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 旅行記   2015.1.1更新

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  • [No.5830] Re: 森鴎外・夏目漱石住宅 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/23(Thu) 05:41
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    画像サイズ: 582×372 (26kB)
    >  森鴎外・夏目漱石住宅 です。

    > なんと、この家に
    > 時期は違うが、森鴎外と夏目漱石が住んでいたことがあるのです。

    森鴎外
     明治21(1888)年 26歳
     7月ベルリンを出発してロンドン、パリを経由して9月帰国。

     明治22(1889)年 27歳
     3月海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。
     夏に根岸から下谷区上野花園町11番地に住む。
      (この家は、池之端3丁目の水月ホテル鴎外荘に保存されています)

     明治23(1890)年 28歳
     9月長男於菟(おと)生まれる。妻登志子と離婚。
     10月本郷駒込千駄木町57番地に転居。
       この家は後に夏目漱石も住んだ家で、現在明治村にあるわけです。


    夏目漱石は
    1902年(明治35年)9月にロンドンを訪れた友人たちの間に
    「夏目発狂」の噂が流れ、文部省もほおっておけず、漱石は急遽帰国を命じられ、
    同年12月5日にロンドンを発つことになります。

    (偶然ですが)帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、
    精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したそうです。
      (斎藤紀一の娘婿が斎藤茂吉で、孫にあたるのが斎藤茂太や北杜夫ですね)

    漱石は英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地に転入します(現在は日本医科大学同窓会館、敷地内に記念碑があります)。

    東京帝大では小泉八雲の後任として学生を教えることになったが、
    学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評でした。
    また、当時の一高での生徒の中に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺したのです。
     漱石は自分の厳しい言葉が藤村を自殺に追いやったのかと悩みます。

    こうして日本に帰って来ても漱石を苦しめることが続き、神経衰弱に悩むのです。

    そして、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆します。

    明治村にある漱石の家にある日迷い込んできた猫
    その猫をモデルに書いた「吾輩は猫である」
    まことに、漱石の妻のいうとおり、幸運をもたらす猫だったのです。


    ドイツで元気に留学生活を送った森鴎外に対し
    ロンドンで精神病におちいったと言われる夏目漱石

    この二人の対比される留学に対して
    片方(鴎外)は若い時の留学であるのに対し、もう片方(漱石)は37歳でロンドンに渡ったという違い
     (鴎外の若い柔軟なときの楽しいドイツ留学に対し、ある程度人生観もできていた漱石はなかなかロンドンの生活にとけこみにくかっのではないか)
    あるいは
    片方は医学という実学なので成果は目に見えるが、もう片方は文学というなかなか成果の見えない世界(虚学)だったから
    などと分析する議論があります。

    ロンドンで苦しんだ漱石は、英文学では得られなかった日本文学のあり方を
    日本に帰ってから必死に求め、苦しみながら、日本の文学界をリードする成果を上げるのです。

    イギリス留学は漱石に何の成果も上げなかった
    だから、日本に帰ってから漱石は苦しみながら独自の文学の世界を創造した
    イギリス留学は作家漱石にとって、日本の文学にとって必要なものであった
    そう分析する人もいます。


    [No.5829] 森鴎外・夏目漱石住宅 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/23(Thu) 05:09
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    画像サイズ: 574×259 (61kB)
     森鴎外・夏目漱石住宅 です。

    なんと、この家に
    時期は違うが、森鴎外と夏目漱石が住んでいたことがあるのです。

    この建物は、明治20(1887)年頃
    医学士中島襄吉の新居として建てられたものですが、
    空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借りて、一年余りを過ごしました。

    そして、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいたのでした。


    [No.5828] Re: 聖ヨハネ教会堂 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/21(Tue) 05:12
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    画像サイズ: 320×240 (18kB)

    > ロマネスクとゴシックの違い 最初はよくわからなかったが、
    > ロマネスクは半円アーチで、ゴシックは先頭アーチだから、明確に違いがあるのです。
    >   (半円アーチよりも尖頭アーチの方が力の作用線にアーチの形態が近いから合理的である)

