自分誌 鵜川道子
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投稿日時 2009/3/27 7:35
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
スタッフより
この投稿につきましては、手書き原稿のテキスト化と掲載について、作者の鵜川道子様のご了承を得ております。
なお、手書き原稿のテキスト化は、メロウ倶楽部の有志が手分けして行いました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1935年(昭和10年)、私は北朝鮮の地で早産により三ヶ月も早く未熟児としてこの世に誕生した。父も母も結婚して間もなく勤務先の勧めにより朝鮮の地に赴くことになったと云う。父の話によると内地を離れることに不安を感じていたが、母は他国での生活は若いうちにと云った。勇気ある言葉に決断したのだと話したことがあった。
父母が結婚した昭和四、五年頃のことらしい。
父も母も静岡県浜松で生まれ、兄弟八人ずつのにぎやかな家庭で育った者同志であった。気候もとても厳しい北朝鮮に移住することはお互いに気持ちが決まるまでは相当な迷いがあったのではと今、思うのである。
三十八度線《注1》の左上にあたる海州と云う地であった。
私が二才位の頃、三才年上の真佐子姉はもうこの世にはなく当然のこと乍ら私の記憶には無いがその話になると母は三年位は涙が止まらなかったと話してくれた。そんなつらい思いの中で未熟児でこの世に出て来た私を育てなければならなかった父母の気持ちはどんなものであっただろうかと考える。
道子が三才になる前に弟(元幸)が生まれ、また二年後に下の弟(元美)が生まれたのだから父も母もその頃には落ち付いて安定した生活が出来るようになったのではないかと想像する。海州の思い出は今でも私の頭の中に残っている。家の造りや、庭に梨の木があったり、玄関のところが二,三段の階段があったことなどはっきりと覚えている。寒い冬の思い出はオンドルの部屋には、いつも火鉢でおしるこを作ってくれた。厳しい冬の寒さの中での母の思いやりだったのだろう。父は酒も飲まず甘党だったのか、おみやげと云うと生菓子と云って今で云うケーキを買って帰って来たことなどよく覚えている。この様に思い出を書き綴れば何も苦労のない家庭のようだが、幼い私にとって父は大変厳しかった。
私は生まれた時の未熟児特有の眼病をひきずっていた為か思い出すことは道庁の眼科に小学校に上がるまで通院していた。夜になると泣いたりぐずったりする私の為に仕事で疲れていた父が眠りを邪魔されたのだろう、時々ひどく怒って手足を縛られ押入に入れられることもあり私はあまり父のことは好きになれずにいた。小さい弟達に手がかかるのに今思えば、私が悪かったのだと父母の気持ちになって充分すぎる程わかるのだが・・・・。
私が小学校に上がる間際になって父の勤務先が変わる事となった。ソウルの市内も市内、三越の裏手に、岡本館と云う共同住宅の一間に移り住むことになった。隣に病院があり門の所になつめの木があって赤い実が落ちる頃、拾って食べた思い出がある。
一年生になる前にと家族全員で日本に帰り母の実家や父の兄弟の家に行き、私の為に七、五、三の祝いをして写真を撮ってもらった。忘れられない思い出の一つである。今アルバムにはその証拠がある。又その頃動物園に行ったり電車に乗った記憶がある、浜松には大勢のいとこ達が居たので楽しく遊んだ記憶がある。そして京城に戻ったのが、私の国民学校に上がる為の京城の生活だった。
父は私にランドセルと靴、合羽と傘などを買って来て私を喜ばせた。母は三越で赤いビロードのワンピースを買って入学式に着せてくれたのを忘れることが出来ない。
学校は南山国民学校であった。大変大きな学校で、屋上に運動場があった。先生は川瀬先生、優しそうな眼鏡の男の先生でした。生まれた時は未熟児だったのに入学時の背の高さは後から二,三番目で机も後の方に並ぶことになった。
又、こんな思い出がある。先生は図画の時間に何でもよいから絵を描くようにと云われ私は画用紙一杯にチューリップばかりを沢山かいた。それしか書くことが出来なかったのに、先生は大変褒めて下さった。南山国民学校にはわずかな間しか行かなかったにもかかわらず川瀬先生のお名前はこの年になっても忘れ得ぬ人となってしまった。
