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 旅行記   2015.1.1更新

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  • [No.4873] 東ドイツ紀行 6 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/06(Tue) 06:51
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    画像サイズ: 960×652 (60kB)
     シェレメチエボ空港の忍耐

     今晩はここ、モスクワ空港でのトランジット泊ということになっている。どこの空港でも、翌朝まで乗り継ぎ便がないときはホテル代など先方もちで泊めてくれる。この制度を利用してヨーロッパの帰途かならずシンガポールやバンコクに寄り道して見聞を広めてくる人もいるとか。特に、アエロフロートは、アジアとヨーロッパの中継地としてモスクワトランジット泊を売り物にしているようだ。しかし、モスクワの場合は「少しの空き時間利用して市内見物」は難しい。

     ターミナルビルの案内標識にしたがって2階にあがってみるとまだ誰も来ていなかった。やがてぞろぞろ30人以上も集まってきた。結局、SU588便の乗客のほとんどがトランジットなのだ。ここには椅子のたぐいがないので立ったままで待つ。30分程してようやく制服の係員がやってきた。ヴォリュームのあるカラダが踵のやたらに細いハイヒールに辛うじて支えられているのが印象的なおばちゃんだった。
     何かいっている。どうやら行列の先頭は誰かときいている様子。本当は私が一番なのだがこんな場面では、奥ゆかしく人に先を譲り、何をどうするのかをよく確かめてからそれにしたがうのが無難なことは何度も経験ずみである。
     そこでわざと後ろのほうへ並んだ。

     ここでは、航空券を見せて乗り継ぎ客であることを確認する。(ここまではアエロフロートの受け持ち)次に、別のカウンターで仮ビザをもらってパスポートを預ける。ここからは、モスクワのトランジットの監督さんへの手に移される。(出入国管理の厳しいソ連でもトランジット泊にはビザを用意していく必要はない)。最後に翌日の出発便ごとに名前を確認してから空港ビルのそとに待機している送迎バスにのせてもらうことになる。しかし喜んではいけない。バスは他の便のお客も待つのである。

     結局、われわれを乗せたバスが空港を離れたのは、実に着陸の3時間後であった。これは、到着客名簿、行き先別乗客名簿、宿泊客名簿がすべて手書きなので記入漏れ、記入相違が何度も起きることによる。何度勘定しても客数が一致しない。すなわち事務疎漏なのである。さらに予定を変更したお客さんなどイレギュラーが発生すると、仕事を中断して別室の上司にお伺いをたてにいってしまうなど、めちゃめちゃ能率が悪いのである。また、手続きの説明をまえもってすることもしないのであった。
    (写真は機内食のメニュー、外国人用です。(ほかにロシア語のものも用意してありました))


    [No.4871] 東ドイツ紀行 5 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/05(Mon) 06:41
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     さて、いよいよ出発

     5月3日(土)くもり、ときどき雨、うすら寒い

     長かった前奏曲もようやく終わり、いよいよ出発の日となった。心も軽く、荷物も軽く(折畳みナイロンバッグには洗面具、最小限の着替え、ショルダーバッグにはカメラと資料、合わせて2・5kg)家をでる。母が西鎌倉の駅まで送ってくれた。大船からは横須賀線・総武線直通の成田行き。

     成田空港27番ゲイトには、13時発SU588便のイリユーシン62Mが待っていた。例の写真でお馴染みの尾翼の下にエンジンを4つ付けた機体である。はじめて乗ってみたが内装はボーイングなどとほぼ同じようなものだ。

     なかは、20%ぐらいの入りでがらんとしている。チェルノブイリ事故の影響であろう。さて、機内食だが材料は成田仕込みながらメニューはロシア風。やっぱりチキンカツがでた。チキンフロートと異名をとるアエロフロートらしくていいのだがメニューに「キエフ風」とあるのが、時節柄一寸気になった。感心なことに、食事のときはかならずワインが一杯だけつく。お酒のお替わり有料。

     スチュアデスさんは美人でサービスも良好。というより、お客さんが少ないからサービスが行き届くのだ。日本の新聞、スポーツ新聞も置いている。さすが「フライデー」はなかった。「何か雑誌を」とお願いすると「今日のソ連」という広報誌を持ってきてくれた。

     映画・イヤホーンのサービスはないが、大部分のお客は、そんなサービスより運賃の安いのを望んでいるはずだ。少なくとも私はそうだ。今日はすいているので3つぐらいの座席を占領してのびのびと横になれた。かくして、モスクワ時間の17時30分、白樺の新線が目に染みるシェレメチエポ空港についた。

     (写真は、機内食のメニュー)


