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 旅行記   2015.1.1更新

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  • [No.4961] 鉄道博物館 投稿者:男爵  投稿日:2016/10/11(Tue) 10:56
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    半日だけ鉄道博物館に見学に行ってきました。(9月末)

    鉄道博物館には
    JR大宮駅よりニューシャトルに乗っていくと便利です。

    鉄道博物館では、入場の際にSuicaやPASMOカードが使えます。

    まず 大宮駅(前)です。
    傘をさしている人がいます。


    [No.4960] 続・東ドイツ紀行 38  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/11(Tue) 06:56
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    画像サイズ: 535×269 (88kB)
     国電のなかはため息の合唱

     べ二アで囲った細い通路を通り抜けるとまた駅のコンコースに出た。ここから階段を登るとホームになっている。ここには別の電車が待っており、すでに半分くらいの座席がうまっていた。車掌さんも運転手さんもさっきと同じ東ドイツの制服を着ている。この後、さらに5、6人乗ってから電車は動きだした。出るとすぐ高架線になり例の壁に添ってしばらく走る。壁越しに西ドイツの国旗がたかだかとあがっているのが見える。車内から小さな歓声があがった。
     やがて電車は国境を越え西ベルリンの最初の駅に到着する。
     ここで東ドイツ側の乗務員がすべて降りる。引き換えに西ベルリンの乗務員が乗り込んでくる。乗務員交替を終えると電車はすぐに発車した。この時、私の前の座席にいた4人の家族ずれのおかあさんがびっくりするような大きなため息をついた。これにつられて車内のあちこちからため息や歓声がきこえてきた。この家族ずれ、古ぼけたトランクを8つも持っていたし服装も古びている。どんな事情があったのか。何か重い過去がこの時代遅れなトランクの底に隠されているように感じられる人たちであった。  
     単なる観光客は少なくとも私のほかにはいない模様である。
     「ついでにサラダ付きのランチをたべて」そんな不謹慎な?理由で壁を越えるなんて到底考えられないことである。なお、東ドイツでは、到着した翌日以降、生野菜がレストランのメニューからもマーケットからも消えた。例のチェルノブイリの放射能に対する懸念からであろう。しかし、後に会った日本人の話では、まったく何のご挨拶もなく「突然」姿を隠したとのこと。「消えること」も「その理由」も知らされていなかったよし。帰国の前々日ころには、また何のご挨拶もなく登場した)
     サラダのことを考えることすら何か不謹慎なような車内の雰囲気であった。

     自由とはきたなく、うるさいもの

     5分ほどで西ベルリンのZ00駅、すなわち動物園前駅、に到着。ここで下車した。東京でいえば上野と銀座をつきまぜたような繁華街だ。西ベルリン側では、まったく入国審査はない。ホームから通路へ出てびっくりした。なんともきたないのである。
     空き缶やビニールが散乱し埃っぽい。塵ひとつおちていない東ベルリンからくるとよけいにそう感じる。駅の構内をでると、まずコジキが目に付いた。しばらく歩くとアル中のおっさんがいた。昼間から完全に目が据わっていて怖い。とにかく、オイローバ・ツェンターというルミネのような雑居ビルヘいき、ここで煮込み料理とサラダを食べた。オイローバ・ツェンターの展望台はティールームになっている。ここで600円のクリームサンデーを嘗めながら(西ベルリンは物価が高いのである)街を見渡していると厚い雲の割れ目から太陽が顔をだした。まぶしい日差しを浴びながら私は太陽と話し込んでいた。
      「コジキがいるっていうけど、東ではコジキをする自由もないということじゃないのかね」。「でも西側諸国の人たちはこの40年、ありとあらゆる自由を試してみたでしょう。ゼネスト、ウーマンリブ、学園紛争、離婚、ヒッピー、ヌーディスト・クラブーーーそれで何が得られたんですか。いまじや、ユーロペシミズムなんていっているでしょう」。「しかし、あんたは、ベルリンの壁を越えてきたひとたちのあのため息をどうおもうかね」。「でも、この西ベルリンの人こそ、籠の鳥でしょう。壁に囲まれている街なんかに住んでいるからアル中になるんじゃないかしら」。「まあ、とにかく難しい問題だよ。あんたもせっかちに結論を出さずによくみてよく考えてみることだね」。
     太陽が雲の奥へ帰ってしまったので展望台を降りて街に出てみた。クーダム通りなどを歩いてみたがなんとなく落ち着かない。それに、いまやニナリッチもバーバリも西のお金さえ持っていれば東のインターショップでも買えるのだ。
     少し早いけれど東に戻ることにしてフリードリッヒシュトラーセ駅に向かった。
     (写真はカイザーヴィルヘルム記念教会と街の様子です)