南山国民学校に入学したその当日のこと家の近くに中華料理店があって入学祝いに父が家族に中華料理を御馳走してくれた。そんなことは前にも後にも絶対なかったような気がして六十年も経った今でもはっきりと私の脳の中に残っている。そして南山国民学校にはどの位通学したであろうか?ソウルの郊外に新しい家が出来て引越した。公営住宅式の二軒続きの家であった。隣には母親のいない小さな男の子が居て浅野さんの坊ちゃんと呼んでいた。丁度その頃少し離れた所に新しい小学校を建設中で出来上がるまでには期間があり、それ迄は分教場に通学していた。京城の市内に住んでいた時とは違って山を切り開いた町全体が新しい明るい雰囲気に包まれていたが、分教場に通う鷺(ろ)りょう津(しん)の坂は寒い冬では大変であった。
新しい町と云うのは上道町(今では上道洞)と云っている、京城の市内から西に向かって漢江の河を渡り鷺りょう津の坂上に位置する所であった。小学校一年生の私たちにとっては、かなりの時間を要する通学路であったが、それでも学校は楽しく担任の清原さよ子先生の思い出は現在でも頭の隅に焼き付いている。冬の寒いある日のこと教室のダルマストーブの前で先生がオルガンを弾いている姿、そして和音を言を云い当てるテスト、ドミノ、ドファラ、シレソと云うあれ(傍点あり)である。私は特別に音感がよかったと云うわけではなかったと思うが偶然にもよく云い当てたのだろうか?先生から大変褒めて頂いたのである。それからと云うもの先生の思い出を忘れることはなかったのである。こんなことが子供心のとても嬉しかったのかとなつかしく思うことである。
江南国民学校の新しい校舎が出来上がって、分教場から立派な校舎へと移った。教室も廊下もピカピカにする為、放課後の清掃の時間は誰云うともなく油紙やロウを持って行って廊下を一生懸命磨いたのである。分教場の不自由な生活真新しい校舎での日々の授業が幼い乍ら本当に嬉しかった思いを心から感謝していたに違いない。そして学校を愛する心が日々に増して行ったあらわれだったに違いない。
注1 38度線=アメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。
写真は投稿者)
この投稿につきましては、手書き原稿のテキスト化と掲載について、作者の鵜川道子様のご了承を得ております。
なお、手書き原稿のテキスト化は、メロウ倶楽部の有志が手分けして行いました。
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1935年(昭和10年)、私は北朝鮮の地で早産により三ヶ月も早く未熟児としてこの世に誕生した。父も母も結婚して間もなく勤務先の勧めにより朝鮮の地に赴くことになったと云う。父の話によると内地を離れることに不安を感じていたが、母は他国での生活は若いうちにと云った。勇気ある言葉に決断したのだと話したことがあった。
父母が結婚した昭和四、五年頃のことらしい。
父も母も静岡県浜松で生まれ、兄弟八人ずつのにぎやかな家庭で育った者同志であった。気候もとても厳しい北朝鮮に移住することはお互いに気持ちが決まるまでは相当な迷いがあったのではと今、思うのである。
三十八度線《注1》の左上にあたる海州と云う地であった。
私が二才位の頃、三才年上の真佐子姉はもうこの世にはなく当然のこと乍ら私の記憶には無いがその話になると母は三年位は涙が止まらなかったと話してくれた。そんなつらい思いの中で未熟児でこの世に出て来た私を育てなければならなかった父母の気持ちはどんなものであっただろうかと考える。
道子が三才になる前に弟(元幸)が生まれ、また二年後に下の弟(元美)が生まれたのだから父も母もその頃には落ち付いて安定した生活が出来るようになったのではないかと想像する。海州の思い出は今でも私の頭の中に残っている。家の造りや、庭に梨の木があったり、玄関のところが二,三段の階段があったことなどはっきりと覚えている。寒い冬の思い出はオンドルの部屋には、いつも火鉢でおしるこを作ってくれた。厳しい冬の寒さの中での母の思いやりだったのだろう。父は酒も飲まず甘党だったのか、おみやげと云うと生菓子と云って今で云うケーキを買って帰って来たことなどよく覚えている。この様に思い出を書き綴れば何も苦労のない家庭のようだが、幼い私にとって父は大変厳しかった。