    [No.4868] 東ドイツ紀行 4 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/04(Sun) 07:55
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     とびこんできた不協和音

     しかし、喜んでいる場合ではなかったのである。4月26日、未明に起こった「チェルノブイリ原発大事故」は、史上最悪の原発事故であった。(ただし、ソ連では、組織の末端から書記長へ上がってくる情報は「大した事故ではない」というものばかりだったようだ。ありがち!)最初はいつもの通り「そんな事実はない。西側諸国による悪質なデマである」で片付けようとしていたが、すぐに真相がわかり、世界中のメディアが大きく取り上げるようになっていた。(最初に気がついたのはノルウエーのようであった)。     
     こうなりゃ、ロシア・東欧方面へ旅行する人はガタ減り。フライトもホテルも予約がはいらず、キャンセルの依頼ばかり。当時の新聞を読んでいるとソ連や東欧はまるで永遠に人か住めないような話だったから。ふたりの兄も心配してかわるがわる電話してきて「トマトはよく洗ってたべろ、牛乳はポーランド製かどうかよくみてから飲め、雨が降ったらすぐ傘をさせ」などと忠告してくれた。
     しかし、冷静に考えてみればモスクワもベルリンもチェルノブイリから800km以上離れている。このあたりを5、6日うろうろしただけで健康に影響がでるのならユーラシア大陸は病人だらけになるはずである。なんとなくばかげているので気にせずにでかけることにした。

     写真は当時のイリューシン


    [No.4866] 東ドイツ紀行 3 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/03(Sat) 07:35
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    画像サイズ: 488×350 (46kB)
     そうなれば、コースの変更で対応

     そうはさせない。こちらだって、そう甘くはない。そこで、急遽コースを変更、西ドイツのフランクフルトから入って列車でベブラを経て東ドイツに入り、アイゼナッハ、エルフルト、ワイマール、ドレスデン、ライブツィヒ、ポツダム、東ベルリンを経て西ベルリンヘ、ここから空路フランクフルト経由帰国することにした。こうしてみるとこれはこれでなかなかおもしろそうなコースである。問題は「西ベルリンへ乗り入れている飛行機」である。東西冷戦時代には、西ベルリンの空港を使用できたのは、イギリス、アメリカ合衆国、フランスの3ケ国の航空会社が運航する国際線のみ。ルフトハンザも、アエロフロートも飛ばせてもらえなかった。そうなると、こちらも帰路も列車に頼らざるをえない。
     冷戦とは、かくもややこしいものなのである。
     まあ、それはそれとして、エアーチケットとホテルの予約をした。なお、ホテルはいろいろな経験ができるように、超デラックス級からエコノミークラスまでとりまぜて予約してみた。

     長すぎた前奏曲

     申し込み手続きをしたのは出発予定日の一か月半前の三月十八日であった。ところが、ひと月たっても、さらに三十五日たってもなんの音沙汰もない。
     東ドイツ大使館のビザの受け付けは毎週火曜と木曜、受け付けて一週間後に交付される。しかもほどなくゴールデン・ウィークに入る。いささかあせった。旅行会社のYさんも心配してあちこち照会してくれた。一方、アエロフロートのほうも帰りの便がとれない。なんとも長くスリルに満ちた前奏曲であった。
     ところが、出発予定日を5日後にひかえた四月二十八日、突然、アエロフロートから予約オーケーの返事がきた。しかも、東ベルリン経由にてもディスカウントにて苦しからずとのご託宣があったので東ベルリンからまっすぐ帰国できることになりすべては解決した。追って、ホテルの予約も完了との通知もきた。態度激変である。

     (写真) 東ドイツの領土の周囲は、すべて立ち入り禁止です。 Grenzgebiet 国境地帯 


    [No.4864] 東ドイツ紀行 2 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/02(Fri) 08:21
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     ビザをとる

     観光ビザで東ドイツにいくには、この国のライゼビューローに、滞在中に泊まるすべてのホテルの予約をしてバウチャーをもらい、パスポートにこれを添付してビザを申請しなければならない。一番簡単なのは、西ベルリンのいわゆる壁の穴で日帰りビザをもらい(これは簡単)、東ベルリンヘ行き、ここのアレキサンダー広場のライゼビューローでホテルの予約をし、このバウチャーを持って隣の警察へ行き滞在ビザに切り替えてもらうことのようだ。もちろん、ドイツ語・オンリー(東ドイツには英語の話せる人はあまりいない)。しかし、勤めのある身でゴールデン・ウイークを利用した旅。6泊7日で一つでも多く見てまわりたい私には、こんな時間の無駄づかいは許されない。
     日本でもやれることは極力済ませて行くことにして、ホテルとビザの手続きを懇意な個人旅行専門の業者に依頼した。(いきつけのエージェントに依頼すれば、いわゆる東欧との友好エージェントに取り次いでくれる。(このときは「Bunka Hoso Brains」現存しています)に依頼。

