自分誌・2 鵜川道子
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
上道町に落ちついた昭和18年の春待望の妹が生まれた。京城で生まれたからと私が名前をつけたのが京子、8才年下色白の可愛い妹の誕生である。
父の妹がわざわざ信州からお産の手伝いに来てくれて母もどんなに助かったことであろうか 朝、目を覚ますと妹の産声が隣の部屋から聞こえた。私が二年生になる春、上道町の家に引越す。家族が又一人増えたための引越しだったのだ。
その頃第二次世界大戦が激化して来たとのニュースは毎日のように、ラジオから流れていたし学校で朝礼の時間に度々話を聞かされていた。しかし日本人多しと云えども他国で割合静かな暮らしをしていた私達はまだまだ何の恐怖心も感じてはいなかったのではないだろうか。庭つき一戸建住宅に近日中に引越しと決まって父の妹(信子叔母)と掃除をする為その家に入ると木の香りや畳のにおいがしていたがその頃黒いカーテンを窓に張って電燈の光がもれない為の作業であると知らされたのだった。
夜になっても電燈は暗くする様にとかなるべくろうそくを立てて燈りをとることをすすめられていた頃であった。私はそのろうそく立ての板をまともに踏んでしまいしばらくは不自由な思いをして通学したつらい思い出が甦って来た。
家の前の道路は巾が広く桜の苗木も植えられていたがまだ出来上がったとは云えないほど新しい道路であった。上道町は町全体が全て新しく本当に安全に子供達が走り廻れる安全性はなかったのだが戦争中だと云うのに急ピッチで町づくりが進められていた様な気がする。
春になり二年生になると高嶋先生と云う女の先生が私達のクラスの担任となった。小学校も徐々に整備されて校庭にもクラス毎に花の苗を植えたりた種を蒔いていた様な時代であった。内地では戦争に参加する出征兵士達が次々と家族や友人、知人に見送られて外地に赴いていた頃、私達家族の住むソウル市外では山にかこまれている為、四季折々の花が咲き自然の中で子供達も幸せ過ぎる程の静かな生活を送っていた時期があった。家の廻りにはレンギョウが沢山咲いていたり、夏にはアカシヤの花が甘い香りを放っていた。今でもこれ等の花を見ると生まれ故郷をより身近かに感じさせて貰えるのである。
三年生になった時の担任の先生は矢沢多寿子先生である。家庭訪問の日先生を自分の家まで案内した時、母と先生はお互いにびっくりして声を上げたのだった。先生の父母と私の父母は以前からの友人だったとのこと、海州に住んでいた頃は家も近くて勤務先が父同士が同じだったとの事、不思議なめぐり合わせだったと話していた。そして私の父も先生のお父様も長野県の古郷(ふるさと)まで一緒で親しくしていた間柄であったと云う。そのせいであろうか先生はいつもやさしくして下さったような気がした。夏休みだったと思うが黒石町(こくせきちょう)の先生のお宅に友達四,五人で遊びに伺った記憶がある。黒石町は江南小学校から割合近くで確か東側に漢江の大きな河の流れが見える場所であった。
二年生の時お世話になった高嶋先生は結婚の為か江南小学校から去って行かれる時、クラスの教え子達を漢江の河が見える小高い山に登って当時音楽教本にあった「工場(バ)だ機械だ」を合唱して先生から別れの言葉を聞いた。クラス中で泣いてしまったこと一生忘れられない。別れがこんなにつらいと云うことを教えてくれたのは、きっと高嶋先生が初めてだったのかも知れない。
父の妹がわざわざ信州からお産の手伝いに来てくれて母もどんなに助かったことであろうか 朝、目を覚ますと妹の産声が隣の部屋から聞こえた。私が二年生になる春、上道町の家に引越す。家族が又一人増えたための引越しだったのだ。
その頃第二次世界大戦が激化して来たとのニュースは毎日のように、ラジオから流れていたし学校で朝礼の時間に度々話を聞かされていた。しかし日本人多しと云えども他国で割合静かな暮らしをしていた私達はまだまだ何の恐怖心も感じてはいなかったのではないだろうか。庭つき一戸建住宅に近日中に引越しと決まって父の妹(信子叔母)と掃除をする為その家に入ると木の香りや畳のにおいがしていたがその頃黒いカーテンを窓に張って電燈の光がもれない為の作業であると知らされたのだった。
夜になっても電燈は暗くする様にとかなるべくろうそくを立てて燈りをとることをすすめられていた頃であった。私はそのろうそく立ての板をまともに踏んでしまいしばらくは不自由な思いをして通学したつらい思い出が甦って来た。
家の前の道路は巾が広く桜の苗木も植えられていたがまだ出来上がったとは云えないほど新しい道路であった。上道町は町全体が全て新しく本当に安全に子供達が走り廻れる安全性はなかったのだが戦争中だと云うのに急ピッチで町づくりが進められていた様な気がする。
春になり二年生になると高嶋先生と云う女の先生が私達のクラスの担任となった。小学校も徐々に整備されて校庭にもクラス毎に花の苗を植えたりた種を蒔いていた様な時代であった。内地では戦争に参加する出征兵士達が次々と家族や友人、知人に見送られて外地に赴いていた頃、私達家族の住むソウル市外では山にかこまれている為、四季折々の花が咲き自然の中で子供達も幸せ過ぎる程の静かな生活を送っていた時期があった。家の廻りにはレンギョウが沢山咲いていたり、夏にはアカシヤの花が甘い香りを放っていた。今でもこれ等の花を見ると生まれ故郷をより身近かに感じさせて貰えるのである。
三年生になった時の担任の先生は矢沢多寿子先生である。家庭訪問の日先生を自分の家まで案内した時、母と先生はお互いにびっくりして声を上げたのだった。先生の父母と私の父母は以前からの友人だったとのこと、海州に住んでいた頃は家も近くて勤務先が父同士が同じだったとの事、不思議なめぐり合わせだったと話していた。そして私の父も先生のお父様も長野県の古郷(ふるさと)まで一緒で親しくしていた間柄であったと云う。そのせいであろうか先生はいつもやさしくして下さったような気がした。夏休みだったと思うが黒石町(こくせきちょう)の先生のお宅に友達四,五人で遊びに伺った記憶がある。黒石町は江南小学校から割合近くで確か東側に漢江の大きな河の流れが見える場所であった。
二年生の時お世話になった高嶋先生は結婚の為か江南小学校から去って行かれる時、クラスの教え子達を漢江の河が見える小高い山に登って当時音楽教本にあった「工場(バ)だ機械だ」を合唱して先生から別れの言葉を聞いた。クラス中で泣いてしまったこと一生忘れられない。別れがこんなにつらいと云うことを教えてくれたのは、きっと高嶋先生が初めてだったのかも知れない。