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 旅行記   2015.1.1更新

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  • [No.4898] 東ドイツ紀行 16 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/16(Fri) 09:18
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     よく写る西のテレビ

     夕食を終えて、ホテルにもどるとまだ7時だ。部屋にあったテレビをつけてみた。ニュースをやっている。キャスターは熟年の女性でいかにもオバチャンといった感じのひとだが、たんたんと語っている。チェルノブイリという言葉がきこえてくる。画面ではヨーロッパの地図に各地で測定された放射能の価が示されている。言葉はわからなくても何の話題か、およその見当はつく。これは西側からきている電波なのである。ほかのチャンネルにかえてみた。こちらは東ドイツの放送である。が、さっきの西からの放送のように画面が鮮明ではない。西のニュースは、チェルノブイリの話題につづいて東京サミットの話をしていた。天気予報では東西両ドイツの予報を公平に報じていた。

     先刻、車内で会ったエンジニアさんの話では東部の一部地域を除いた大部分の東ドイツで西のテレビ放送が視聴できるとのこと。特に西部地域では東ドイツの放送よりも鮮明に見えるといっていたがその通りであった。なんでも、西ベルリンに電波塔がありそこから強力な電波を送りだしているのだそうだ。当然、東ドイツ国民はこの西の番組をみている。だから、チェルノブイリのこともよく知っている。チェコやハンガリーでも西のテレビ番組は視聴できるらしいが、こうは行かない。
     西ベルリンのような飛地があるわけではないので、西との国境から遠いところまでは電波は届かない。そのうえ、また、すべての国民がドイツ語がわかるわけでもない。これをみても、東ドイツが東欧諸国のなかでも特異な立場にあるのがよくわかる。

      エンジニアさんもいっていたが東ドイツのひとたちはチェルノブイリのことをひそかに心配しているらしい。しかしポーランドのように声をあげてソ連を非難することはしない。
     電波は国境を越える。壁があっても地雷が埋めてあっても。ひとむかし前とは違い政府が情報操作をすることは難しくなってきている。 そのとき「もし今の東西分離の壁が壊れるとしたら、それは東ドイツからではないか。そして、その時期は、そんなに遠くないのではないか」と思った。
     (実際に3年後に崩壊した)

     ―――なにもかにも知っていながらこの国のひとは今後もだまっているのだろうか。そんなことを考えているうちに、いつしか眠ってしまった。


    [No.4896] 東ドイツ紀行 15 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/15(Thu) 06:39
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    画像サイズ: 597×422 (65kB)
     夕食は駅のセルフレストランで

     初日は無理をせず早寝することーーーという方針により夕食は一番近い駅のレストランで済ませることにした。駅にはいくつかレストランがあるらしいがまず手始めにセルフのレストランに行ってみた。隅のほうで観察しているとどうやら先に食券を買い、それぞれのコーナーヘいって食券と引き換えに料理をもらってくる仕組みらしいということがわかった。そこでビールと定食の食券を買うことにして食券売り場の行列に加わった。ここのお客は若い人、年寄り、外国人、とくにAA諸国の人が目だつ。要するに、あまりお金のある人のくるところではないようだ。私の番がきて壁に貼ってあるメニューを指で示すと、白衣をきたレジのおっさんがレシートをくれた。ただし定食のほうはカルトなんとかとヴアルムなんとかとどっちが欲しいのかとたずねられた。多分、コールド、ウオームのどちらかが選べるのだろうと見当をつけてヴアルムといった。
     
     ビールは50円、定食は200円ちょっとだった。ビールはタンクの蛇口から小ジョッキに一杯注いでくれる。定食はお皿に盛り付けてくれる。パンは2つでも3つでも好きなだけ持っていっていいらしい。これらをナイフ、フォークと一緒にお盆に乗せて空いているテーブルに持って行って食べる仕組み。早くいえば西側のセルフの店のまったくかわりない。

