Re: イレギュラー虜囚記(その2)
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イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/8 22:02)
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あんみつ姫
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吉 林 駅 二十年八月下旬
日本軍の集結は、八月下旬、ほぼ完了。各隊は、師道大学のラーゲリ《捕虜収容所》ヘ。後は、何本もあるプラットホームに山のように残された食糧、被服等の物資搬出作業のみ。自然に、ソ軍の将校や兵隊と親しくなり、話が弾む。
先ず最初は、独ソ戦に参加したのが彼らのご自慢で、従軍記章や叙勲証明書を見せる。続いて、カチューシャ《ソ連製多連装ロケット発射機》には驚いたろうの、赤軍の戦車、大砲はどうだの、飛行機は素晴らしいだろうのと得意満面。感心して見せると相好を崩して喜ぶ。
何処でロシヤ語を習ったかと必ず訊く。インスティチュートだと言うと、例外なくオゥ~と驚いて顔を見直す。
十数年教育を受けた人間が、下級将校でいるのが不思議な様子。このあたりが兵隊クラス。
セルジャント(下士官)になると少々程度が上って、モスクワで宴会のつもりのドイツ軍が、赤軍に叩かれてベルリンで葬式をやった、日本はスターリングラードの陥落を待ってウラルでシペリヤを二分する計画だったが、ソ連に刃向う奴は皆日独のように撲り倒される。
「ビトヴア オーゼロハサン」「ビトヴア ハルヒンゴール」でコテンパンにやられたろと、張鼓峯事件やノモンハン事件を持ち出す。五年以内に米ソ戦が始まるが、米軍など物の数ではないと力んでいる。
しかし、どの戦車も、砲塔にクラッチ板の予備を数枚ブラ下げているようでは心許ない。自慢のカチューシャ砲も搭載車輌は全てアメリカのスチエードベーカー。兵食《兵隊の食料》の中心は米国の豚缶ではどうだか。
吉林方面は、沿海州《ロシア極東日本海に面したプリモリスキー地方》から侵入した部隊が多く、彼らはケーニヒスペルグ(註=現ロシア領カリユーングラード)を攻略して、さあ、次はベルリンと思っていたら、貨車に詰め込まれて遥々極東まで来た。訳の分からぬうちに八月八日の夜、命令をもらって満洲に進撃したということで、ドイツに対するような敵愾心は殆んど持っていない。
大抵の兵隊がケーニヒスペルグ攻略記念章を持っているところを見ると、どうやらソ連はメダル製造だけは素早いようだ。兵隊を褒める最良の手段か。
綏芬河《すいふんかわ=ロシア沿海州との中国の国境の町》に入った部隊は、日本軍国境守備隊の糧秣、被服の量に驚いたらしい。トラックで一週間かかって運び出しても運び切れなかったとか。
進撃途上の日本軍倉庫で酒や缶詰を腹一杯飲み食いしたが、日本軍の兵器の少なさと貧弱さにこれまた吃驚したらしい。
赤軍の兵、下士官は総じて幼稚、無学だが、将校の中には眞当な者もいる。日本軍は携帯天幕の控え杙《くい》まで持たせるのか。木の枝で間に合うだろう。それより良い兵器を持たねばと笑った将校がいたが、彼の攻略予定地囲を見ると、我が方の配置が一目瞭然。四、五月に内地防衛で移動した師団名まで記入されていてがっくりした。
ソ連軍の連中と付き合っていると段々、我が陸軍の形式主義が目につき出した。第一、戦闘には役に立たない軍刀やゴボウ剣を常時プラ下げていたこと。
