自分誌 鵜川道子・22
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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娘の結婚式には母も出席し喜んでくれたが孫の顔を見たのはそれから二年後であったのでひ孫を見せることは出来ず一寸残念だと思った。
二人目は年子(としご:ルビ)で女の子の誕生であった。娘は待望の男の子と女の子の親となりその喜びようは私の目から見ても本当に頼もしい。夫婦と親子で安心して見守るだけの日々であり、私は相変わらず仕事に精を出す毎日であった、ヘルパーと云う仕事も私にとっては神様から与えられた最高の仕事のように思われ高令者とのふれ合いは一日一日が充実して出来るようになっていた。
平成三年四月娘に二人目の女の子が出来て住んでいたマンションが狭くなり時々、相談を持ちかけられる様になっていた。娘は空気の悪い東京から離れた所に家を建てたいと希望して山と田んぼのある酒々井に土地を購入したが家はいつになったら建てられるか分からないと云うのである。丁度世の中にはバブルの時代の到来であった。江戸川区役所に入所した時に思い切って建てた習志野の家も丁度十八年のローンの支払いも完了の間際であった。
ずっと住み続けるつもりで建てた家だったが長男も幸い家を出てアパート暮らしで自立していたこともあり行く末のことを考えてか一緒に住む方向に話が流れて行き娘の云う言葉に重きを置いて考えざるを得なくなってしまった。
相手は五人、私は一人なので親としては、娘や孫の幸せを考えざるを得ないことに追い込まれてしまったわけである。話はどんどん進み娘は大きなお腹をかかえ建築会社に契約を依頼する。私は自分の家の整理と知り合いの建設会社に依頼して買い手を見つけて、買って貰うことにしたのだった。
時節柄自分の希望した買売契約が成立したことは全く運が良かったと云うか神様の恩寵と云う以外にはなく平成三年の十二月の始め酒々井の地に娘の家族と共に引越し同居することになってしまった。長女には三人目の女の子が生れていた。
初めての孫は男の子であったが生れて三ヶ月頃から顔にあせものようなブツブツが出来はじめ半年もすると真赤に腫れてかゆみが我慢出来ず小さな手で顔中をかきむしってその後は火のついたような痛みが襲ってくるのをどうすることも出来ずこれがアトピー性皮膚炎だと云うことがわかったのであった。
普通一才位になる子供は人生の中でも最高に可愛い時期である筈なのに、このアトピーは一向に峠にたどりつかないまヽ小学四、五年生の時から学校に行けない状態になってしまったのである。本人は勿論不登校児となり、小学校高学年となってからは娘もいろいろと悩みが深くなっていた。
私は平成八年三月末をもって二十三年間勤務した江戸川区役所を退職することになっていたので最後まで無事に勤め上げようと頑張る生活が続いていた。