     みた目には少なくともあまり食欲をそそる料理ではない、盛り付けもいろどりもさえない。その上、フォーク、ナイフはペらペらでステーキなんか切ったら折れそうなしろものだ。量ばかりはやたらと多い。ところが食べてみたらこれが意外に美味しいのである。ハンバーグのきのこソースかけはきのこの香りがよくきいたいい味であったし、じゃがいもと玉ねぎのいためものもしっかり味がついていておいしい。キャベツとにんじんの酢づけもさっばりしていていい。気がつくと私のお皿のうえはからになっていた。相席の労働者風のおじいさんがしきりになにか話しかけてくれるのだが、いかんせんドイツ語がわからないので「ゼァ、グート」ぐらいしか相槌がうてない。

     写真は、市内の目抜き通り。整然としてはいるのですが、夕刻になっても、街路灯はつかない。暗い感じです。


    [No.4892] 東ドイツ紀行 14 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/14(Wed) 09:04
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    画像サイズ: 504×350 (34kB)
     テューリンゲンの森

     40分ほどで列車は出発した。トンネルをでると窓の外は新緑の目にしみるような森である。まさにシェーネ・マイである。おじいさんとおばあさんはうなづきあって「さあ、テューリンゲンだよ」といっているらしい。この土地の人達のテューリンゲンに対する思い入れは激しいのだそうだ。列車はアイゼナッハに止まった。そとは雷鳴がして大粒の雨がふっている。今日は格別暑いので夕立がきたのだろう。おじいさんは「この土地では摂氏27度を越すとかならず夕立がくるのだ」という。すぐ話のなかに数字がでてくるところをみるとこのおじいさん、まぎれもなくドイツ人である。
     アイゼナッハは昔から軽井沢のように避暑地として知られたところだぞうだ。
     おじいさん、おばあさんとだんだんうちとけてきたころ、列車は今夜の宿泊地のエルフルトに定刻より10分遅れで到着した。

      ホテルエルフルターホフ

     駅の前は市民のいこいの場になっていて気のきいた街路灯とベンチがある。おりしも、仕事のひけどき(東ドイツでは終業時刻は4時)でたくさんの市民がこの広場でぶらぶらしていた。  
     ホテルは広場をはさんで駅のまん前にある。
     フロントでは若い娘さんがにこやかに応対してくれた。英語もひととおり話せるようだ。
     日本から持ってきたバウチャーを渡しパスポートをみせて部屋の鍵と朝食のクーポンを受け取れば手続きは完了する。
     外観はあまり目立たないが、なかはヨーロッパ風クラシック調で家具、調度のたぐいもなかなかシック、部屋も広い。特にバスルームは我が国のビジネスホテルのシングルルームそのものよりもはるかに大きい。さすがドイツでバスルームのタイルはピッカピッカだ。ただひとつ、ここが東欧であることを物語っているのはトイレットペイパーである。ただし、ソ連のよりはややましだ。もっとも、地球的視野で森林資源の保護を考えれば100%消耗品のペーパーに贅沢する日本こそ責められるべきかもしれない。


    [No.4890] 東ドイツ紀行 13 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/13(Tue) 06:55
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    画像サイズ: 506×350 (32kB)
     コンパートメントのなかで

     エンジニアさんたちと一緒だったのでとても助かった。
     まず、東ドイツの老夫婦の通訳をしてくれたこと、それから、旅行者ではなかなかわからない東ドイツ事情、とくに日本人が知りたいと思うようなことをいろいろきかせてくれたこと、例えこの国の生活を楽しんでいない彼らの偏見がまじっていたにしてもやっぱりナマの生活者の実感は貴重である。以下の記録のなかで出てくるこの国の実情の多くのなかにはこのとききいたこともすくなくない。
     まず、老夫婦のことである。東ドイツでは男は六十五才、女は六十才になると西側への旅行が認められる。おそらくこの老夫婦もそのくちであろう。西へ必死で出たがるのは主として中年で老人連中は西に遊びにいってもまず、もどってくる。万一、もどってこなくても国家にとっての損失はない。働かないで年金をもらっている彼らは国家にとっての、いわば扶養家族なのだから。