    > そういう知識で見ると
    > この教会は、そもそも石で造っていない、木造なので自由に形状を選べる。
    > 鉄でつくったアーチ部など、明治の大工が苦労したのだろうと思うのです。

    明治の建築は
    西洋建築を見よう見まねで
    日本につくっていった大工たちの苦労がしのばれます。


    [No.5827] 聖ヨハネ教会堂 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/21(Tue) 05:07
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    画像サイズ: 480×447 (54kB)
    京都市にあった
     聖ヨハネ教会堂です。

    京都市下京区河原町通五條
    明治40(1907)年に建設されました。

    プロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会

    解説を読むと
    ヨーロッパのロマネスク様式を基調に
    細部にゴシックのデザインを交えた外観
    など説明があります。

    ロマネスクなら厚い壁で,がっしりしているが中は(普通は)暗い。

    ゴシック教会は窓が多くて明るい。

    ロマネスクとゴシックの違い 最初はよくわからなかったが、
    ロマネスクは半円アーチで、ゴシックは先頭アーチだから、明確に違いがあるのです。
      (半円アーチよりも尖頭アーチの方が力の作用線にアーチの形態が近いから合理的である)

    そういう知識で見ると
    この教会は、そもそも石で造っていない、木造なので自由に形状を選べる。
    鉄でつくったアーチ部など、明治の大工が苦労したのだろうと思うのです。


    [No.5826] Re: 三重県庁舎 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/19(Sun) 15:59
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    画像サイズ: 512×384 (26kB)
    > これは三重県庁舎です。

    立派な建物でした。


    [No.5825] 三重県庁舎 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/19(Sun) 15:58
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    画像サイズ: 636×396 (79kB)
    これは三重県庁舎です。

    県令岩村定高により計画され、明治12(1879)年に完成。
    設計者は大工清水義八です。


    [No.5824] Re: 明治村 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/17(Fri) 05:15
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    画像サイズ: 566×386 (54kB)
    神戸市にあった大井牛肉店です。

    明治20(1887)年ころ
    牛肉販売と牛鍋の店として建てたものです。

    ここで、牛鍋を食べることができます。 文明開化の味


    [No.5823] Re: 明治村 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/15(Wed) 04:43
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    画像サイズ: 512×384 (51kB)
    > 明治村はなかなか見所も多く、明治の建築や鉄道や電車など
    > 当時の文化や日本の技術レベルをふりかえる勉強にもなります。

    >  正門(第八高等学校正門)

    その脇の入口から入ります。

    ちょうど
    明治萬国博覧会という企画展を開催していました。


    [No.5822] 明治村 投稿者:男爵  投稿日:2018/08/13(Mon) 17:02
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    画像サイズ: 618×370 (58kB)
    明治村には何度か行ったのです。

    いまから十数年前の夏
    鹿児島で学会があり、台風が近づいてきたので
    学会は最終日の行事をとりやめ
    参加者は飛行機の飛ぶうち、できるだけ早くお帰りくださいという配慮でした。

    そこで
    鹿児島の帰りに名古屋で一泊して
    明治村を見学したのでした。

    明治村はなかなか見所も多く、明治の建築や鉄道や電車など
    当時の文化や日本の技術レベルをふりかえる勉強にもなります。

    まず
    入口です。
     正門(第八高等学校正門)


    [No.5821] Re: ふたたび神田川の橋 投稿者:男爵  投稿日:2018/07/07(Sat) 05:19
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    > > 神田ふれあい橋です。

    > そばを新幹線が走ります。

    JR東北新幹線の工事用の橋でしたが、地元の要望により工事完了後も撤去しないで、平成元年(1989)4月から歩道橋として供用されています。


     神田川の橋の地図
    http://www.djq.jp/map_liblary/river_kanda/tokyo_map_kanda146_fureai.html

    さて
    ひとまずこのシリーズは終了です。

    長い間、見ていただきましてありがとうございます。


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