だん袋《布製の大きな袋》に穴を開け、袖を縫い付けただけのルパシカ《ロシア民族衣装》型軍服と、丁寧な仕立ての五つボタンの軍服。縫製の手数は五倍は違う。信玄袋《旅行用の手提袋》に負い紐を付けただけの背嚢《はいのう=背負いカバン》と毛皮で被われた箱型背嚢。
日本の輜重隊にも、帯のように長い布製の背負袋があり、斜(はす)に肩から掛けて胸元で結ぶという甚だ不格好なものだが、何でもぶち込めるし、馬の鞍や輜重車の端に括り付けることが出来て便利だった。
作戦要務令《注》の第一条かに、「軍ノ主トスルトコロハ戦闘ナリ。諸事戦闘ヲ以テ旨トスヘシ」とか書いてあったようだが、どうも我が国の軍隊は剣付き鉄砲を担いだ観兵式用軍隊だったらしい。
ソ連の兵器は実戦向きだ。自動小銃(アフトマット)の銃身は、旋盤で削り出した筋がそのまま。照星は針金を輪切りにしてチョンとくっつけただけ。中には斜め切りのもある。狙い定めて射つわけではないから、これでよし。弾丸は将校の拳銃と共通になっており、有効射程二百米。
目標を狙うのは、一ヶ分隊に二、三人いる狙撃兵。銃は日本の三八式と同じ元込め五発。焼き肉用の串みたいな折り畳み式銃剣が取り付けてある。親しくなると、自動小銃や拳銃を自由に射たせてくれる。
いいところを見せようと、拳銃を顔に近付けて狙い射ちをしたら、空薬莢が真上に飛びだ出しオデコにコツン。血が出た。
薬莢は斜め右にハネ出すものだが、真上の方が工作し易く、故障が少ないのかも知れぬ。こんなことをやっているうちに、先方も段々本音を洩らすようになる。
関東軍の兵隊は完全武装で一日70粁歩くと教えられて、角でも生えているのかと思ったぜとか、五月の赤の広場での対独戦勝パレードでは、銃口にグリスを詰め込まされたと片目をつぶって、ニヤツと笑ったのもいた。
カラバエフ少佐の補佐官で、例のキビキビしたプーシキン大尉が言う「あそこで働いている日本兵を見よ。何と軍紀厳正で逞しい兵隊達だ。それに比べて赤軍の兵隊は全く駄目。どうしてこんな立派な兵隊に兵器を与えなかったのか。
現代戦は技術戦(テクニカ)だ。テクニカの無い軍隊は兵員を揃えても戦力にはならぬ。先ず空軍で叩く、次に砲兵、戦車で叩き、迫撃砲と重機で火点を潰す。然る後、無人の野を歩兵が行く。これが戦闘だ」と。
当方声無し。「独乙軍はどうだ」「独乙軍は体格も良いしなかなか強い。ただし、強いのは飛行機、戦車、砲兵が揃っていて、調子良く進撃している間だけで、勝ちに乗じては実に強いが、いったん押され気味になると全く脆い。
主兵器がやられると忽ち降伏する部隊が続出する。戦闘教令に無い状況が生じると、すぐ混乱を起す。
その点、赤軍は臨機応変、大いに戦った。独乙軍に比べると日本兵は問題なく強い。最後まで頑張る。惜しい軍隊だった」とベ夕ぼめ。ただし、戦車に対する肉迫攻撃は無謀だと顔をしかめる。
その後いろいろな将校や兵隊とも話したが、スメルニキ(特攻)は無駄な人殺しだ、スメルニキに出れば遺族に金が支払われるのかと訊く奴もいた。ソ連では死刑囚を使ったことがあるらしい。
八月も終りに近付くと殆んど用件はない。有馬兵長が運ちゃんに金を握らせてスチユードベーカーで駅へ来た。ラーゲリでは将校と兵、下士官は完全に分離され、糧秣等の物資は一括して倉庫に保管するので、私物も何もあったものではない。
食糧は一日二回、粥だけだから、ラーゲリ行きは成るべく遅らせて、ここでうんと食っておくのがよいと恐るべき情報を持って来た。
駅では食糧山積、食べ放題、ゼンザイ、ボタ併、カツレツと豪華版で、演芸会もやって呑気なもの。日本人の居留民にも、歩哨(チョサボイ)に隠れて食糧を分けてやるが、荷車も使えず、担いで行くわけにもいかず、大した分量にはならぬ。
