自分誌 鵜川道子・7
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編集者
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母は行商をやめて我が家に小さい店をつくった。母は毎日重い荷物を持ち運ぶのが少しづつ大変になってしまったのだと思った。浜松の母の弟には大分お世話になったが結局売り食いで仕入れのお金も満足に返済出来ない状態になったとのことであった。が幸い駅に近い場所であった為日銭をわずかでも欲しいと思ったに違いない。そのうち魚やパン、菓子、野菜等を店に並べて売るようになった。
母が家に居るということは本当に有り難いことであった。その頃私は体に異常を訴え病院通いが始まったのだった。中学一年の初め頃腎臓と肺浸潤を患って入院した。その後はしばらく学校にも行かれない時期があって思うように家の手伝いも出来ず毎日家族が忙しい思いをしていると云うのに子供乍ら何ともつらい日々を送っていた。母はとても心配して担任の先生には一年休校を願い出ていた様である。一学期は殆んど休んでしまったので秋になって登校した時は英語や数学はもう何も分からず学校が面白くなくなっていたのである。だが担任の永原先生は学校では体育の時間は見ているだけでよい、放課後の清掃も免除として無理をしなくてよいと云う特別な条件で登校を受け入れて下さったのである。頭髪の中や顔にまで出来物が出来て包帯を巻いていたがとうとう毛髪を全部剃り落とし男の子のような姿になってしまったのだった。学校を一年休学すれば卒業も一年遅れるわけだからその時のことを考えればとやっぱり先生は大目に見て下さったのだろうと感謝の気持ちで中学生活を送ることが出来た。
しかし三年生になると高校受験の話や進路を話し合う機会が多くなり悩みもだんだん深くなって行く。父は女の子だから無理して高校は進学せず家の中の手伝いをした方がいいと強く主張するが母は何としても高校受験だけでもした方がいいと云う。母は若い頃女学校に行きたかったが兄弟が多く親に負担をかけまいと六年間専売局で働いてから女学校に入学した話を私によく聞かせてくれていたのである。
その為か父と母の意見が異なり、まとまらずにいたが受験だけして、その後決めればいいと気持ちを決めて最後の返事をしたのだった。
県立高校を受験することにした。心も決まって受験組に入って勉強することで何となく嬉しい気分になっていたのだが卒業式が近づくにつれ父の反対はますます本格化して行き、その中での受験の発表を見た。成績は自分で考えていたよりはずっとよい方向で合格していた。そんな時も父からは「こんなに貧乏しているのにお前が高校など入学したら後に続く弟達もみんな高校に行くと云うことになるだろう、その時はどうする」と云う。母は全く逆の言葉で私の心を支えてくれた。将来のことを考えて高校ぐらいは行かなければ…と父と母の間で私の心はとても悩んだ、そして実力行使をする決意で母から商品を借りて一人で木曾の山村に出かけて行き行商をやってみようと一軒一軒の家庭訪問して一日中歩いた。自分の思いをぶつけてみたが思うように商品は売れずがっかりして、夕方家に帰った。本当に辛い一日であったが母の苦労を痛切に味わった。
父の云うことを聞いて家の手伝いをしようかとも考えたが、母は「後で後悔する、私が何とかするから高校には行きなさい」とかばってくれたのだった。
最後まで辛抱出来るだろうかかと悩みつゝ、桔梗ヶ原高等学校に入学、汽車通学をした。中学の頃体が弱かったので少しでも健康になりたいと思う気持ちで課外活動はダンスクラブに入部し夏休みの合宿もやって見た。又クラブの発表会も楽しく忘れ難い思い出の一つとなった。
体はすっかり元気を取り戻し勉強も男女共学の中で一日も休むことなく一日一日が青春真只中と思えるような空気に包まれる学校生活であったが家に帰ればそんなに楽しいことは一つもなく母と一緒に店の手伝いをしたり炊事の支度、掃除、洗濯や風呂炊きで宿題もまともに出来ない様な忙しさであった。
父に一言でも逆らったら学校など止めろ勉強など必要ないと顔さえ見れば怒鳴っていた。それでも二年間はそれに耐えていたが、いつも母に対しては可哀想で心が揺れ動いていた。父は面白くないうっぷん晴らしを私に全て向ける様になって時々体罰まで受けることがあった。寒い冬の夜、雪も降っているのに家に入れて貰えず風呂の火を焚く所で一夜を明かしたこともあった。今考えても体中がぶるぶるふるえるようだ。母の姉である伯母がよく木曾の御岳山に登るために来ていた頃、母や私のことを心配して浜松の学校に転校を薦めてくれた。母は毎日の様子をみて心を痛めていたのか伯母の気持ちを受け入れて二年生の三学期が終わった春休みに私の浜松行きを許してくれたのだった。