組みらしいということがわかった。そこでビールと定食の食券を買うことにして食券売り場の行列に加わった。ここのお客は若い人、年寄り、外国人、とくにAA諸国の人が目だつ。要するに、あまりお金のある人のくるところではないようだ。私の番がきて壁に貼ってあるメニューを指で示すと、白衣をきたレジのおっさんがレシートをくれた。ただし定食のほうはカルトなんとかとヴアルムなんとかとどっちが欲しいのかとたずねられた。多分、コールド、ウオームのどちらかが選べるのだろうと見当をつけてヴアルムといった。
 
 ビールは50円、定食は200円ちょっとだった。ビールはタンクの蛇口から小ジョッキに一杯注いでくれる。定食はお皿に盛り付けてくれる。パンは2つでも3つでも好きなだけ持っていっていいらしい。これらをナイフ、フォークと一緒にお盆に乗せて空いているテーブルに持って行って食べる仕組み。早くいえば西側のセルフの店のまったくかわりない。

 みた目には少なくともあまり食欲をそそる料理ではない、盛り付けもいろどりもさえない。その上、フォーク、ナイフはペらペらでステーキなんか切ったら折れそうなしろものだ。量ばかりはやたらと多い。ところが食べてみたらこれが意外に美味しいのである。ハンバーグのきのこソースかけはきのこの香りがよくきいたいい味であったし、じゃがいもと玉ねぎのいためものもしっかり味がついていておいしい。キャベツとにんじんの酢づけもさっばりしていていい。気がつくと私のお皿のうえはからになっていた。相席の労働者風のおじいさんがしきりになにか話しかけてくれるのだが、いかんせんドイツ語がわからないので「ゼァ、グート」ぐらいしか相槌がうてない。

 写真は、市内の目抜き通り。整然としてはいるのですが、夕刻になっても、街路灯はつかない。暗い感じです。


[No.4898] 東ドイツ紀行 16 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/16(Fri) 09:18
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 よく写る西のテレビ

 夕食を終えて、ホテルにもどるとまだ7時だ。部屋にあったテレビをつけてみた。ニュースをやっている。キャスターは熟年の女性でいかにもオバチャンといった感じのひとだが、たんたんと語っている。チェルノブイリという言葉がきこえてくる。画面ではヨーロッパの地図に各地で測定された放射能の価が示されている。言葉はわからなくても何の話題か、およその見当はつく。これは西側からきている電波なのである。ほかのチャンネルにかえてみた。こちらは東ドイツの放送である。が、さっきの西からの放送のように画面が鮮明ではない。西のニュースは、チェルノブイリの話題につづいて東京サミットの話をしていた。天気予報では東西両ドイツの予報を公平に報じていた。

 先刻、車内で会ったエンジニアさんの話では東部の一部地域を除いた大部分の東ドイツで西のテレビ放送が視聴できるとのこと。特に西部地域では東ドイツの放送よりも鮮明に見えるといっていたがその通りであった。なんでも、西ベルリンに電波塔がありそこから強力な電波を送りだしているのだそうだ。当然、東ドイツ国民はこの西の番組をみている。だから、チェルノブイリのこともよく知っている。チェコやハンガリーでも西のテレビ番組は視聴できるらしいが、こうは行かない。
 西ベルリンのような飛地があるわけではないので、西との国境から遠いところまでは電波は届かない。そのうえ、また、すべての国民がドイツ語がわかるわけでもない。これをみても、東ドイツが東欧諸国のなかでも特異な立場にあるのがよくわかる。

  エンジニアさんもいっていたが東ドイツのひとたちはチェルノブイリのことをひそかに心配しているらしい。しかしポーランドのように声をあげてソ連を非難することはしない。
 電波は国境を越える。壁があっても地雷が埋めてあっても。ひとむかし前とは違い政府が情報操作をすることは難しくなってきている。 そのとき「もし今の東西分離の壁が壊れるとしたら、それは東ドイツからではないか。そして、その時期は、そんなに遠くないのではないか」と思った。
 (実際に3年後に崩壊した)

 ―――なにもかにも知っていながらこの国のひとは今後もだまっているのだろうか。そんなことを考えているうちに、いつしか眠ってしまった。


[No.4900] 東ドイツ紀行 17 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/17(Sat) 06:45
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 合理的な朝食クーポン券システム

