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[No.1297]
ヒマツブシ(俺の戦争 其の3)
投稿者:BUP
投稿日:2010/09/10(Fri) 12:55
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[No.1296]
Re: ヒマツブシ(俺の戦争 其の2)
投稿者:
投稿日:2010/09/09(Thu) 22:07
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BUP先輩、ヒマツブシを毎回とっても興味・関心をもって読ませて頂いており
少年時代、熱血愛国少年で少年飛行兵の試験を受けるために 5桁の数字がパッパッパッ
と出るのを覚えたり、両手両足を使っての器機操作など練習に通っていた者です。
生まれは昭和7年9月11日 上記は小学校5、6年の担当の先生が 生徒に吉田松陰の
思想・行動をひたすら殉国と安易に教えた結果です。げに教育の影響・効果は恐ろしき
かなです。
倶楽部の名簿には 貴兄の生年月日の記入が無く、確か大正の最後15年(昭和元年)
だと推定しており、7歳年上と思っておりますが、、、
さて前回の発言の下記引用
>第二南遣艦隊の根拠地セレベス島のマカッサルに空路、到着したのが昭和17年8月のことであります。
私は西宮小学校4年、満10歳になる寸前です。年の差は7年?です。
また(その2)の下記引用
>さて、帝国海軍は昭和17年(1942年)6月のミッドウエイ海戦で主力空母4隻とその艦載>機を一挙に失い、それに代り豪北(豪州の北の意味)の島々に滑走路一本の航空基地を>設営、作戦の継続>を余儀なくされました。
>其の全てを、17歳になる直前の俺にやらせたのですから、帝国海軍の考え方が、今もっ>て俺には・・・ワカリマセン。
「俺は」 云々での書き方 とっても親しみをもって読ませて頂いています。また ございますと丁寧な文章で感心させられています。
戦況の把握や、地域の軍隊の配置などのお詳しいのには驚かされます。
「17歳になる直前」は、満年齢でしょうか?
> 「伏見博英海軍大尉ケンダリー発マサッカル行きの飛行機に搭乗中、昭和18年8月21日に撃墜されて戦死」(数少ない皇族の戦死者の一人で、検索で沢山出てきます)迄は・・・。
これは翌年、私メ5年生の満11歳になる一ヶ月前です。
愛国少年の私は、同学年の者の中で 地理が得意、特に南方戦線に我が軍が展開する
地域、島々は殆ど頭に入っておりました。
その後 内地の19年、20年の爆撃は、殆どがB29 一トン爆弾か 焼夷弾でした。
わが家は阪急電車 夙川、通ってたのは旧制兵庫県立芦屋中学でした。
家は阪急の線路に等間隔で落とされる1トン爆弾の為、壁が落ち 至近家屋まで焼夷弾
で延焼、おまけに警戒警報(空襲警報で無く)で学校から近道で1間道路 溜池横の
道路で機銃掃射にあい(敵さんの顔が見えました)、道の端から池にパッパッパッと銃弾が、、長屋が並んだ側に蹲り 反対から撃って来た 残り弾で遊びの敵が旋回して来れば丸見えで死んでたでしょう。川原を通った仲間が沢山撃たれて死にました。
で、何んと昭和20年6月 縁故疎開で石川県金沢近郊の松任町へ疎開しました。
ちょっと時期や生々し体験など ずれた話を長々と 述べ申し訳ありません。
先の戦争は比較すれば前線・戦地センチの兵隊さんの方が大変な被害、死傷者が出ましたが、内地の都会暮らしの者たちも 沖縄・広島・長崎、例えば3月10日の東京のように激甚なる被害に会い、戦後の暮らしも餓死寸前と大変だった その代表的人間の一人だと思っています。
ヒマツブシ 今後とも大いに期待しています。
> 任務終了すれば、後は用は御座いませんので、マカッサル市街地の「宿舎」に帰ります。
> 其の用と言うのが、アマリ無いのです、一週間に、二、三度しか御座いませんので、アトはヒマ、宿舎でゴロゴロして遊んでました。
>
> 其の零式輸送機には俺の親友が乗ってました。
> 其の当時の、俺のコールサインはカタカナの「ヤンラ」、離陸して間もなく、正常に離陸マカッサルに向かうと連絡があり、ノンビリと受信機の前に座ってました。
> 突然「ヤンラ ヤンラ ・・・」と呼ぶモールス符号が聴こえて、後は何の連絡もなく通信が途絶しました。
> その時、敵機B-24に遭遇したのです。