    [No.4959] 続・東ドイツ紀行 37  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/10(Mon) 06:16
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     5月8日(木)くもり、ときどき晴れ

     さて、いよいよベルリンヘ

     昨夜はよく眠れなかったが、今朝は早く目がさめた。今日はベルリンヘ行く日なのだ。ライプツィヒからベルリンのシェーネフェルト空港駅まではノンストップで1時間50分。幹線だけにコンパートメントもきれいだ。女の車掌さんが来て特急券を買わされた。300円なり。空港に駅があって、しかも急行、特急がすべて止まり、国電までが乗り入れているのは、さすが、東ベルリンだと思う。
     とりあえず、西ベルリンヘいってみたい。西ベルリンヘの入り口(すなわち、壁の穴)はふたつある。ひとつはチェックポイントチャーリー、もうひとつはフリードリッヒシュトラーセである。今回は国電の便利のよいフリードリッヒシュトラーセ経由でいくことにした。シューネフェルト空港駅からフリードリッヒシュトラーセ駅までは案内板をたより国電を乗り換えてなんとか行けた。

     とうりゃんせ、壁の穴

     ここは、ターミナル駅なのでなかなか大きい。インフォーメーション・オフィスの前の案内板には駅構内の見取り図があって、レストラン、キオスク、トイレなどの場所はよくわかる。ところが、肝心の西ベルリンヘの入り口が見つからない。通りがかりのひとにきいてみようとも思ったが、ことがことだけに、べルリン市民にたずねるのはちょっとはばかられた。困ったな、と思ってなおもよく見取り図をみるとポリツァイ(警察)という字が見えたので行ってみた。パスポートをみせると、こちらの聴きたいことがすぐわかり、コンコースの外をさして「アウス(外)、アウス」という。  
     外へでてみるとなるほど、駅と隣の体育館のような建物との間に空き地がありここに動物園の入場券売り場のような窓口がいくつか並んでいた。なんとなく一番とっつきの窓口に並んだ。この日は特にすいていたのか並んでいたのは4、5人だった。しばらくすると前に並んでいたおばあさんが、私の袖をひっぱり何かいっている。例によってドイツ語は分からないのでキョトンとしていると、十六の菊のご紋章のついた赤いパスポートを指して次に奥の窓口を指す。ハハア、ここじゃないんだな、ということが分かったので改めて出国窓口をよくみてみた。そうすると窓口の上にプレートが出ている。今いるところは「BURGER DDR(正しくは「ウームラウと」がつきます)」、隣は「BURGER BDR」、その次は「BERLIN STAAT−−なんとか」とある。私はその場に荷物を置きバッグからGEMの独和辞典をだしてBURGERという言葉を調べた。そうか、手前は東ドイツ国民用、次は西ドイツ市民用、その奥はベルリン市民用なのだ(ということは、東ベルリン市民は別のパスポートを持っているのかしら)。
     それならそのどれにも属さない私は一番奥の窓口にいけばいいんだなーーーとやっとわかった。
     そこにはふたりしか並んでいなかった。前の小柄な紳士は口髭なんかはやしてどこか気障な感じがしたらやっぱりイタリア人だった。次の黒いコートの年配の婦人はポーランドのパスポートを持っていた。二人とも1、2分で済んだ。私の番がきて窓口の若い、うす青い目のポリツァイさん(警察官)にパスポートをみせた。彼は先ず私の顔を穴のあく程みつめてからパスポートの写真をじっとみた。次にパスポートをばらばらめくってヴィザを確認した。そして私のほうをみて「アインマル、か ウントツーリュック(片道か往復)のどっちにするのか」と手真似をまじえながら質問した。そのツーリュックのほうで頼むというとすぐ通してくれた。

    (写真、東ドイツの切手。隣は「西ベルリン」の切手)


    [No.4958] 続・東ドイツ紀行 36  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/09(Sun) 08:01
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     順番は公平に

