被爆55年 忘れられないあの日 23 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
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被爆55年 忘れられないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/17 9:22)
- 被爆55年 忘れられないあの日 2 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/18 7:48)
- 被爆55年 忘れられないあの日 3 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/19 8:41)
- 被爆55年 忘れられないあの日 4 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/20 7:59)
- 被爆55年 忘れられないあの日 5 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/21 8:00)
- 被爆55年 忘れられないあの日 6 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/22 8:35)
- 被爆55年 忘れられないあの日 7 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/23 15:11)
- 被爆55年 忘れられないあの日 8 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/25 7:52)
- 被爆55年 忘れられないあの日 9 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/26 7:59)
- 被爆55年 忘れられないあの日 10 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/27 7:48)
- 被爆55年 忘れられないあの日 11 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/28 13:50)
- 被爆55年 忘れられないあの日 12 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/10/29 7:40)
- 被爆55年 忘れられないあの日 13 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/1 8:25)
- 被爆55年 忘れられないあの日 14 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/3 7:42)
- 被爆55年 忘れられないあの日 15 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/3 7:46)
- 被爆55年 忘れられないあの日 16 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/4 8:36)
- 被爆55年 忘れられないあの日 17 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/5 8:07)
- 被爆55年 忘れられないあの日 18 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/6 8:03)
- 被爆55年 忘れられないあの日 19 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/7 9:21)
- 被爆55年 忘れられないあの日 20 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/8 8:59)
- 被爆55年 忘れられないあの日 21 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/9 7:24)
- 被爆55年 忘れられないあの日 22 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/10 8:09)
- 被爆55年 忘れられないあの日 23 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/11 8:23)
- 被爆55年 忘れられないあの日 24 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/12 8:19)
- 被爆55年 忘れられないあの日 25 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/13 8:50)
- 被爆55年 忘れられないあの日 ―26 広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/14 8:29)
- Re: 被爆55年 忘れられないあの日 最終回 ―広島・長崎被爆者の詞画集― (編集者, 2010/11/15 8:07)
編集者
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広島駅近くの京樽町で
八月六日 広島
十六歳 女学生
八月六日、私は爆心地の相生橋(あいおいばし)を渡って、広島駅近くの京樽町まで逃れてきたが、ここで見たのはこの世の地獄図(じごくず)だった。
顔が火傷(やけど)で腫(は)れ、日が見えない兵隊さんが杖(つえ)を突(つ)いて立っていた。
怪我(けが)に白いチンク油を塗(ぬ)った人は、衣服も破れて肌(はだ)が見えていた。
暑くて喉(のど)が渇(かわ)くので、水を求めてやっと防火用水(ぼうかようすい)にたどりついた人も、気力が尽(つ)きて死んでいた。
母親が死んだ子を抱き、血を流して、子を抱(だ)いたまま死んでいた。
広島駅の方から火の手が上がり、こちらに迫(せま)って来た。
片眼を失った友人
八月六日 広島
十七歳 軍属
恩師の安否を尋ねるため、千田町の瓦礫(がれき)の続く道を一人で歩いていた。
突然目の前に現れた人、左の眼球(めだま)がなく、大きくえぐられている、傷だらけのその姿。
よく見ると一歳年上の友人だった。
私は恐怖(きょうふ)のあまり優しい言葉をかけることも出来ぬまま別れてしまった。
その後半世紀以上、今でも忘れることが出来ない。
大切な片眼を奪った原爆への怒りを誰に訴えたらよいのだろう。
八月六日 広島
十六歳 女学生
八月六日、私は爆心地の相生橋(あいおいばし)を渡って、広島駅近くの京樽町まで逃れてきたが、ここで見たのはこの世の地獄図(じごくず)だった。
顔が火傷(やけど)で腫(は)れ、日が見えない兵隊さんが杖(つえ)を突(つ)いて立っていた。
怪我(けが)に白いチンク油を塗(ぬ)った人は、衣服も破れて肌(はだ)が見えていた。
暑くて喉(のど)が渇(かわ)くので、水を求めてやっと防火用水(ぼうかようすい)にたどりついた人も、気力が尽(つ)きて死んでいた。
母親が死んだ子を抱き、血を流して、子を抱(だ)いたまま死んでいた。
広島駅の方から火の手が上がり、こちらに迫(せま)って来た。
片眼を失った友人
八月六日 広島
十七歳 軍属
恩師の安否を尋ねるため、千田町の瓦礫(がれき)の続く道を一人で歩いていた。
突然目の前に現れた人、左の眼球(めだま)がなく、大きくえぐられている、傷だらけのその姿。
よく見ると一歳年上の友人だった。
私は恐怖(きょうふ)のあまり優しい言葉をかけることも出来ぬまま別れてしまった。
その後半世紀以上、今でも忘れることが出来ない。
大切な片眼を奪った原爆への怒りを誰に訴えたらよいのだろう。