夜間は発見されると間違いなく射殺。何とも気の毒なことだ。
(つづく)
注 帝国陸軍において 陣中勤務や諸兵科の戦闘について訓練方式 等を示した 軍令
日本軍の集結は、八月下旬、ほぼ完了。各隊は、師道大学のラーゲリ《捕虜収容所》ヘ。後は、何本もあるプラットホームに山のように残された食糧、被服等の物資搬出作業のみ。自然に、ソ軍の将校や兵隊と親しくなり、話が弾む。
先ず最初は、独ソ戦に参加したのが彼らのご自慢で、従軍記章や叙勲証明書を見せる。続いて、カチューシャ《ソ連製多連装ロケット発射機》には驚いたろうの、赤軍の戦車、大砲はどうだの、飛行機は素晴らしいだろうのと得意満面。感心して見せると相好を崩して喜ぶ。
何処でロシヤ語を習ったかと必ず訊く。インスティチュートだと言うと、例外なくオゥ~と驚いて顔を見直す。
十数年教育を受けた人間が、下級将校でいるのが不思議な様子。このあたりが兵隊クラス。
セルジャント(下士官)になると少々程度が上って、モスクワで宴会のつもりのドイツ軍が、赤軍に叩かれてベルリンで葬式をやった、日本はスターリングラードの陥落を待ってウラルでシペリヤを二分する計画だったが、ソ連に刃向う奴は皆日独のように撲り倒される。
「ビトヴア オーゼロハサン」「ビトヴア ハルヒンゴール」でコテンパンにやられたろと、張鼓峯事件やノモンハン事件を持ち出す。五年以内に米ソ戦が始まるが、米軍など物の数ではないと力んでいる。
しかし、どの戦車も、砲塔にクラッチ板の予備を数枚ブラ下げているようでは心許ない。自慢のカチューシャ砲も搭載車輌は全てアメリカのスチエードベーカー。兵食《兵隊の食料》の中心は米国の豚缶ではどうだか。
吉林方面は、沿海州《ロシア極東日本海に面したプリモリスキー地方》から侵入した部隊が多く、彼らはケーニヒスペルグ(註=現ロシア領カリユーングラード)を攻略して、さあ、次はベルリンと思っていたら、貨車に詰め込まれて遥々極東まで来た。訳の分からぬうちに八月八日の夜、命令をもらって満洲に進撃したということで、ドイツに対するような敵愾心は殆んど持っていない。
大抵の兵隊がケーニヒスペルグ攻略記念章を持っているところを見ると、どうやらソ連はメダル製造だけは素早いようだ。兵隊を褒める最良の手段か。
綏芬河《すいふんかわ=ロシア沿海州との中国の国境の町》に入った部隊は、日本軍国境守備隊の糧秣、被服の量に驚いたらしい。トラックで一週間かかって運び出しても運び切れなかったとか。
進撃途上の日本軍倉庫で酒や缶詰を腹一杯飲み食いしたが、日本軍の兵器の少なさと貧弱さにこれまた吃驚したらしい。
赤軍の兵、下士官は総じて幼稚、無学だが、将校の中には眞当な者もいる。日本軍は携帯天幕の控え杙《くい》まで持たせるのか。木の枝で間に合うだろう。それより良い兵器を持たねばと笑った将校がいたが、彼の攻略予定地囲を見ると、我が方の配置が一目瞭然。四、五月に内地防衛で移動した師団名まで記入されていてがっくりした。
ソ連軍の連中と付き合っていると段々、我が陸軍の形式主義が目につき出した。第一、戦闘には役に立たない軍刀やゴボウ剣を常時プラ下げていたこと。
だん袋《布製の大きな袋》に穴を開け、袖を縫い付けただけのルパシカ《ロシア民族衣装》型軍服と、丁寧な仕立ての五つボタンの軍服。縫製の手数は五倍は違う。信玄袋《旅行用の手提袋》に負い紐を付けただけの背嚢《はいのう=背負いカバン》と毛皮で被われた箱型背嚢。
日本の輜重隊にも、帯のように長い布製の背負袋があり、斜(はす)に肩から掛けて胸元で結ぶという甚だ不格好なものだが、何でもぶち込めるし、馬の鞍や輜重車の端に括り付けることが出来て便利だった。