 5月5日(月)晴れ、日中とても暑い

 さわやかにめざめた。支度をすませると早速、開店早々の食堂へ急ぐ。朝の早いこの国ではどこのホテルでも6時から食堂があいていて私のような朝型の人間にはおお助かりである。さすが、まだ誰もきていない。若いウエイトレスが手振りでお皿に好きなものをとってくるようにいっている。テーブルのうえには、チーズ、生ハム、鰊の酢漬け、ヨーグルト、バター、ジャムなどがこぎれいに並んでいる。

 これだけならどこの国にもあるビュッフェスタイル、日本式にいえばバイキングスタイルの朝食である。ここのユニークなところは、すべての料理に値札が付いていることである。一皿ごとにではない。ハム、鰊の一切れずつに、バターのひとかけらごとに、である。好きなものをとったらレジにもっていって計算をしてもらい8マルク以内なら朝食クーポン券を渡すだけで可、オーバーしたときは超過分をキャッシュで支払う。コーヒーだけはレジでその旨いっておけばあとから席までもってきてくれる。大概の料理は1マルクぐらいなので8マルクあればほぼ、欲しいものはそろう。コーヒーだけは高くてポット一杯2.7マルクもした。ただしここのコーヒーはモスクワのとは違って本当のコーヒーの味がする。量もたっぷりあった。パンは全粒粉を使ったやや黒いパンである。しかし、香ばしくてかみしめると味のあるパンだ。私のお皿をみたレジの人は「ダメ」といって食料品置き場にもどるよう指示する。なにがいけないのであろう。彼女は手振りで「もっととれ」と言っているようだ。要するに、8マルクに限りなく近い値段になるようにもっとお皿にとれ、と言っているらしい。パンとバター、ジャムを追加して合格した。でも、そんなに食べられるかしら、心配する。しかし、彼らの「やり方」をみて納得した。

 ここのホテルではお皿にものを残して席を立つひとはいない。残ったパンに残ったバターをぬりハムをはさんで持ってかえるひと、ポットに残ったコーヒーをジャーに入れて行くひとがたくさんいた。私も同じことをやった。「郷にいれば郷に従え」である。これがピクニックのお弁当になるのだ。一旦支払ったあとはいわば自分が買上げたものなので、せいせいどうどうとやっている。(逆に残せば「勿体無いこと」と非難されるかも?)。

 日本のホテルのパーティー会場などでお皿に残されたたくさんの料理をみていつも気になっていた私はこれをみてむしろすっとした。日本の「教養あるマダム」などが近くにいたら「まあ、なんとはしたないことを」と蔑まれたであろうが。

 なお、ドイツの食べ物はまずいときいていたが決してそうではない。生ハム、魚の酢づけなどとくにおいしい。あれだけの文化を築いた国なのだからおいしい料理がないわけはない。なにかの本でバルト海の魚料理、ロストックの生ハムが有名なことを読んだことがある。戦後の混乱期を経てまたこれが復活したのではなかろうか。しかし地元のひとたちがいつもこんなものを味わっているわけではなく外人観光客の泊まるインターホテルに優先的に割り当てられているにちがいない。


[No.4906] 東ドイツ紀行 18 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/18(Sun) 08:35
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 エルフルトの街を歩く

 朝のうちに街を歩いてみる。ちょうど通勤ラッシュで駅前はひとで一杯だ。みんな、こざっぱりした格好で出勤してくるがなぜかこの国の女性はハンドバッグを持っていない。袋をぶらさげているのだ。商品が十分出回っていないから、バッグが買えないからか、あるいは東欧圏特有の買いもの事情、買いたいものをみつけたときにただちに買えるよう買い物袋をもって歩く習慣になっているからか、共稼ぎのため帰りに夕食の材料を買って帰るためか。
 エルフルトはハンザ同盟都市として過去栄えた街でありその面影を今もやどしている。壮大な大聖堂が街の西側に聾えたっている。ドーム広場ではおりしも花市をやっていた。しかし、なんとも盛り上がらない市ではある。 いわゆる市(いち)につきものの熱気か感じられないのだ。
 朝だというのに、くすんだ暗い街なのであった。唯一、ランドセルを背負って学校へ行く子どもから「元気」を感じられたくらい。なにか、ひっそりとあたりを気にしながら暮らしている街、という感じを受けた。
 クレーマ一橋は朝もやのなかにひっそりとたたずんでいた。橋といっても通りのようなもので道の両側には商店もある。フィレンツェのベッキオ橋のような構造だ。ただし橋から受ける感じはまったく違う。
 あまり遅くなってもいけないので、ホテルまで市電でもどることにする。切符をあらかじめ買ってから乗るらしいのだがその近くには切符を売っていそうなところがない。
 私がきょろきょろしていると、うば車に赤ちゃんを乗せた若い女のひとがそっと切符を差し出した。あわててお金をもって追いかけたが、すでに反対側の電車に乗っていってしまったあとだった。電車に乗ると自分で切符を自動刻印機にいれてガシャツとやる、これは他のヨーロッパ諸国とおなじである。切符は6枚綴り50円であった。


