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 旅行記   2015.1.1更新

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  • [No.4981] 続・東ドイツ紀行 44  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/20(Thu) 06:47
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    画像サイズ: 538×489 (94kB)
     ポツダムはセンスある街

     ポツダム中央駅から街の中心地へは林のなかをくぐって電車でいく。この街は大都市ベルリンに隣接していながら林と湖にかこまれた小粋なリゾートタウンである。
     インターホテルポツダムはハーペル湖のはじっこにある堂々としたホテルである。(こんなに立派なホテルに泊めてくれとたのんだおぼえはない)。この街で必見のものといえばサンスーシー宮殿とツェツィーリエンホフである。
    ところが、この時すでに閉館時刻の5時間近であった。朝方のんびり時間を消費したので遂にポツダム見物の時間がなくなったのだ。

     ここにも厳しい現実が

     とにかくより近いツエツィーリエンホフヘ急ぐ。赤レンガの門を入ってよく手入れされた新庭園のなかを15分近く歩くとやっとツェツィーリエン宮殿に着く。庭園は通路の両側に緑の木立がつづいており、そのまわりは芝生になっていた。右手には芝生のむこうにへイリンガー湖が光っている。木々では小鳥が歌をうたっている。途中の建物は兵器博物館だ。この辺りにはロシア兵がたくさんくつろいでいた。その少し先にツエツィーリエンホフがあった。
     ポツダム宣言により、その名を当時のすべての日本人に忘れることのできないものにしたポツダム会談のおこなわれた場所である。20世紀のはじめホーエンツォレルン家最後の王子であったウイルヘルムが住んでいた宮殿ときいていたが英国風の建物である。もう5時を過ぎているので内部の見学は出来なかったが建物は田舎の別荘のような作りになっておりむしろ質素な感じがする。あれから41年、OLの私がはるばる日本からこうして気軽に見物に来ていることを知ったら当時の米、英、ソの3首脳はなんと思っただろうか。
     宮殿を後にしてしばらくすすむと森のなかに湖に沿って金網が張ってある。掲示板があって「国境につき注意!」と各国語で書いてある。この先は西ベルリンなのである。
     そういえば、さっき手前にあった小高い丘は、こちら側から西を眺めるためのお立ち台であったのだ。オペラグラスをぶらさげた人たちがぞろぞろ降りてきたのは西側見物を済ませたひとたちだったのだ。また、そのすぐ先には米軍の駐屯地がある。(もし私の見間違いでなければ)。
     日本にいると戦後は遠くなりにけりの感があるがこの辺をうろうろしているとまだ、第二次世界大戦は終わっていないのではないかという錯覚に陥ってしまう。出口のすぐ脇にバス停があり丁度よくバスが待っていた。ホテルの近くまで5分ぐらいで着いた。


    [No.4980] 麻布十番の赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/19(Wed) 18:16
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    画像サイズ: 511×428 (57kB)
    > 函館に
    > 赤い靴の女の子の像があります。

    いちおう
    赤い靴の女の子のモデルは下記のようになっています。

     女の子の名は「岩崎きみ」。
     明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。

     きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。

     母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。

     当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。

    母親は、娘が宣教師夫妻に伴われ渡米して,今頃は幸せになっているよと、(きみちゃんの)妹に話して聞かせました。

    かよによれば、夫の鈴木志郎と野口雨情は札幌の新聞社に勤めていて、家族どうしの交際があったのです。
    (すくなくとも、小樽では鈴木志郎と野口雨情と石川啄木は同じ新聞社に勤務していました)

    アメリカに渡った娘の話を野口雨情に話をしたら、野口雨情があの「赤い靴」の歌を作ってくれたのだと母親は思っていたのでした。

    しかし、きみちゃんは結核になって米国には行かず、一人でさみしく麻布十番で死んだのです。
    墓は青山墓地にあります。

    http://jin3.jp/kimi/kimi-1.html

    という話に対して否定する人もいます。
    「赤い靴」の作詞者野口雨情の息子野口存彌(のぐち のぶや)も否定的な考えです。

    そもそも、歌はどのようにしてできたのか、いろいろなモチーフや作者の思いがあって
    作者自身にしても、あれが主なモチーフだったとは断定できないかもしれません。