     ただし、この国の外国為替管理は厳しいので西のマルクに替えられるのは一日わずか二千円程度とのこと。したがって万事物価の高い西では民宿に泊まることもままならない。やっぱり西に親戚でもなければ出掛けられないというのが実情のようだ。 この老夫婦はデュッセルドルフヘいった帰りとのこと。おじいさんは紙袋からウイスキーのビンをとりだしてはチビリチビリと飲む。そしてビンを光線に透かして「ああ、もうこんなに減っちゃった」というように笑っておばあさんのほうをみる。
     おばあさんは袋からバナナをとりだしておじいさんと半分ずつ食べる。そして残りをかぞえる。(5つ残っていた)。コメコン経済圏ではバナナの生産地は、キューバくらい。 街に出回るのはせいぜいクリスマスとメーデーぐらいとのこと。すなわちバナナは貴重品なのである。そのくせ、西ではバナナは至って安い。だから西へ行った人はよくおみやげにバナナを買ってくるのだそうだ。 おひとついかがですかとすすめてくれたがこれをきいたあとではとても受け取れない。「おなかが一杯なので」と断った。(なお、東西分離前を知っている年寄りとは違い、多くの子どもたちはバナナを知らない。たまに眼にしても気味悪がって食べなかったという話もある)
     また、おばあさんは網棚のカバンからお孫さんに頼まれて買ってきたというジーパンを出してみせてくれた。東ドイツでももちろん、ジーパンは売っている。しかし、お孫さんの意見では西の製品に較べてなんとなくダサイのだそうである。「孫が気にいってくれるといいのだけど」といいながらおばあさんは荷物を網棚にもどした。
     写真は、エルフルトの駅前広場です。


    [No.4888] 東ドイツ紀行 12 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/12(Mon) 06:49
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    画像サイズ: 689×476 (57kB)
     両替とため息

     他の東欧諸国と同じようにここでも車内を銀行の人が巡って両替をしてくれる。もちろん、西ドイツマルクと一対一の公定価格である。銀行屋さんを呼び止めて(あとで、知ったのですが、実際はこの国では「税関の人」が両替をしているのだそうです。両替をすることは、入国に際しての必要条件なのですね)
     さて、金額ですが、六日間、滞在するのだからどっちみち3方円は要るだろうと4百マルクを差し出した。すると、かたずをのんで事態を見守っていた東ドイツの老夫婦から悲鳴ともため息ともつかぬ声がもれた。エンジニアさんの通訳によると「大事な西のお金をそんなにあっさりと大量に両替するものではない。すこしずつ、足りなくなった都度両替をすべきだ」といっているとのこと。

     お気持ちは有り難いが私にも私の事情がある。
     わずか六日間であれもこれもみたい私には両替についやす時間こそもったいない。こういう国である以上、市内で両替してくれる場所を探すのも、手続きも面倒なことは容易に想像できる。
     しかし、せっかくのご意見なので100マルクヘらして3百マルクにした。日本円にして2万円ちょっとであった。それでもまだ老夫婦は不満そうであった。この3百マルクがどのくらい使いでがあるかこの時点での私は知らない。
     なお、東ドイツの名誉のために敢えて付言すると滞在中に一度もいわゆる「闇ドル買い」に声をかけられたことはなかった。

     写真は、もうすぐ到着する「エルフルト」の駅舎です。


    [No.4885] 東ドイツ紀行 11 (1986年)  投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/11(Sun) 08:00
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     列車は国境を越える

     発車して一時間半ほどたつと草原のむこうに牧場の柵にしてはちょっと高いかなと思うようなフェンスが延々と続いているのがみえた。エンジニアさんたちの話では、これぞ東との国境とのこと。もちろん、無理に通れば、ものすごい電気ショッで失神するという。 上手く逃げおおせても銃殺れる確率は高い、と聞いたことがある。
     しばらくして西ドイツの係官が巡ってきて形式的にパスポートをみていった。
     ベブラをでてほんのわずかでまた列車がとまった。外をみると駅で、ホームにはお稲荷さんの鳥居の幟のようにDDR(東ドイツ)の国旗がやたらめったらたっていた。これをみれば東ドイツに入ったということは よほどぼんやりしていてもわかる。しかし、車内には予想していたほどの緊張感はない。やがて各車両二人ずつ係官が乗ってきて車両の両側から挟み打ちにするようにパスポートチェックをはじめた。 
     ちょうど、駅弁売りのようにアタッシュケースのようなものを90度ひろげて首からぶらさげている。どうやら中にはスタンプ、スタンプパッド、ボールペンなど文房具がはいっているらしい。なるほど、これは名案だ。係官は特に愛想がいいということもないが冷たい感じでもなく、まあわが成田の出入国管理官殿とかわりない。エンジニアさんたちも、おなじコンパートメントの東ドイツの老夫婦もつつがなくチェックをおえた。税関らしき人はついに現れなかった。念のためほかの車両にもいってみたが私のみた範囲では荷物を調べられている人はいなかった。ただ網棚にあった西ドイツの新聞、雑誌などは持っていったようだ。(活字の持ち込みは禁じられている)。