[No.4909] 東ドイツ紀行 19 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/19(Mon) 08:15
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 タクシーはなかなか来ない

 ホテルをチェックアウトして駅にいく。今日はこれからアイゼナッハ、ワルトプルグ城にいくのだ。国鉄の乗車券は日本とおなじように自動販売機で買う。この自動販売機、自分の行き先の駅の4桁のコードを地図でみつけてテンキーでたたくと運賃がディスプレーに表示される。指示されたお金をいれると切符がでてくるというなかなか面倒なものだ。日本のように出発駅から280円区間というような考え方をすればずいぶん簡単なのに。しかも、自動販売機の背が高くて、飛び上がらないとキーが押せない。
ちょっとばかり苦労した。

 エルフルトからアイゼナッハまでは50分程。駅のコインロッカーに荷物をあずけて身軽になる。ワルトブルグ城までは駅から40分、坂道をのぼって行くのだという。往復歩くのでは大変なので片道はタクシーに乗ることにした。それにこの国のタクシーにも一度乗ってみたいし。

 タクシー乗り場はすぐ見つかった。3、4人しか並んでいない。しかし、一台来たあと20分ぐらいまったくやって来ない。 並んでいる市民には一向いらいらしている様子はない。
 いつもこんなものなのだろう。街には乗用車もあまりみかけない。たまにみかけるとやっぱりソ連製のラダーが多く、チェコ製のシコダがそれに次ぐ。
 かの有名な「ワルトブルグは」一体どこを走っているのだろう。

 20分置きに一台ずつしか来ないので私の番がきたのは並んでから70分近くたった頃だった。まだまだこの国にはタクシーは少ないのであろう。
 (もしかすると、この町には、タクシーは一台しかないのかもしれない)。
 「シュロス・ワルトブルグ」というとタクシーは走りだした。車の少ないこの国では交通渋滞はめったにない。5、6分もすると車は緑したたる山道にはいった。お城より500メートル程手前でタクシーは止まった。  ここから先は一般の車は入れないようだ。環境保全のためだろうか。タクシー代は400円ぐらい、チップをすこしのせて渡すと「グーテライゼ」といってドアを開けてくれた。


[No.4913] 東ドイツ紀行 20 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/20(Tue) 08:07
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  美しい自然、美しいお城

 ここから山道を15分ほど歩くとお城につく。いま、まさに、シェーネ・マイでありテューリンゲンの山やまは新緑が目にしみるような美しさだ。小鳥の声も楽しげだ。美しいのは自然ばかりではない。
 まず、観光地につきもののゴミがほとんど目につかない。それから風景美をめちゃめちゃにする、あの俗悪な広告、看板のたぐいがない。
 ワルトプルグ城は小高い山のうえに建てられているのでここからの眺めはすばらしい。テューリンゲンの野山が浅みどりに包まれて拙い筆ではとうてい表現できないほど美しかった。私はいつまでもあかずにテューリンゲンの春を満喫していた。これをみただけでもはるばる東ドイツまでやってきた値打ちはある。
 お城は900年以上もまえにたてられたもので、どっしりとしたダイナミックな山城だ。いかにもドイツらしい重量感が感じられる。何度も増改築をかさねているらしいが、そういう不自然さはない。2時から専門のガイドによる案内があるというので入場券を買って入り口にならんだ。

 ガイド付きのお城見物

 2時ぴったりにガイドが現れた。ジーパンにティーシャツ、その上にヤッケをはおっている。30すぎのやせたインテリ風の男のひとである。切符をみせると「ダンケシェーン」といってなかに案内してくれた。 
 30人ほどの見物客は家族ずれ、老人クラブなど雑多なひとびとであるがみんな至極お行儀がよい。どうやら外国人は私だけらしい。
 案内は当然のことながらすべてドイツ語で、これも当然のことながら私にはさっばりわからない。みんな、熱心にきいている。ときどきげらげら笑っているのであまり堅い話ばかりでもなさそうだ。
 リヒヤルトワグナーの「タンホイザー」の舞台となったモザイクの間、マルチンルッターが新約聖書のドイツ語訳を完成させたルッターの居間、壁には、歌合戦やエリザベート伝説を題材にしたフレスコ画がえがかれている。部屋数だけでも大変なもので、これをひとつひとつ丁寧に案内してくれる。とに角、奥から中世の騎士が現れても、吟遊詩人がたて琴をかかえてでてきても一寸もおかしくない雰囲気のお城だ。一言葉なんかわからなくっても、すこしも退屈しない。


