自分誌 鵜川道子・21
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編集者
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昭和五十八年長女が結婚することになり母は非常に喜んでくれた。長女の夫となった英治は娘よりも九才年上のとても人のよさそうな印象であり母も私も少しも反対することもなく理想的な結婚生活を始めていた。
長男は、高校を卒業すると自分の道を求めて埼玉県上福岡のホンダテクニカルスクールに入学した。子供は二人とも自分の意思で自分の道を着実に探し追い求めている力強い存在であった。孫のこの様な生活の流れを見届け乍ら母は六十年の春、下の弟の家に行っている間に倒れ入院することになってしまったのだった。 何んと云うことだろうかと思い悩んだのであったが弟の嫁の徳子さんと妹の京子、そして私の三人が交替で病院の母を見舞うことが出来たのである。次男の弟の、徳子さんが母を引き取った型になり世話をかけることになったが入院の後遺症が出たのか、少し呆けが出て来たなと感じられることもあった。
早く道子の所に帰りたいと云われることもあった。母の願いを一日も早く叶えてやりたいと希望し乍らも義妹のやさしい介護にゆだねていたことに何となく甘えてした自分が恥ずかしかった。
兄弟が近くに居て心強く感じられ、母も喜んでくれたのは嬉しかった。長野の実家に居たらきっと淋しかったにちがいないとそんなことばっかり考える毎日であった。
去年の六月七十七才の喜寿の祝いをした時は本当に元気で父の妹二人を交えて私達兄弟姉妹と孫達にかこまれて人生最大の幸せを感じたともれしていた母だったのに。そして八十八才の米寿の祝いを約束したあの日のことを思い返すと人の計画は何とはかない夢であろうかと母の姿を見つめざるを得ない状態であった。
丁度その頃妹が稲毛のマンション生活から検見川に新築の家を建てていた。
妹も母にその家を一目見せたいと思っていたのであろう、八月十二日に浦安の弟の家から検見川の新しい家を見に妹の所に来ると云うので勿論私も楽しみに行って見ると母は嬉しそうにソファーに座ってテレビを見ていた。丁度その時航空機事故で坂本九ちゃんの死亡を報じている最中であった。五百十二名の尊い命が一瞬に失われたことを知って母もどんな気持ちであっただろうか?と思う。そして一週間後の十九日母は再び倒れて入院、それから以前のように妹と義妹の徳子さんと私の三人は交替で病院の母の側で寝泊りして様子を伺って一週間、丁度長野から弟の元幸が来た日に再び弟を追いかける様にしてこの世を去っていった。
弟は甲府の駅のマイクで呼ばれているのに気がついて再び病院に引き返しその日のうちに私と娘夫婦と息子も長野の実家に出向いて行ったのだ。母は千葉に住む我が子や孫の幸せを見届けて大安心で旅立って行ったのだと確信せざるを得なかったのである。何んとは母五十四年八月廿五日に千葉の地を踏み六十年八月二十六日に長野の父の眠る地へと帰って行ったのであった。
その間、六年毎日幸せだったと思う。
そう思うことで、私も母との人生最後の親と暮らせた幸せをひとり噛みしめることが出来て嬉しかった。