> 到着予定時間になっても、着陸して来る気配はなく、日が暮れました。
> 翌日になり、撃墜されたとの連絡が、陸上捜索部隊より入りました。
> 根拠地隊の司令部より参謀が、俺の仕事場に来て、怒鳴り散らして帰りました。
> 俺の運命は、此処に極まり、間もなく、南西方面艦隊、航空輸送部への移動の命令を受けました。
> 敵機がウヨウヨ飛んでいる、珊瑚海、ニューギニアへの飛ぶ、ボロ輸送機の搭乗員にされてしまいました。(邪魔だから早く死ねとの命令と受け止めました)
> 輸送経路図の画像を載せました。
> こんな仕事を終戦までやらされていたのです。
>
> 本当は、マカッサルでの楽しかった”戦場のクリスマス”のオハナシでも書こうと思いましたが、暑さが急に緩んで涼しい風が吹き込んできましたので、こんなつまらないハナシになってしまいました。
> 次は、彼女と一緒に防空壕に入ったお話でも・・・。
> 突然、話題が変わり申し訳け御座いませんがぁ、オランダ語で、 Ik hou van jou.(イック ハウ ファン ヤウ)の意味、此の年になるまで知らなかったのです。
> 此の”イック ハウ ファン ヤウ”って言葉が俺の脳の片隅に65年間くらい眠ってましたが、先日、フト思いだして Google で検索したんです。
> あの時知ってればなぁ〜・・・、運命が変わっていたカモネ。
> 長いヒマツブシで失礼を致しました。
[No.1295]
ヒマツブシ(俺の戦争 其の2)
投稿者:BUP
投稿日:2010/09/09(Thu) 16:05
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[No.1294]
ヒマツブシ(俺の戦争 其の1)
投稿者:
投稿日:2010/09/01(Wed) 18:49
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画像サイズ: 642×608 (56kB)残暑お見舞い申し上げます。
例により、ヒマツブシです、御読み捨て下さい。
此の夏の暑さは、記録的と言われてますが、俺も戦争で昭和17年から21年まで、南の島に居りましたが、あっちの方がズーット過し易いと、想い出している、今日この頃であります。
特にセレベス島のマカッサルと言う港町にいたときは、夕方になると涼しい海風が吹いて、夜中は毛布を被って寝てました。
此処の海岸(ロサリビーチ)の出ているサイトが御座います。 ↓
ロサリ海岸の夕陽
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/up/sunset.html
此処の夕陽は「東洋一」と言われておりました(もっともマニラ湾の夕陽も同じように言われてましたが)
此処に載せた、俺の作った拙い地図をご参照下さい。
「宿舎」って書いてある家で寝てました。
此の絵の左上に「プール」と「海岸の喫茶店」って書いてあるのが見えると思います。
此のプールで泳いだあと、此の喫茶店の籐椅子で「レモナーデ」などを頂きながら夕陽を眺めるのです(午後6時頃)。
何処かに「レモナーデ」って書いたら「レモナード」の間違いでは、と言われたことが御座いましたが、当時は300年のオランダの統治下、オランダ語が一般に使われていたのです。
此の「海岸の喫茶店」のことは ↓ の画像をご覧下さい。
海岸の喫茶店
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/makassar1942.html
此の姉妹は、俺のガールフレンド、インドネシア語でオシャベリをしてました。
昭和18年に入り、豪州からのB-24の空襲が激しくなり、あるときの空襲で、港の岸壁付近で密集していた人たちに爆弾が落ちて、多数の犠牲者が出ました。
遺体の処理にプールを使用したあと、プールは閉鎖されました。
喫茶店も閉鎖されました。
あとから噂で聞いたのですが、喫茶店主の中国人系の現地人がスパイだったとか。
真偽の程は不明です。
宿舎と書いてある家から海岸に向かう道路は綺麗に舗装されて居り、子供たちがローラースケートで遊んでおりました。
俺もガキの頃、ローラースケートで遊んでましたので、やりたくなり、子供さんに、何処で売ってるの?って聞いたら、港の付近の中華商店街の店で買えるそうで、早速、買い求め、子供さんたちと一緒に滑ることにしました。