[No.4914] Re: 東ドイツ紀行 20 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/20(Tue) 08:09
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Re: 東ドイツ紀行 20 (1986年)
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 写真は入場券。紙質はよくないのですが、デザインはいいですね。


[No.4917] 東ドイツ紀行 21 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/21(Wed) 07:03
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 行きとどいた市民社会システム

 案内が始まって5分ぐらいたった頃である。老人クラブのおばあさんのひとりがその場にふらふらとしやがみこんでしまった。顔色が悪い。このところの暑さで暑気当たりでもしたのであろうか。おばあさんには悪いけどこんな場合この国のひとびとがどう対応するかちょっと興味があった。
 それとなく観察しいると、まず、すぐ近くにいた若い男性と家族ずれのご一行さまのうちのパパがおばあさんを抱き抱えようとした。ところがうまくいかない。
 重すぎるのである。すぐ、もうひとり手を貸した。案内人はただちに話をやめてこの一隊を誘導して事務室に連れていく。若い女性がおばあさんの荷物をもってついていく。ちょうど、足もとにおばあさんの靴がころがってきたのでそれをもって私もあとにつづいた。おばあさんの仲間のひとりもあとを追う。事務室の脇に小さい部屋があって、ついたての奥にべッドがひとつある。清潔なシーツで覆われており、花柄の毛布がのっている。みんなでおばあさんをここにねかせた。案内人は事務所のひとにおばあさんの世話を引き継ぐとおばあさんの仲間だけをそこに残してみんなとお城のなかにもどった。そしてなにごともなかったようにフレスコ画の説明をつづけた。

 なるほど!と感心した。高齢者にとって住みよい社会とは、行きとどいた福祉とは、単に老齢年金が多いとか、医療費の心配がいらないとかいうことだけが条件ではないのではなかろうか。(当然それは必要条件ではあるが)。市民全体で自然な形でこういう人をサポートしていくこと、これが伴ってはじめていえることだとつくづくおもった。
 もうひとつ、わが国の松島や二条城にもこの見学者用の休養室のような救護施設が整備されているのであろうか。
 あらためて考えさせられてしまった。


[No.4919] 東ドイツ紀行 22 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/22(Thu) 08:11
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 帰路はハイキングで

 1時間たっぷりのお城見物をおえて、帰りはみどりの山道をぶらぶらと駅まで歩いた。樹の幹にX印がついていてそれが道しるべになっている。登ってくるひとに行き合うと笑顔で「グーテンターク」と挨拶をする、そのひとなつこさがなんともいえない。
 あとで友人から聞いた話では、X印はまさに道しるべ、ハイキングのルート・マークとのこと。ルートの一つ一つに丸やら三角やら四角やら特有の色のペンキでマークをつけてハイキングやトレッキングの道しるべにしている。後年の日本の自然遊歩道にも同じ趣向で道案内を作ったところがあるようだ。
 途中、小川に丸木橋があり、渡るのに苦労した。歩いて渡るとバランスを崩して転びそう。
 靴と靴下を脱いで手に持って浅いところを渡り、渡り終わったら、足を乾かして再び、靴下と靴を履く。 
 家族連れの人たちが、笑いながら手を降っていた。

 途中、バッハ・ハウスに寄る。ヨハン・セバスチャン・バッハの生家の隣の家で当時の楽器やバッハの手書きの楽譜などが展示してある。たしか、この日は、バッハ・ハウスは臨時休業で、内部には入れなかったと記憶している。しかし、晩春の花にいろどられた庭や、周辺の風景が「バッハの音楽の原風景」のように感じられた。なぜかエトランゼの私にも懐かしかった。そして、このあと、私は、ワイマール、ライプツィヒとバッハ縁の地を訪れることになる。
 というわけで、テューリンゲンの春を思いっきり楽しんだあと、17時05分アイゼナッハ発で今夜の宿泊地ワイマールヘ向った。