特攻インタビュー(第7回)・その14
投稿ツリー
-
特攻インタビュー(第7回) (編集者, 2012/6/15 6:39)
- 特攻インタビュー(第7回)・その2 (編集者, 2012/6/16 6:46)
- 特攻インタビュー(第7回)・その3 (編集者, 2012/6/17 6:36)
- 特攻インタビュー(第7回)・その4 (編集者, 2012/6/18 6:38)
- 特攻インタビュー(第7回)・その5 (編集者, 2012/6/19 6:40)
- 特攻インタビュー(第7回)・その6 (編集者, 2012/6/20 6:36)
- 特攻インタビュー(第7回)・その7 (編集者, 2012/6/21 6:11)
- 特攻インタビュー(第7回)・その8 (編集者, 2012/7/4 8:44)
- 特攻インタビュー(第7回)・その9 (編集者, 2012/7/5 6:43)
- 特攻インタビュー(第7回)・その10 (編集者, 2012/7/6 7:41)
- 特攻インタビュー(第7回)・その11 (編集者, 2012/7/7 8:46)
- 特攻インタビュー(第7回)・その12 (編集者, 2012/7/8 6:44)
- 特攻インタビュー(第7回)・その13 (編集者, 2012/7/9 6:36)
- 特攻インタビュー(第7回)・その14 (編集者, 2012/7/10 6:38)
- 特攻インタビュー(第7回)・その15 (編集者, 2012/7/11 6:19)
- 特攻インタビュー(第7回)・その16 (編集者, 2012/7/12 8:23)
- 特攻インタビュー(第7回)・その17 (編集者, 2012/7/14 8:12)
- 特攻インタビュー(第7回)・その18 (編集者, 2012/7/15 7:31)
- 特攻インタビュー(第7回)・その19 (編集者, 2012/7/16 7:03)
- 特攻インタビュー(第7回)・その20 (編集者, 2012/7/17 6:50)
- 特攻インタビュー(第7回)・その21 (編集者, 2012/7/18 6:43)
- 特攻インタビュー(第7回)・その22 (編集者, 2012/7/20 6:46)
- 特攻インタビュー(第7回)・その23 (編集者, 2012/7/21 7:44)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
海軍航空特攻 野口 剛氏
◆終戦と復員で心が崩れかける
--------昭和20年8月15日の玉音放送はお聞きになりましたか?
野口‥聞きましたが、訳が分からなかったですね。ジャリジヤリと雑音がひどく聞き取れなかったので、「一生懸命やれ」というふうに理解して猛訓練に入りました。そしたら、そうではないということで訓練から攻撃に切り替えようということになりました。太刀洗の陸軍が、「海軍はまだ訓練をしているのですか?爆弾をください」と言いに来ましたね。
--------では、放送を聞いた時に敗けたという意識はなかったわけですか?
野口‥全然なかったですね。その後、軽挙妄動は止めろということを言われ、解散するから自宅へ帰るよう指示が出て帰ったのですが、後ろ髪引かれるような思いでしたね。
--------帰れ、というのは自宅へという意味ですか?
野口‥はい、そうです。
--------帰るにしても、空襲などで交通手段も破壊され、大変だったのではないですか?
野口‥私なんかは、そのまま飛行機で帰れと言われました。ちょうどその時、親は群馬県の桐生にいたのですが、東京なら帰ったことがあるんですが、桐生には帰ったことがなかったので、佐藤少尉(今年の3月に亡くなられた方なのですが) が桐生に住んでいたことがあるというので一緒に帰りました。飛行機に乗って帰っていいと言われたのですが、故障したら困るし、燃料とかもどうしたらよいか分からないので乗っては帰りませんでした。
--------飛行機はどうなったのでしょうか?
野口‥銃弾は海に向かって撃ち込んできました。それで、飛行機はひっくり返して海に放り投げて帰ってきました。
--------九州からの復員の途中、広島や大阪などを通ったと思いますが、廃墟となった街を見てどう思いましたか?
野口‥やっぱりひどいものでしたね。
--------原子爆弾のことは、既にご存じでしたか?
野口‥はい、聞いていました。最初は「新型爆弾」ということで聞いていました。
--------そういう話を開いてアメリカに対して敵愾心を強くしましたか?
野口‥はい、強くなりましたね。大有りでしたね。
--------やり返してやるぞ、というような?
野口‥はい、はい。広島も戦後行ってみてびっくりしました。
--------途中で進駐軍に会いましたか?
野口‥進駐軍には会いませんでした。まだ昭和20年8月19日頃でしたから。拳銃を持ったまま帰りました。その後、9月17日くらいに呼び出しが来て、また築城に行ったんです。行ったら、もう既に兵舎も何も無くなっていました。そこには残務整理の人がいて、お金をもらったんですが、幾らだったか忘れました。その時、4人いたのですが米一俵をもらいました。その帰りに熱海の「志はみや」 (しおみや) という旅館に寄って……今でもありますけど、もらった米がある間……5日間ぐらい 「志はみや」に居て (笑)。お金を使い果たして帰りましたね (笑)。
--------基地にいた頃、一般の人々との接触はありましたか?
野口‥民家にいましたのでありました。
--------戦中と戦後で、国民の態度が変わったと感じたことはありましたか?
野口‥終戦直後の頃にはまだ、何もなかったように思います。ただ、大阪で「敗残兵」と言われて大喧嘩したことはありました。列車で帰る途中、陸軍も一緒に乗っていましたが、乗っていた電車が混んでいて、「敗残兵ばかり乗るから、俺たちが乗れないんだ」と。当時は開けっ放しだった電車の窓から聞こえてきたので喧嘩になりましたね(笑)。
--------軍隊への反感は時間が経つにつれ大きくなっていったのでしょうか?
野口‥そうですね、ありましたね。戦後、民主主義などというそれまでは聞いたこともないような言葉で、これからは一生懸命生きろと言われても、それまで一生懸命、人殺しをやってきたのに、いきなり生きろと言われてもどうしたらよいかというジレンマはありましたね。
--------戦後、いわゆる「特攻崩れ」などという言葉も出てきましたが。
野口‥そうですね。カチンとくるようなこともありましたし、半分崩れちゃったような感じにはなりましたよね。価いっていう感情がなかったので、親も心配しただろうと思いますね。この先どうなってしまうのだろう、と。
--------野口さんも、崩れたような部分がありましたか?
野口‥ええ、ありましたね。怖いものがないから喧嘩でも何でもやっちゃうっていう感じでしたね。
--------野口さんにとって戦争が終わったという実感は、いつ頃、感じたのでしょうか?
野口‥そうですね。家に帰ってノンビリしてからですね。あぁ、これでもう死ななくてすむなと。しかし、すべてのものに手が付けられなかったですね。そこで父の会社に入れてもらったのですが、落ち着いて仕事はできなかったですね。