Re: イレギュラー虜囚記(その2)
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イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/8 22:02)
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Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/8 22:08)
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Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/9 14:38)
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Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/9 14:56)
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- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/13 16:19)
- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/13 16:25)
- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/16 12:40)
- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/16 12:47)
- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/16 12:51)
- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/16 12:58)
- Re: イレギュラー虜囚記(その2) (あんみつ姫, 2007/12/16 13:05)
あんみつ姫
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ラーゲリ生活の始まり 二十年九月中旬~下旬
ラーゲリの師道大学《吉林市にあった日本国立の師範学校》 は吉林市の西部にあり、門を入った正面の本館がソ連軍本部、右の三階建が日本軍将校宿舎、左手の大講堂が駅から運ばれた糧秣被服倉庫、その向うの並木道を隔てて下士官、兵の宿舎、更に向うの師道大学にも兵隊が充満している。
将校宿舎は大佐から大尉までが三階、中少尉が二階で、将校団長は吉田大佐。日本側連絡将校が門田参謀。副官は甲が少佐、乙が大尉、丙が少尉、当番兵は廊下で寝て、准尉が当番長。自分は一応甲副官付になった。
三階は机を寝台代りにし、二人に一人の当番兵が付く。二階はコンクリ床で、頭を壁に向けてザコ寝。当番兵は五人に一人。飯上げの世話をしてくれる。自分は歩兵275連隊の利根川中尉(註=伊藤清久の葬儀に参列してくれた)、鈴木中尉、年配の松村通訳官等のグループに入った。
松村老は大阪外語の出身で、一日中芸者遊びの話ばかりしている。吉林駅で、満洲製鉄の帽子を被ったオヤジが、朝鮮人參をサイダー瓶に入れて、不老不死、エネルギーの素とか言って我々にもロスケにも飲ませていたのがこの人であった。
彼らがラーゲリに入った時、将校が集められて、赤軍の大尉から、「大キイ地図、小サイ地図、軍刀、メガネ、写真機出シナサイ。今日カラアナタ達ハ、ホリョデス」とやられ、何だ捕虜とは、約束が違うと騒いだが、処置なしと諦めたとか。
門田参謀に頼まれて二人で収容所長に会い、軍刀は私物で官給品ではないので返却され度いと申し入れたが、温厚な所長から、赤軍の兵隊は子供ばかりだから、諸君の軍刀が怖くて発砲でもしたら大変。当分預かっておくと、体よくいなされた。
ロスケ《ロシア人(軽蔑の呼び名)》というか、ソ連というか、戦に勝ったら、官物だろうが私物だろうが、底の底まで掻っ払い、生き残った男は奴隷、女は慰みものにするという中世のヨーロッパかモンゴルの伝統?を保っているとは夢にも思わず呑気なことであった。
間もなく、日本軍各兵科将校から編成、戦術、教育訓練要領等を聞き取る調査が始まった。自分はこのために司令部から移されたらしい。東外《東京外語専門学校-》や大外《大阪外語専門学校》、天理《天理外語専門学校》の連中も居たようだが、ヒヤリングが駄目だし、マーシャ等の力では手に負えない。
といって、当方もキチンと軍事露語など話せないが、八杉や松田の辞書を彼女に借りて間に合わせた。
午前午後三時間ずつ、中隊長、連隊長クラスからの聞き取りがあって苦労した。125師団砲兵隊に四一山砲《口径41センチの大砲》二門、弾薬千四百発しかなかったのには、ソ側も自分も開いた口が塞がらなかった。
最もうるさかったのはガス兵教育、フラルキ《中国吉林省チチハルの郊外にある町》の化兵《化学兵器の教育をする集団》教育隊のことを根掘り葉掘り訊いていた。
三階の田中隊長と相談して、関東軍研究部(対ソ連軍無線傍受隊)の渡辺少佐とも口裏を合わせ、特情関係は方向探知までとし、暗号解読は伏せることにした。さらに隊長、有馬兵長とは同部隊であることも秘匿した。
これは、二年後まで親友のように付き合ったスプルネンコ大尉の忠告による。
彼と話をしていて無線傍受、暗号解読は何処の近代的軍隊でも当然行っていることだという自分の主張に対し、彼はそれはそうだが、ダモイ《帰国》が遅くなるから絶対に口外するなと真剣な面持ち。