     東ドイツという国はない

     いままで、東ドイツ、東ドイツといっていたが厳密にいうと東ドイツという国名は存在しない。この国は正確にはドイツ民主共和国と呼ぶのだそうだ。ちなみに西ドイツはドイツ連邦共和国というらしい。なんだか民主というと西側のイメージが強いし、連邦共和国というとソ連みたいでなんとなくまぎらわしい。やっぱり東ドイツのほうが分かりやすいのでこれからもそう呼ぶことにしたい。
     ついでに、東ベルリンという街の名前も正しくない。これは「ドイツ民主共和国の首都であるベルリン」と呼ぶのが正解。落語の「じゅげむ」みたいでとても付き合いきれない。
     更に、東ドイツを東欧諸国とするのも異論があるようだ。東ドイツ国鉄(ライヒエスバーンという極めて帝国主義的な呼びかたをする)の食堂車や駅の構内食堂を経営している、いわばこちらの日本食堂にあたる企業をミトローパというがここは地理的にも文化の面からもまさに、中欧であって東欧ではない。例えば、アイゼナッハは西経10度すれすれに位置している。ミュンへンやニュールンベルグ、イタリアの大部分より西に当たる。ここが東欧だとするとウィーンなどは極東といわねばならなくなる。
     文化的にも音楽、哲学などヨーロッパ文化の真髄がここから生まれており、まさにヨーロッパのなかのヨーロッパといえる。東欧というのは単に政治的な区分でしかない。しかし、この区分が当時のヨーロッパではなにものにも替えがたい極めて重い意味をもっているのでやむを得ず東欧と呼ばざるを得ない。


    [No.4882] 東ドイツ紀行 10 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/10(Sat) 06:55
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    東ドイツ紀行 10

     効率的なフランクフルトの交通システム

     全員がフランクフルト空港のターミナルビルにはいったのは11時10分を少し過ぎた頃だった。一日一本しかない東ドイツ行きの列車は11時57分フランクフルト中央駅を発車する。もう駄目だろう、でも行くだけはいってみようと入国手続きを急いだ。ところが、パスポートコントロールはすいすいと通過でき、バッゲージクレイムにはすでに荷物がでていた。国電の空港地下駅はロビーの真下、電車は15分に一本ずつ出ていて、中央駅までは、わずか15分。駅ではピクトグラムにしたがって進むとすぐ切符売り場がみつかった。トマスクックの時刻表のなかのERFURTというところに赤ペンでアンダーラインをひいてみせると切符はすぐ買えた。ホームの表示も分かりやすく、目指す列車もすぐみつかった。
     列車は予想していたよりずっと混雑していた。なんとか空いているコンパートメントをみつけてすわって時計をみるとまだ発車まで6分あった。これぞドイツ的効率主義である。

     車内で親切な日本人に会う

     荷物を網棚にあげてほっと一息ついていると、「ああ、あいているとこがあるワ」という、まぎれもない日本語、しかも、関西弁が耳に飛び込んできた。と同時にダークスーツの中年の二人づれの日本人がコンパートメントに入ってきた。彼らはしげしげと私をみて「へえ、おたく日本の方ですか。どこ行かはるんですか。へえ、東ドイツヘお一人で。だいぶ変わった方ですな。まあ、おたくもつれがあってよかったワ。ひとりやったら心細いでしょう」と一息でしゃべった。きけば、彼らはエンジニアで技術提携しているライプツィヒ郊外の東ドイツの会社(ここでは人民所有企業というらしい)に技術指導のために滞在している由。典型的な日本のサラリーマンでゴルフやマージャン、パチンコ、縄のれんに縁のないこの国での暮らしは忍の一字のようだった。唯一の楽しみはアパートで乏しい材料をやりくりして日本食らしきものをつくって食べることにあるという。その日はたまたまメーデーで会社が三日間休みだったので西の空気を吸いに西ドイツのバーデンバーデンに出掛けた帰りとのこと。しかしわざわざ西に行ったのに、ぜんぜん日本人に会えなかったとがっかりしてこの列車に乗ったところ私がいたーーーということらしい。
    (スパイの疑いなど掛けられないように、東ドイツ行きの列車の車内で写真を撮るのは遠慮した。写真は通過する「テューリンゲンの森」の初夏の様子です)