私は生まれた時の未熟児特有の眼病をひきずっていた為か思い出すことは道庁の眼科に小学校に上がるまで通院していた。夜になると泣いたりぐずったりする私の為に仕事で疲れていた父が眠りを邪魔されたのだろう、時々ひどく怒って手足を縛られ押入に入れられることもあり私はあまり父のことは好きになれずにいた。小さい弟達に手がかかるのに今思えば、私が悪かったのだと父母の気持ちになって充分すぎる程わかるのだが・・・・。
私が小学校に上がる間際になって父の勤務先が変わる事となった。ソウルの市内も市内、三越の裏手に、岡本館と云う共同住宅の一間に移り住むことになった。隣に病院があり門の所になつめの木があって赤い実が落ちる頃、拾って食べた思い出がある。
一年生になる前にと家族全員で日本に帰り母の実家や父の兄弟の家に行き、私の為に七、五、三の祝いをして写真を撮ってもらった。忘れられない思い出の一つである。今アルバムにはその証拠がある。又その頃動物園に行ったり電車に乗った記憶がある、浜松には大勢のいとこ達が居たので楽しく遊んだ記憶がある。そして京城に戻ったのが、私の国民学校に上がる為の京城の生活だった。
父は私にランドセルと靴、合羽と傘などを買って来て私を喜ばせた。母は三越で赤いビロードのワンピースを買って入学式に着せてくれたのを忘れることが出来ない。
学校は南山国民学校であった。大変大きな学校で、屋上に運動場があった。先生は川瀬先生、優しそうな眼鏡の男の先生でした。生まれた時は未熟児だったのに入学時の背の高さは後から二,三番目で机も後の方に並ぶことになった。
又、こんな思い出がある。先生は図画の時間に何でもよいから絵を描くようにと云われ私は画用紙一杯にチューリップばかりを沢山かいた。それしか書くことが出来なかったのに、先生は大変褒めて下さった。南山国民学校にはわずかな間しか行かなかったにもかかわらず川瀬先生のお名前はこの年になっても忘れ得ぬ人となってしまった。
南山国民学校に入学したその当日のこと家の近くに中華料理店があって入学祝いに父が家族に中華料理を御馳走してくれた。そんなことは前にも後にも絶対なかったような気がして六十年も経った今でもはっきりと私の脳の中に残っている。そして南山国民学校にはどの位通学したであろうか?ソウルの郊外に新しい家が出来て引越した。公営住宅式の二軒続きの家であった。隣には母親のいない小さな男の子が居て浅野さんの坊ちゃんと呼んでいた。丁度その頃少し離れた所に新しい小学校を建設中で出来上がるまでには期間があり、それ迄は分教場に通学していた。京城の市内に住んでいた時とは違って山を切り開いた町全体が新しい明るい雰囲気に包まれていたが、分教場に通う鷺(ろ)りょう津(しん)の坂は寒い冬では大変であった。
新しい町と云うのは上道町(今では上道洞)と云っている、京城の市内から西に向かって漢江の河を渡り鷺りょう津の坂上に位置する所であった。小学校一年生の私たちにとっては、かなりの時間を要する通学路であったが、それでも学校は楽しく担任の清原さよ子先生の思い出は現在でも頭の隅に焼き付いている。冬の寒いある日のこと教室のダルマストーブの前で先生がオルガンを弾いている姿、そして和音を言を云い当てるテスト、ドミノ、ドファラ、シレソと云うあれ(傍点あり)である。私は特別に音感がよかったと云うわけではなかったと思うが偶然にもよく云い当てたのだろうか?先生から大変褒めて頂いたのである。それからと云うもの先生の思い出を忘れることはなかったのである。こんなことが子供心のとても嬉しかったのかとなつかしく思うことである。
江南国民学校の新しい校舎が出来上がって、分教場から立派な校舎へと移った。教室も廊下もピカピカにする為、放課後の清掃の時間は誰云うともなく油紙やロウを持って行って廊下を一生懸命磨いたのである。分教場の不自由な生活真新しい校舎での日々の授業が幼い乍ら本当に嬉しかった思いを心から感謝していたに違いない。そして学校を愛する心が日々に増して行ったあらわれだったに違いない。
注1 38度線=アメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。
写真は投稿者)