     ああ、アエロフロート

     はじめの計画では、東ベルリンから入り、ポツダムを経て南下、ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデンを経てプラハ経由帰国することを考えていた。そこで当然のごとく、一番便利なアエロフロートを申し込んだ。ところが、旅行会社のYさんがいうには、「東欧の諸都市の場合はノーマル運賃をとられることが多いんですよ」。とのこと。「だって、東京からならロンドンやパリよりベルリンやプラハのほうが、ずっと近いじゃないですか、どうして近いほうが高いんでしょうね」と首をひねる私。―――結局、Yさんの話などを総合すると、−−−アエロフロートすなわちソ連(いまのロシア)は外貨(西のお金)が「のど」から手がでるほどほしい。日本から西ヨーロッパヘいく人がJALやエールフランスなどに乗らないでアエロフロートに乗ってくれれば大いに有り難い。だからディスカウントしてお客をあつめる。しかし、東欧諸都市の場合は西の会社とは競合しない、いわば独占路線なのでディスカウントの要なしーーーーといった処らしい。なお、ディスカウントしてくれるときもあるが、これにも一定のルールがある訳でなく、すべてアエロフロート様の御意のままということらしい。
    写真は、当時としても珍しかった「手書きの搭乗券」と「ホテル予約と列車の乗車券についてのバウチャー」


    [No.4861] 東ドイツ紀行 1 (1986年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/09/01(Thu) 09:12
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    画像サイズ: 491×350 (38kB)
     なぜ、東ドイツにいったか

     次に、どの旅行記をお読みいただこうかと迷っていたのですが、やっぱり「東ドイツ」にしました。もう既に存在しない国ですし、個人旅行の旅行記は少ないと思いますので。

     なぜ、東ドイツにいくことになったのか自分でもよくわからない。確かに、戦前生まれには馴染みの深い街、ベルリン、ポツダム、バッハゆかりの地ワイマール、ライプチッヒなどに心を惹かれたこともある。しかし、一番みたかったのは歴史ではない、「いま」の東ドイツであった。 もちろん、東欧諸国の旅はパッケージツアーのほうがなにかと便利とはわかっていながら、あえて個人旅行でいこうときめたのは、個人旅行のほうが「現実」をみるのにはいいと思ったからだった。
     なお、会えるかどうかは別として友人がここで暮らしていることも理由の一つでもあった。

     旅行情報をもとめて

     ふだん、海外旅行をするときはまず、ガイドブックなどでおおよその計画をたて、入口と出口にあたる空港、出発日、帰国日をきめて航空券の予約をする。ところが、今度の旅行はちょっと勝手がちがった。
     まず第一に、ガイドブックのたぐいが少ないのにびっくりした。非実用ガイドともいうべき、この国の歴史、文化などに関するする本はたくさんあるのに! 
     よく利用しているブルーガイドシリーズには東欧編はない。交通公社のほうはあることはあるが個人旅行者の役にはあまり立ちそうもない。
     舶来もののほうもミシュランは当然としても「$35 A DAY」シリーズにもない。ひとつ、「地球の歩き方」だけが多少なりとも実際に役にたつ東ヨーロッパ編をだしていた。愛用しているトマスクックの時刻表も東ドイツにはわずか6ページしかさいてくれていない。
     こうなると、たよりになるのは東ドイツ政府観光局ということになる。地下鉄の青山一丁目の近くの個人の家のようなマンションの3階にそのオフィスはあった。
     おずおずとベルを押すと中からてきぱきとした女性の声で「あいていますよ!どうぞ」という。初対面の印象はややきつそうな感じであったが、だんだんこのひとが親切でしかもかなり有能だということがわかってきた。「パンフレットは」。「ここにいろいろありますから好きなのを持っていってください」。「国鉄の時刻表は」。「これを見てください。でも、あっちへいけばキオスクで買えますよ」。「音楽会はやっていますか」。「当然です。ここに年間スケジュールがあります」。という具合にどんどん情報が手に入った。と同時にそれまで、この国に対して抱いていた「何となく近より難い国」という先入観が消えていった。パンフレットは主要観光地ごとに個別にあり、わかり易い、使い勝手のよいもので、これを見るとこの国が観光事業になみなみならぬ力を注いでいることが察せられる。

     (写真は、東ドイツ側のベルリン、ブランデンブルグ門です)


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