      「雪の降る町」もしかり。 鶴岡説、旭川説などあり。

      「夏の思い出」の作詞者は、尾瀬で見たミズバショウは、実は幼いとき育った岩手の八幡平ふもとのミズバショウを思い出しながら、作詞したのだと書いています。

    ともかく
    きみちゃんは麻布十番にあったキリスト教教会の孤児院で死んだのです。

    あの「赤毛のアン」の翻訳者の村岡花子は、この近くの東洋英和女学校で学んでいたので
    当時この施設に出入りしていたようです。

    だから
    きみちゃんとも面識があったようです。時代と場所はあっています。

        ◎     ◎

    きみちゃんの義父鈴木志郎と野口雨情は、実は意外な接点があったのです。

     若き日の野口雨情は、「労働世界」、「社会主義」に明治35年から明治36年まで社会主義詩6編を発表しています。
     「社会主義」は「労働世界」を改題したもので、片山潜が名目上の発行・編集人でした。

     いっぽう、「平民農場」は日本社会党の関係者の深尾韶たちが真狩村に土地を購入しはじめた開拓村で、社会主義やキリスト教に関心のあった鈴木志郎も参加したのです。

     きみちゃんの母親岩崎かよは、一緒に暮らす戸籍上の父親がキリスト教の信者で、この父親の意志もあって「平民農場」の開拓に取り組んだのです。

      だから、野口雨情や鈴木志郎や岩崎かよが札幌で会ったとき、いろいろな共通点があり同志的な語らいがあったのではないかと推察されます。

      そして、当時としては危険思想だった社会主義については、なるべく彼ら自身は口外しなかったのでしょう。 だから、彼らの結びつきは秘密にしておきたかったかもしれません。

      岩崎かよが自分の娘(きみちゃんの妹)に、野口雨情がきみちゃんのことを歌につくってくれたと話しても、彼らが社会主義というテーマで結ばれていたことは話さなかったのでしょう。


    [No.4979] Re: 函館赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/19(Wed) 03:12
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    画像サイズ: 480×800 (77kB)
    > ひさしぶりに見に行ったら
    > 修学旅行の生徒たちが集まっていて
    > そこに遅れてきた先生が合流。

    > 記念写真を撮っていました。

    昔の波止場の場所に
    こんな像ができたのです。

    数年前に見に行ったとき写した写真でした。

    いま見直すと、左に小さな像が見えますが
    あれは新島襄が函館からアメリカに向かって密航したときの記念像です。
    http://www.hakobura.jp/db/db-view/2013/04/post-229.html


    [No.4978] 函館赤い靴 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/18(Tue) 08:06
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    画像サイズ: 330×332 (23kB)
    函館に
    赤い靴の女の子の像があります。

    ひさしぶりに見に行ったら
    修学旅行の生徒たちが集まっていて
    そこに遅れてきた先生が合流。

    先生はなんだか言い訳を言っていたような。
     (あちこち用事があって忙しい先生)

    記念写真を撮っていました。


    [No.4977] Re: 鉄道博物館 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/18(Tue) 05:02
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    画像サイズ: 721×375 (48kB)
    > ポケットから
    > 記念のカードが出てきました。

    裏はこうなっています。


    [No.4976] Re: 鉄道博物館 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/17(Mon) 21:08
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    画像サイズ: 371×219 (19kB)
    > これは建物の案内図です。

    ポケットから
    記念のカードが出てきました。


    [No.4975] 続・東ドイツ紀行 43  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/16(Sun) 06:35
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    画像サイズ: 535×523 (96kB)
     ベルリン無法者

     シューネフェルトからポツダムにむかう列車のなかでめずらしい事件に出会った。サロンカーの座席に腰掛けていると青年団のような20人ぐらいの一隊がどやどやと乗り込んできて先に乗って座っている乗客になにか言った。そうするとドイツ人の乗客は通路に出て行った。彼らは手に手に酒びんを持っており、すでにかなりきこしめしている。
     一人ぽつんと彼らのあいだに座っている私に気がつくと、リーダー格の男が私の前にきて「ハローグッドアフタヌーン、ナントカカントカ」と多分 かれが知っている数少ない英語の単語とともに私は立ち退きを要求してきた。他の乗客を全員退い出して自分たちの専用車にしてじっくりお酒を飲もうという魂胆らしい。君子危うきに近寄らず、私も出てきた。
     通路にいた女子学生らしい子が私が追い出されてくるのを見て目に涙をうかべながら退役軍人のような がっしりした身体つきの小柄な老人に必死の表情でなにか訴えている。
     おそらく外国人にまであんなことをして恥ずかしいとでもいっていたのであろう。老人は車内にはいっていくと若者たちを睨みつけながら強い口調でなにかいっている。その甲斐あってかわれわれ迎えにくることこそしなかったが静かにはなった。車掌さんは検札にきたけれど見てみぬふりをしていた。
     ここもひとつの国であってみれば、ヤクザもいれば、正義漢もいる、みてみぬふりをする人もいるーーーどこもおなじだなと思った。