    [No.4879] 東ドイツ紀行 9 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/09(Fri) 06:57
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     機内での反省

     定刻に離陸した255便は新緑の林に囲まれたシェレメチエボ垂港をたちまち箱庭にしてしまった。まもなく配られた機内食はとてもローカルカラーにあふれたものだった。縦に4つ切りにした大きくてややふやけたキュウリひときれ、まっくろな黒パン、レモン一片、バター、ワイン、そして親指の半分ほどのキャビア。少なくともアエロフロートでなければ味わえない献立である。なかなかおいしい。

     食べながら、いままでモスクワの悪口を言い過ぎたことを反省した。この一日、「待たされた」という点を除いてはなんの不都合もなかったのである。「待たせる」という不満も、悠久の大地に生きる大国民はせかせかしないからであって、極めて気ぜわしい国民性を持つ日本の、効率を最大の使命とするビジネス社会の、お客さまをお待たせしないことが最高のサービスと考えている銀行に長年勤めている人間が起こしたカルチュアショックに過ぎないのであろう。だいたい、空港ホテルに一泊するというのは、ソ連との付き合い方としてはもっとも不味い方法で、これでこの国を評価しては的はずれもはなはだしいはず。改めてゆっくりこの国のいいところを見に来ることにしょうとおもった。こんなことを考えているうちに255便は着陸態勢に入っていた。

      ガイガ一計数器の待つフランクフルト

     ところが、我らが搭乗機は、フランクフルトと上空を旋回していてなかなか着陸態勢に入らない。
     結局、空港から離れた草原のような所へ、着陸したようだった。
     やがて、タラップが取り付けられ、ドアがあき、乗客が降りはじめた。ところがいっこうに行列が先に進まない。私はいらいらしていた。一日一本しかない東ドイツ行きの列車は11時57分フランクフルト中央駅を発車する。乗り遅れたときは空港にとってかえし、パンナムで空路西ベルリンヘ行き、東ベルリン経由でエルフルトヘ行かねばならない。こうなるとエルフルトに着くのは夜8時を過ぎてしまう。
     2〜3人ずつ降りては2〜3分待つというようなテンポで行列はいっこうにはかどらない。それでも15分ほどでやっとタラップに出られた。ここでやっと待たせられた理由がわかった。アイロンのような器具を持った空港係員が乗客ひとりひとりのからだを調べている。我々は汚染地域のモスクワから到着したので放射能のチェックを受けなければ入国できないのだそうだ。私の順番がくると、にこにこしながら入念に体じゅうをガイガー計数管と思しき機器で検査し「オーライト」と言って空港バスのほうをさした。   
     無事、無罪放免となった人は、空港行きのバスに乗せてもらえる。
     まあ、あまり緊張感はなくお客も係員もふざけたりしていた。結局、全員異常がなかったらしくその場に残され人はいなかった。
     そうだったのだ。我々は原発事故の汚染区域から飛来してきた人間だったのである。


    [No.4877] 東ドイツ紀行 8 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/08(Thu) 06:41
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     モスクワの朝

     5月4日(日)晴れ、午後暑くなる
     ピーピーというものすごいブザーの昔で目がさめた。飛行機の中とは違ってぐっすり眠れた。隣のベッドに寝ていたドイツ人が「あんたを起こしにきたらしいわよ」という。あわてて着替えて廊下にでてみると「支度をしてロビーに集合せよ」とのこと。ところでわざわざ起こしにこなくてもモーニングコールをやればよさそうなものだが、このホテルには電話がないのだ。内線だけではない、外線もないらしい。フロントの掲示に「当ホテルには電話はありません。緊急に外部と連絡が必要な際はテレックスをご利用ください。この場合、費用は当ホテルで負担します」。という意味のことがかいてある。首都の空港ホテルに電話かないのはこの国だけではあるまいか。なんといってもユニークな国である。しかし、分かるなぁ。電話だと盗聴しなければならない。テレックスならば記録が残るってわけなのですね。
     時計をみるとまだ6時20分だ。私の乗るフランクフルト行きは9時45分発のはず。なんだってこんなに早く起こすんだろう。いや待てよ、昨日、手続きに3時間かかっているんだから今日も同じくらいはかかるのだろうと一人で納得した。