     入り口にはすでに6、7人が待っていた。また雨か激しくなったので列をくずして軒下に入っている。7時きっかりに開門、 前売り券をもっている人から入れていく。その後でお客の入り具合をみながら3、4人ずつ、当日売りを待っている人を入れていく。列は崩れていたが、みんなさすが行列のプロだけあって順番はよく覚えている。10分ぐらいたって「次のひと」と呼ぶと誰かが私の背中を押す。
     なかに入ると、紺の上っぱりをきたおじいさんの係長が切符売り場に連れていってくれる。切符は8マルク=六百円)。プログラムは40円。ロビーは華やか。みな精一杯おしゃれをしてきている。尼さんたち、眼のみえないご主人の手をひいているおばあさんもいる。
     ワイン、ジュースも売っており、ワイン片手におしゃべりを楽しんでいる様子はウィーンのシュタートオーバーあたりと少しもかわらない。座席は完全にふさがっていた。

     聴きごたえのある演奏

     このケーラーというひと、日本ではレコードもでていないし、名前も聞いたことがない。60過ぎの逞しいひとである。まず、ポロネーズ(英雄)の出だしでぴっくりした。おなかにどどんとくるような逞しい弾きかただ。もっとも、ゲバントハウスの音響効果もそうとうなものだ。
     しかし、なんといっても、彼はロシア人、しかもかなり武骨な感じのするひとだ。そして、ショパンはポーランド人、リストはハンガリーの農村の生まれ、そして、ここは東ドイツである。ショパンもパリの社交界にいるときのように気どってはいない、逞しいショパンである。そのせいか、プレリュードでは、あのやるせなさ、悩ましさが感じられない。リストでは、特にハンガリアン・ラプソディーで確かな技巧をみせていた。しかし、なんといっても力のこもった演奏でふかく感動した。

     ゲバントハウスの聴衆

     満員の聴衆は一曲ごとにわれるような拍手でこたえた。
     また、演奏中も身をのりだし、からだで拍子をとりながらききいっている。
     メンデルスゾーンを初代の常任指揮者としているゲバントハウスオーケストラを長年にわたりささえてきたのは聴衆、すなわちライブツィヒの市民である。かれらはきわめて質の高い聴衆として自他ともに認めている。ここでうけたということは、おそらく演奏家冥利につきることであろう。アンコールに6曲ひいたことでもかれの感激がわかる。(後でわかったところでは、結構有名人で、ジョージア(グルジア)生まれでモスクワ音楽院教授をへて、のちに、ウィーン国立音楽大学マスタークラスの教授となった方だったのだ)。
     終盤では、舞台と客席が完全に一体となっていた。最後のアンコールのとき、もう終わけだろうと思って廊下にでたらまたものすごい拍手なので引きかえしてみると、かれはステージから私をみつけて手真似で席に着くように合図する。私が座ると「ダンケ・シェーン」といってグリークをひきはじめた。
     ホールをでるとすでに雨はあがっていた。東ドイツは治安のよいところなので深夜の道をホテルまで歩いても、心配はない。この夜は興奮したのかなかなか寝つけなかった。

     (写真はゲヴァントハウスの建てものと、入場券)


    [No.4957] 続・東ドイツ紀行 35  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/08(Sat) 06:42
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     何はさておきゲバントハウス

     ライプニッツの像のあるライブツィヒ大学をちょっとみて、再建なったゲバントハウスヘいく。思えば東ドイツにきてまだ一度もコンサートに行っていない。いくならば今夜をおいてチャンスはない。入口の案内版によると木曜は大ホールは休みだが、今夜は小ホールでソ連のピアニスト、ルドルフ ケーラーというひとのリサイタルがある。プログラムはショパンのポロネーズ、ノクターン、プレリュード、リストの葬送曲(はじめて聴く曲)、ハンガリアンラプソディ、ベトラルカのソネット。
     早速、窓口にいって当日売りの切符は何処で売っているかを尋ねる。といってもドイツ語はわからない、知っている限りの単語を必死でならべる。「ホイテ、アーベント、クライナーザール、ピアノ、いや、ええとクラヴィーアかな、チケットじゃなくてカルテかしら」。こっちのいったことが分かったらしくしやべりだす。よく分からないけど腕時計を見せて「ジーベンウーア」といいながら小ホールの入口を指差す。〈多分、7時にここにくれば買えるーーーといっているのであろう。違ったらどうするか、心配ない、別に生命に係わる問題ではない。庶民はたくましく、恥しらずに旅を続ける〉