    ――――――――――――――――――――――――――――――
     この件について当時、東ドイツに長く住んでいた、友人のY氏は下記のように説明してくれた。
     ―――ベルリン無法者の件、酒の勢いでなだれ込んできた「青年団らしい20人ほどの若者たち」というのが(青シャツ着てましたか?)まさに メーデーから解放記念日まで隊列行進や警備・整理などのために首都に動員されていた自由ドイツ青年同盟の若い衆たちでしょう。中国の紅衛兵ほどではなくても日が日だけに車掌もあまり触りたくないのだろうと思います。


    [No.4974] Re: 鉄道博物館 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/16(Sun) 05:13
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    画像サイズ: 700×525 (49kB)
    >これは開拓時代の北海道を走っていた弁慶号です。

    客車の開拓使号も一緒に展示されています。


    [No.4973] Re: 鉄道博物館 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/16(Sun) 05:09
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    画像サイズ: 625×700 (75kB)
    > これは建物の案内図です。

    > 私は屋上と三階の展望所から新幹線が走ってくるのを見たわけです。

    一階には
    新幹線や歴史的な機関車・車両などが展示されています。

    入口から入って右手です。

    これは開拓時代の北海道を走っていた弁慶号です。


    [No.4972] 続・東ドイツ紀行 42  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/15(Sat) 06:50
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    画像サイズ: 536×520 (92kB)
     ベルリンを歩く

     ここからウンターデンリンデン通りを東にむかう。どっしりとした国立ドイツ図書館(?)の隣の大きな建物はフンボルト大学。入り口には創設者、フンボルト兄弟の像がありベルリンの街を見下ろしている。中公新書の「フンボルト」によれば彼の論文には「−−−国家は人間のために存在するのであって、人間は国家のためにあるのではない。−−国家のなし得る最も積極的なことは、市民の自発的な活動にいささかでも影響を及ぼすようなことから手をひくことであるーーー」ということが書かれているそうだ。彼は18世紀末に今日のドイツを想像できたのであろうか。
     像のそばのベンチにはジーパンにティーシャツの男女の学生がくったくなげにくつろいでいた。

     かつてここでは森林太郎(森鴎外)、北里柴三郎などたくさんの日本人が「学んで」いる。今回の旅行で出会った日本人はいずれも技術指導など「教える」ためにこの国に滞在している人であった。ここに時間のへだたりを感じる。
     シュプレー川を渡ると中の島になっておりここは博物館が集中していることから博物館の島とよばれている。どっしりとした建物の旧博物館、国立美術館もみたかったがベルガモン博物館へ行った。ここには紀元前180年ごろの古代都市ベルガモンから発掘されたゼウスの神殿の祭壇、メソポタミアのバビロンで発掘された城壁の模様などすばらしいコレクションがあり、しかもいかにもドイツらしく見学者にみやすい陳列方式をとっている。ベルリンでどんなに時間がなくてもこれだけは見たかった博物館であったが実際みる価慣がある。

     ホテルウンターデンリンデンのレストランで遅い昼食をとる。ここには西のレストランとおなじようなサラダバーがあり例のキャベツやじゃがいもだけでなくピーツ、トマト、カイワレらしきものなどいろいろ選べるようになっていた。ところがおなじテーブルの母娘はこの色とりどりのなかからキャベツだけをお皿に入れてきた。きっとふだん食べているものだけが安心してたべられるものなのであろう。私はパンを浮かべてオーブンで焼いたスープなどをこれが東ドイツ料理の食べ納めとばかりお腹いっぱいたべ、ベルリンの街をあとにした。

    (写真は、フンボルト像、ペルガモン博物館、シュプレー川)


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