(もっとも、俺も子供だったけれどネ)
言葉は通じるものですよ、一緒に遊んでいるうちに上達しました。
インドネシア語です、もっとも当時はマレー語って言ってましたが。
「宿舎」の隣に「W」って書いてある家が見えると思います。
俺のスケート友達、小学生のジョニー君の家です。
草臥れたので、又 アトでね。 (午前中はプールで泳いでましたので)
(こんなこと書いてると、オマエ本当に戦争に行ったのか?って言われそうなんで、弱ってます)
[No.1292]
Re: ヒマツブシ(水泳 その2)
投稿者:ブーゲンビリア
投稿日:2010/08/28(Sat) 12:20
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BUP様
ブーゲンビリアの写真の掲載までありがとうございました。
まるで南方の景色と見紛うような、見事な咲きっぷりですね。
私の家にある鉢植えのブーゲンビリアも、例年ですと梅雨時に満開となって終わりなのですが、
今年はこの湿気たっぷりの猛暑のせいで二度咲きしてびっくりです。
花言葉である「秘めた想い」がぴったりの、何とも言えない真紅色をしています。
戦場での体験談、とても興味深く読みました。
どんな戦記本を読むより、貴重な記録、証言だと私は思います。
> 俺は、コナミのプールで泳ぐとき、何時もこれを想い出しているんですよ。
はたからは判らないけれど、きっと生きている折々に、ふっと戦地での出来事を思い出しているものなんでしょうね。思い出しても、決して口には出さずに。
父にもきっとたくさん、たくさんあったんだろうなあと思いました。
[No.1291]
Re: ヒマツブシ(水泳 その2)
投稿者:BUP
投稿日:2010/08/26(Thu) 19:37
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[No.1290]
Re: ヒマツブシ(水泳)
投稿者:BUP
投稿日:2010/08/26(Thu) 16:31
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[No.1289]
Re: ヒマツブシ(雑巾掛け)
投稿者:
投稿日:2010/08/26(Thu) 12:00
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BUP様
こんにちは。
以前、父が通っていた目黒無線電信講習所の件で教えをいただいて以来、時々訪問しては、父と同年代の戦場体験者の方のお話を楽しみに読ませていただいております。(ただ読んでいるだけで申し訳ありません。)
先日の終戦記念日の話も、この雑巾がけの話も、とても心に染み入るお話で、何度も繰り返し読みました。
私の父は、アイロンかけや靴磨きが得意で、家族のものを一手に引き受けていました。何か壊れても、器用に自分で家の中にあるものを使って直し、何でもボロボロになるまで使っていたのは、兵隊生活やジャングルでの暮らし、また無線通信兵だったことも影響しているのかなと思ったりします。
> 又、ヒマツブシの戦争記録でもやらせて頂きます。
> 私が書くと、戦争をしていたのか、観光に行っていたのか分からなくなるので、不安ですよ
そういう雰囲気がとってもいいんです。ぜひ、フリートークでこれからもお願いいたします。
[No.1288]
ヒマツブシ(雑巾掛け)
投稿者:BUP
投稿日:2010/08/24(Tue) 11:21
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[No.1287]
Re: ヒマツブシ(終戦記念日)
投稿者:YKOMA
投稿日:2010/08/19(Thu) 08:48
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BUPさん
> 熱帯地域で4年ほど過し、戦後も何回か訪れましたが、暑いと思った記憶がないのです。
おや、熱帯といえどもそうですか。
まったく、この頃の世の中は、なにもかもメリハリっちゅうもんがなくなってしまった。
年寄りだけが長生きして何になるのでしょうねえ。
おやおや、愚痴になってしまったかな。
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