     レストランさくらと、また親切な日本人

     こうなると忙しい。ホテルに戻って着替えなければ。とはいっても着たきりスズメのこと、大したものは持っていない。でもコンサートに行くのだからせめてブラウスぐらいは替えよう。それから食事も済ませておかなければ。
     ホテルメルクアには、日本レストラン「さくら」があって、東ドイツの板前さんが腕をふるい、東ドイツの娘さんがお給仕をしてくれるとか。話のタネにここにいってみた。鉄板焼きを注文する。時間がない。急いでもらわねば。―――ところで、ええと、「急いでください」は何というのだったっけ。わずかな単語をやり繰りしている身には一つ忘れるのは痛手である。近くで列車の走る音がする。急行列車は確かシュネルツークだ。当時は「テッチャン」だったから鉄道用語は少し詳しい。青い眼の板さんに「シュネルツーク、ビッテ」というと分かったらしくニコニコしていた。 やがて、紺地のゆかたに黄色の博多帯の東ドイツ娘さんがしずしずと赤だしをお盆に乗せて運んでくる。突き出しは「糸ごんにゃくときのこの煮付け」。あとはビールと鉄板焼き。これは牛肉の他にじゃがいも、人参、しいたけがついている。タレはポンズとゴマダレがグートとのこと。
     向こう側テーブルの3人連れのひとりが「これから何処かへお出掛けですか」と日本語で話しかけてくる。やはり、東ドイツの企業に技術指導のため派遣されているのだそうだ。ゲバントハウスヘ行くことを話すと、「この雨の中を。ちょうどそっちに行きますからお送りしましょう」といってくださる。外は激しい夕立。ご厚意に甘えることにした。
     彼の部下らしい東ドイツの青年2人と車に乗せてもらう。
     この2人はこのケンと呼ばれる日本人を尊敬していてよくいうことをきく。そして、たどたどしいが日本語も知っている。
     私のために近道をする。「ケン、ポリツアイ(警察官)がくるよ」と青年のひとりが注意している。最初の日に会った日本人が現地の生活に馴染もうとせず、ひたすら日本を恋しがるタイプであったのに対し、この人は積極的に現地の人たちと打ち解けていくタイプらしい。2人に共通することは私に親切なことである。5分ばかりで雨の上がったゲバントハウスに着いた。

    (写真は、ホテルの窓からながめ。ホテルの室内。バスルームーーー豪華でしょう)


    [No.4956] 続・東ドイツ紀行 34  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/07(Fri) 06:47
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     またまた、ライゼビューローヘ

     まず、ライゼビューロー(国営旅行社)にいく。明日のホテルがマグデブルグに指定されている。誰もこんなところをたのんだ覚えはない。一方的に当てがわれたのだ。明日はベルリン見物を予定しているのにそんなところに泊まったら不便だ。大体、マグデブルグになにがあるというのだ。昔、教科書に、この街で、真空の実験をするために馬で空気を抜いた玉を両方からひっぱったという話がでていたが、私がこの街について知っていることといえばこれだけだ。

     ライプツイッヒのライゼビューローには例によっておばちゃんがいて「分かりました。ベルリンにきいてみましょう。但しベルリンのホテルはみんな高いですがよろしいですね。いえ、差額を払っていただくという訳にはいかないのです。一旦全額支払っていただいてマグデブルグのクーポンは日本へ帰ってから払い戻してもらっていただくことになりますが」。と分かりやすい英語で応じてくれた。なんでもいいからとにかくベルリンに泊まりたいというと、20分ぐらいあちこち精力的に電話をかけていたが、「アイアムソーリー、ベルリン市内のホテルはすべて満員です」とのこと。丁寧にお礼をいってライゼビューローを後にした。やはり「メーデー」ウイークで、首都のホテルは混んでいたのであろう。