おかげで「スパイ活動25年の刑」など馬鹿バカしい判決は受けないで済んだ。海林《牡丹江の西にある街》飛行場大隊通信小隊長ということにした。
聞き取り調査を受ける将校以外の者は毎日、することがない。食糧も、ソ側が理解して充分配給してくれるし、(本来日本軍の物だ。ロスケも一緒に食っている)バレーをやったり、駆け足したりしている。
だんだん軍紀なるものが緩んで、髪を伸ばし始めた少尉が、陸士出《陸軍士官学校出身》の少佐と大喧嘩を始めたり、将校団本部からの日日命令に「敬礼の厳正」が出て中少尉に反感を持たれたりした。
三階の連中は屋上で、当番兵は廊下で、毎朝軍人勅諭を奉唱していたが、二階は知らん顔。噂では、天皇が退位されて皇太子が即位、秩父宮が摂政になられて元号は大新と改まったという。
尤もらしい元号なので、暫くの間、大新元年九月×日「日日命令」などとやっていた。
アッツ島の山崎部隊長《アッツ島守備隊長で戦死した》が米軍の捕虜になっていたとか、杉野兵曹長《注》が生きているというのもあった。
(つづく)
注 日露戦争時 旅順港閉鎖を目的に商船を港の出入り口に沈めた 時 戦死と認定された海軍軍人
ラーゲリの師道大学《吉林市にあった日本国立の師範学校》 は吉林市の西部にあり、門を入った正面の本館がソ連軍本部、右の三階建が日本軍将校宿舎、左手の大講堂が駅から運ばれた糧秣被服倉庫、その向うの並木道を隔てて下士官、兵の宿舎、更に向うの師道大学にも兵隊が充満している。
将校宿舎は大佐から大尉までが三階、中少尉が二階で、将校団長は吉田大佐。日本側連絡将校が門田参謀。副官は甲が少佐、乙が大尉、丙が少尉、当番兵は廊下で寝て、准尉が当番長。自分は一応甲副官付になった。
三階は机を寝台代りにし、二人に一人の当番兵が付く。二階はコンクリ床で、頭を壁に向けてザコ寝。当番兵は五人に一人。飯上げの世話をしてくれる。自分は歩兵275連隊の利根川中尉(註=伊藤清久の葬儀に参列してくれた)、鈴木中尉、年配の松村通訳官等のグループに入った。
松村老は大阪外語の出身で、一日中芸者遊びの話ばかりしている。吉林駅で、満洲製鉄の帽子を被ったオヤジが、朝鮮人參をサイダー瓶に入れて、不老不死、エネルギーの素とか言って我々にもロスケにも飲ませていたのがこの人であった。
彼らがラーゲリに入った時、将校が集められて、赤軍の大尉から、「大キイ地図、小サイ地図、軍刀、メガネ、写真機出シナサイ。今日カラアナタ達ハ、ホリョデス」とやられ、何だ捕虜とは、約束が違うと騒いだが、処置なしと諦めたとか。
門田参謀に頼まれて二人で収容所長に会い、軍刀は私物で官給品ではないので返却され度いと申し入れたが、温厚な所長から、赤軍の兵隊は子供ばかりだから、諸君の軍刀が怖くて発砲でもしたら大変。当分預かっておくと、体よくいなされた。
ロスケ《ロシア人(軽蔑の呼び名)》というか、ソ連というか、戦に勝ったら、官物だろうが私物だろうが、底の底まで掻っ払い、生き残った男は奴隷、女は慰みものにするという中世のヨーロッパかモンゴルの伝統?を保っているとは夢にも思わず呑気なことであった。
間もなく、日本軍各兵科将校から編成、戦術、教育訓練要領等を聞き取る調査が始まった。自分はこのために司令部から移されたらしい。東外《東京外語専門学校-》や大外《大阪外語専門学校》、天理《天理外語専門学校》の連中も居たようだが、ヒヤリングが駄目だし、マーシャ等の力では手に負えない。
といって、当方もキチンと軍事露語など話せないが、八杉や松田の辞書を彼女に借りて間に合わせた。
午前午後三時間ずつ、中隊長、連隊長クラスからの聞き取りがあって苦労した。125師団砲兵隊に四一山砲《口径41センチの大砲》二門、弾薬千四百発しかなかったのには、ソ側も自分も開いた口が塞がらなかった。
最もうるさかったのはガス兵教育、フラルキ《中国吉林省チチハルの郊外にある町》の化兵《化学兵器の教育をする集団》教育隊のことを根掘り葉掘り訊いていた。
三階の田中隊長と相談して、関東軍研究部(対ソ連軍無線傍受隊)の渡辺少佐とも口裏を合わせ、特情関係は方向探知までとし、暗号解読は伏せることにした。さらに隊長、有馬兵長とは同部隊であることも秘匿した。
これは、二年後まで親友のように付き合ったスプルネンコ大尉の忠告による。
彼と話をしていて無線傍受、暗号解読は何処の近代的軍隊でも当然行っていることだという自分の主張に対し、彼はそれはそうだが、ダモイ《帰国》が遅くなるから絶対に口外するなと真剣な面持ち。
おかげで「スパイ活動25年の刑」など馬鹿バカしい判決は受けないで済んだ。海林《牡丹江の西にある街》飛行場大隊通信小隊長ということにした。
聞き取り調査を受ける将校以外の者は毎日、することがない。食糧も、ソ側が理解して充分配給してくれるし、(本来日本軍の物だ。ロスケも一緒に食っている)バレーをやったり、駆け足したりしている。
だんだん軍紀なるものが緩んで、髪を伸ばし始めた少尉が、陸士出《陸軍士官学校出身》の少佐と大喧嘩を始めたり、将校団本部からの日日命令に「敬礼の厳正」が出て中少尉に反感を持たれたりした。
三階の連中は屋上で、当番兵は廊下で、毎朝軍人勅諭を奉唱していたが、二階は知らん顔。噂では、天皇が退位されて皇太子が即位、秩父宮が摂政になられて元号は大新と改まったという。
尤もらしい元号なので、暫くの間、大新元年九月×日「日日命令」などとやっていた。
アッツ島の山崎部隊長《アッツ島守備隊長で戦死した》が米軍の捕虜になっていたとか、杉野兵曹長《注》が生きているというのもあった。
(つづく)
注 日露戦争時 旅順港閉鎖を目的に商船を港の出入り口に沈めた 時 戦死と認定された海軍軍人
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あんみつ姫