     空港レストランの朝食

     今日は手続きがスムーズにいって8時ごろには完了した。
     さて、朝ごはんはどこで食べるのかなとおもっているとみんなぞろぞろ空港レストランに入っていく。例によってなんの説明も指示もない。ゆうに百人はすわれるこのレストランのテーブルの上は前の人たちの食べあとがそのままで従業員はだれもいない。30分待ってもいっこうに現れない。どうやら、奥の調理場で自分たちの朝ごはんをたべているようだ。さらに、30分ぐらいしてやっと現れ、ゆうゆうたるテンポでかたづけはじめた。メニューは、半熟卵、ハム、チーズ、トースト、ジャム、バター、コーヒーと堂々たるもので味もなかなかよろしい。ただ、コーヒーだけは、西側のコーヒーとは違う代用品であった。

     トランジット仲間

     昨日、今日と長い待ち時間を一緒に過ごしたトランジット仲間とすっかり親しくなった。学生など若い人が多く、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、デンマークなどあちこちからきている。運賃の安いアエロフロートがあって助かるといっていた。例のモスクワ式非能率についてもむしろ面白がっている。日本人も数人いたがみんな気のおけない連中だ。食事がやっとはじまりかけたころから、ヨーロッパ各地へいく便の搭乗案内がはじまった。早い便に乗る人は、ごはん食べかけでたっていった。どうにか食事がすんだころフランクフルト行きの案内があった。「アリベデルチ」 「ハヴアナイストリップ」とつかのまの同志に別れをつげ、SU255便(ツボレフ)の機上の人となった。面白いのは空港のアナウンス。ロシア語と英語のみ。チューリッヒはズーリュック。ミュンヘンはミューニック。ウィーンはヴィアナ。ドイツ語圏に留学する学生さんたちは「調子が狂う」と言っていた。


    [No.4875] 東ドイツ紀行 7 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/07(Wed) 07:49
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     空港ホテルに泊まる

     ホテルは空港の敷地のすぐ外に聾えたっている。部屋はすべてバス、トイレつきのツイン。ただし、なかは相当安普請で床のリノリユームはぺこぺこしている。
     ホテルに着くと今度は部屋割りの番だ。これがまた難物である。宿泊客には私のような一人旅や、3人づれもすくなくない。ところが、部屋はすべてツインである。私は当然、日本人同士一緒の部屋にするものだとおもっていた。

     ところが、フロント嬢は国籍に関係なく名簿の順にどんどん部屋割りをはじめた。バスで一緒だったベルリンに留学するというお茶の水大の学生さんが初めての旅で心細そうにしていたので同室にしてほしいと申し出たが即座に「ニエット」と断られた。なぜか、ソ連のスタッフは、この言葉をいう時に実に嬉しそうな表情を見せる。
     私の相客は中年のドイツ人でシュツットガルトの住人。ルクセンブルグ経由モスクワに来た由。明日、ここからソマリアのモガジシオヘ行くそうだ。(遠まわりでもこのルートが一番安いとのこと)。とってもいい人でお風呂に先に入るように勧めてくれたりいろいろと気を遭ってくれた。

     さすがに疲れたので夕食もとらずベットにはいった。(後できいた話では抜かしても後悔するような内容ではなかった由)。
     トランジット泊のときは機内預けの荷物が出ないということを知らなかったので今・夜はパジャマもハブラシもない。まあいいや。一晩だもの。
     就寝中に時折「キーン」という鋭い飛行機の離発着音がする。
     
     このシリーズには写真が少ないというご意見もありますが、当時のソ連には、撮影禁止場所などもいろいろあり、やたらカメラを出していて「スパイ容疑」で監視されると面倒なのでカメラはしっかり閉まっておきました。東ドイツではたくさん写真を撮りましたのでご期待ください。


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