作戦要務令《注》の第一条かに、「軍ノ主トスルトコロハ戦闘ナリ。諸事戦闘ヲ以テ旨トスヘシ」とか書いてあったようだが、どうも我が国の軍隊は剣付き鉄砲を担いだ観兵式用軍隊だったらしい。
ソ連の兵器は実戦向きだ。自動小銃(アフトマット)の銃身は、旋盤で削り出した筋がそのまま。照星は針金を輪切りにしてチョンとくっつけただけ。中には斜め切りのもある。狙い定めて射つわけではないから、これでよし。弾丸は将校の拳銃と共通になっており、有効射程二百米。
目標を狙うのは、一ヶ分隊に二、三人いる狙撃兵。銃は日本の三八式と同じ元込め五発。焼き肉用の串みたいな折り畳み式銃剣が取り付けてある。親しくなると、自動小銃や拳銃を自由に射たせてくれる。
いいところを見せようと、拳銃を顔に近付けて狙い射ちをしたら、空薬莢が真上に飛びだ出しオデコにコツン。血が出た。
薬莢は斜め右にハネ出すものだが、真上の方が工作し易く、故障が少ないのかも知れぬ。こんなことをやっているうちに、先方も段々本音を洩らすようになる。
関東軍の兵隊は完全武装で一日70粁歩くと教えられて、角でも生えているのかと思ったぜとか、五月の赤の広場での対独戦勝パレードでは、銃口にグリスを詰め込まされたと片目をつぶって、ニヤツと笑ったのもいた。
カラバエフ少佐の補佐官で、例のキビキビしたプーシキン大尉が言う「あそこで働いている日本兵を見よ。何と軍紀厳正で逞しい兵隊達だ。それに比べて赤軍の兵隊は全く駄目。どうしてこんな立派な兵隊に兵器を与えなかったのか。
現代戦は技術戦(テクニカ)だ。テクニカの無い軍隊は兵員を揃えても戦力にはならぬ。先ず空軍で叩く、次に砲兵、戦車で叩き、迫撃砲と重機で火点を潰す。然る後、無人の野を歩兵が行く。これが戦闘だ」と。
当方声無し。「独乙軍はどうだ」「独乙軍は体格も良いしなかなか強い。ただし、強いのは飛行機、戦車、砲兵が揃っていて、調子良く進撃している間だけで、勝ちに乗じては実に強いが、いったん押され気味になると全く脆い。
主兵器がやられると忽ち降伏する部隊が続出する。戦闘教令に無い状況が生じると、すぐ混乱を起す。
その点、赤軍は臨機応変、大いに戦った。独乙軍に比べると日本兵は問題なく強い。最後まで頑張る。惜しい軍隊だった」とベ夕ぼめ。ただし、戦車に対する肉迫攻撃は無謀だと顔をしかめる。
その後いろいろな将校や兵隊とも話したが、スメルニキ(特攻)は無駄な人殺しだ、スメルニキに出れば遺族に金が支払われるのかと訊く奴もいた。ソ連では死刑囚を使ったことがあるらしい。
八月も終りに近付くと殆んど用件はない。有馬兵長が運ちゃんに金を握らせてスチユードベーカーで駅へ来た。ラーゲリでは将校と兵、下士官は完全に分離され、糧秣等の物資は一括して倉庫に保管するので、私物も何もあったものではない。
食糧は一日二回、粥だけだから、ラーゲリ行きは成るべく遅らせて、ここでうんと食っておくのがよいと恐るべき情報を持って来た。
駅では食糧山積、食べ放題、ゼンザイ、ボタ併、カツレツと豪華版で、演芸会もやって呑気なもの。日本人の居留民にも、歩哨(チョサボイ)に隠れて食糧を分けてやるが、荷車も使えず、担いで行くわけにもいかず、大した分量にはならぬ。
夜間は発見されると間違いなく射殺。何とも気の毒なことだ。
(つづく)
注 帝国陸軍において 陣中勤務や諸兵科の戦闘について訓練方式 等を示した 軍令
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あんみつ姫