     聖トマス教会にて

     街を歩いてみる。若いひとが多い。服装もなかなか垢抜けしている。本屋、楽譜屋がめだつ。たしか、ペーター版、レクラム文庫の「発祥の地」のはず。楽譜屋さんには、モーツアルト、ベートーベン、バッハ、メンデルスゾーンなどの古典が多い(ただ、日本の古本屋で買える「昔のペーター版」にくらべ紙質がよくない)。なお、この街にきてからヴァイオリン抱えた子供によくあう。クラシック音楽は盛んのようだ。
     また、本屋さんにはコンピューター関連のものが目につく。この国は今、国をあげてハクテク化に取り組んでいるのだ。しかし、これは「専制主義国家」にとっては「危険な徴候」と私には見えた。
     先ず、聖トマス教会へ。ここには、ヨハン・セバスチャン・バッハが1723年から世を去るまでつとめていた。沢山の名曲を残しており、今もここに眠っている。祭壇に墓標があり、赤いバラが手向けてあった。  一体、幾度、バッハの音楽に慰められたことだろう。きっと、この後もまた。
     ここのバッハの像は、少し庶民的で世帯やつれしているような表情をしている。子沢山の上,内弟子さんもいて、扶養家族が多かったので、楽長さんもラクではなかったのであろう。
     幸いにして、今回の旅ではアイゼナッハ、ワイマール、ライプツィヒと、ケーテンをのぞきバッハの足跡をすべてたどることができた。
     ここで、はじめて、日本人観光客に出会う。新婚らしいカップルで当地のガイドを連れている。ガイドは英語で解説していた。聖トマス教会は小さいが、すきっとしたゴチック建築でステンドグラスも美しい。


    [No.4955] 続・東ドイツ紀行 33  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/06(Thu) 09:45
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     私が乗換案内担当です

     さて、駅で、番線を調べようと思ったのに、電光掲示板が見つからない。そこで、インフォーメーション・オフイスへ行ってみた。部屋の壁に、時刻表などが貼り付けてあって、私としてはそれで用は足りたが、ふと、カウンターの向こうにいる中年の制服を着た女性が、旅行者へ説明をしているのを見て、びっくりした。
     手をヒザに乗せて、何も見ないで説明をしているのだ。ドイツ語はわからなくても「鉄道用語」はある程度理解できるので聞いていると「次の駅で降りたら、右の方に行きなさい。そこに連絡階段があるから、そこから4番線へいきなさい」などと話している。
     この方、まったく目が見えないらしい。
     東ドイツの鉄道時刻表をすべて暗記しておられるのだ。そして、お客さんにわかりやすく説明して上げている。感動した。覚える努力も大変なものだが、そのいう才能のある障害者に活躍の場を与えているこの国に 大いに感動した。(もっとも、今は、コンピューターが全てやってくれるのだろうが)

    ライプツィヒ市民はホテルメルクアを見上げる

     急行に乗ればライブツィヒまでは1時間半でいく。小さい国なので大都市相互の距離は、ほとんど2時間か3時間以内だから移動にはあまり時間をとられない。列車がライブツィヒにさしかかると早くも車窓から天高くそびえるホテルメルクア(Mercury・水星)が目に飛び込んでくる。中央駅のすぐわきにあり27階建、高さ100m。泊まるのが気恥ずかしくなるようなごたいそうなホテルだ。これが、今夜の宿泊ホテルとして「指定されている」ホテルなのだ。本当はクラシックホテルが好きなのだが、当時は観光客には「ホテルを選ぶ自由がなかった」のだから仕方がない。勇気をふるってフロントに近づく。厳かに、且つ、にこやかに迎えられた。
     このホテル、5年前、鹿島建設の施工により完成、エレベーターは三菱電機の高速用が据付られている。単に入れ物だけでなく、ホテルのソフトも日本流だ。部屋には小型冷蔵庫、いわゆるミニバーがあり、ちゃんと伝票とエンピツが置いてある。廊下の大型冷蔵庫には、ミズワリには欠かせないアイスキューブがたっぷりと入っている。トイレットは消毒済みのシールで封印されている。ドアのノブにかける「DO NOT DISTURB」の札も独、英、露、仏、西とあって最後は「起こさないでください。就寝中のため」という日本語である。MESSEのときなどにやってくる西側のビジネスマン向けで、おそらく日本の商社マンも利用するのであろう。
     ここにはプールはいうにおよばずサウナからフィットネスクラブまであるそうだ。正に至れりつくせりの感がある。 
     どうやら、我々の知っている以上に、日本と東ドイツの、産業・経済協力関係は進んでいたようだ。
     立派なものを作るとなればとことん立派にしないと気が済まないというのもやはりドイツ式である。ここだけは、超一流だけあって朝食も例の8マルクの枠はなく食べ放題の由。

     (写真 駅舎はパッといないが、車内は結構立派でした)


    [No.4954] 続・東ドイツ紀行 32  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/05(Wed) 07:35
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     社会主義国のボナペテ

     とにかく、おなかがすいた。ドレスデンの駅には、セルフサービスのものを含めて3つのレストランがある。 この日は中級のレストランヘいってみた。隣のテーブルのひとが、大皿に焼肉やサラダを山盛りにした料理をもらっているのが美味しそうにみえたので、蝶ネクタイに白の上着のウエイターに手真似をまじえて注文した。彼は運んできた料理をテーブルにならべると「ボナペテ、マダム」といった。もちろん、お勘定のとき、これに、見合ったチップを置いたことはいうまでもない。
     江国 滋氏の「旅はプリズム」という本は、同氏が東ドイツ政府に招待されたときの旅行記であるが、このなかに、レストランが満員であやうく食事をしそこねる話、ウエイトレスの態度が悪くて腹をたてる話か再三でてくる。今回の旅行中、そんなことはまったく経験しないですんだ。1976年当時は、江国 滋氏のような招待客であり現地のガイドに四六時エスコートされていたひとでも、こうだったのだから、事情がわるかったのであり、ここ数年で大幅に好転したのであろう。
     目下、国をあげてサービス改善に精一杯努力していることはよくわかる。たとえば、インターホテルなどでは、日本の会社のように従業員が胸に名札をつけており、「万一、応対の悪いものがおりましたら名札の名前をみておいてマネージャーまでご一報ください」という掲示がでていたり、例の「バスルームの清掃 1、よい  2、ふつう 3、わるい」といつたスタイルのアンケートがライティングデスクに置いてあったりするのだから。
     そのうえ商店でも、郵便局にも、「この窓口は何曜日は何時から何時まで開いています」ということが明記してあり、しかも私の経験では間違いなくその時刻には係員がいた。
     でも、ボナペテ、マダムは一寸意外であった。

     それから、もう一つ、気がついたのは、到着した日には、注文した料理には、たしかにトマトやレタスなどの生野菜のサラダがついていたが、二日目以降サラダはこの国のレストランというレストランから一斉に姿を消した。それがこの日、ドレスデンで「復活」したのである。東ドイツのテレビニュースでは「チェルノブイリの事故」については、あまり取り上げていなかったようだが、密かに国民の健康を心配していたのであろうと思う。そして、おそらく「汚染度の低い野菜の確保」に目途が立ったのではないかと思う。

     (写真は「北のフィレンツェといわれた美しいドレスデンの街」)


    [No.4953] 続・東ドイツ紀行 31  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/04(Tue) 06:46
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     市電の運転手は困惑する

     ここは、まったくの草はらでなんにもない。ベンチに座ってのんびりと川をみていた。さて、帰るとなると、ここはどこなのか、どうやったらドレスデンに戻れるのか、さっぱり分からない。ちょっと心細くなった。 
      
     でも、船着場がある以上街が近くにあるに違いない。そう思って家のある方向にどんどん歩いていった。びっくりするほど立派な家が立ち並んでいる。どの家も庭が広く季節の花が咲きみだれている。社会主義国家にも高級住宅地があることを初めて知った。地方都市だから政府高官の家のはずはない。
    ドレスデンは工場の多いところだから、おそらく国営企業のエライサンの住宅なのだろう。

     更に進むと市電がみえた。シメタ!これで安心だ。運転手さんに「この電車は駅にいきますか」ときくと、「何処の駅にいきたいのか」ときく。「どこでもいいから最寄りの国鉄の駅までいきたい」−−−といえるほど、じつはドイツ語はできない。運転手も困ってしまったようだ。もじもじしていると市電はいってしまった。5分ほどしてまたきた。同じように「バーンホッフにいくか」ときくと手真似で乗れと合図する。
     市電は、住宅地をぬけ、工寒地帯を通り、労働者住宅らしい団地(先程の高級住宅とは大分違う。社会主義国にも歴然と格差は存在する)の前を通ってえんえんと走った。

     おかげでドレスデンの市内見学ができた。しかも、観光バスではみられない街の様子がよくわかった。 スポーツセンターの前を通り電車はとうとうドレスデン中央駅に到着した。やれやれ助かった。少し川べりを散歩してホテルへ戻った。預けておいた荷物を受け取るとライブツィヒに向かうべく駅へいった。

     (写真は、エルベ川の風景です)


    [No.4952] Re: 続・東ドイツ紀行 30  (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/10/03(Mon) 08:51
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     遊んでくれた子どもたちの先生と一緒に


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