自分誌 鵜川道子・5
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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ソウルにも山はあったが長野の家の近くの山とは全然違っていた。
祖父母の家にはまだ戦争から帰っていない父の弟と二人の妹が居た。信子叔母は私より十三才年上で朝鮮では一緒に暮らした叔母である。年下の叔母は八才違いの歳だったと今考えると二人は二十三才と十八才であった筈であり人生の一番いい花の時代だったのかとふり返って考えてみる。
上の叔母は村のお寺に東京から集団疎開で来ていた児童の世話をする保母さんをしていた。下の叔母はあの頃先生の数が足りなくて代用教員として働いていたようだ。父は幾日か後になって帰ってきたので祖父母の家は急に大にぎわいの家となった。
いつまでも同居しているわけにもいかなくなったのか少し上の部落に牧野という所があって昔からある土蔵を知り合いの方から借りて一時的ではあったが住んだのだが日の当たらない土蔵の中はひんやりして寒いためか家族皆が風邪ばかり引いていた。一家六人の生活は相当苦しかったようだ。父は近所の畑仕事や炭焼きの手伝いに行ったりしていたがそれだけではとてもわずかな収入にしかならなかったようでる。
母は実家が浜松にあり兄弟達も大勢暮らしていた。母のすぐ下の弟が織物や染色工場を経営していたので反物の行商をしてみてはと勧められてと云っていた。そして仕入れのため汽車で中央線をつきに幾度となく往復し留守を預かるのは私の仕事のようになって行った。反物やお茶そして婦人の雨靴などを仕入れて来ては行商をするようになった。仕入れとは云っても母の弟夫婦に無理を云って金銭面でお世話になっていたようである。あのころの交通機関では浜松を往復するには一日では足りず時間的なロスがあったと思われる。
信州の冬は日の出も遅く暗いうちに起こされて朝食の支度をして学校にも行かなくてはならないのだった。父に毎朝厳しくたたき起こされる小学校時代であった牧野の土蔵の中の生活はどれ位続いたのだろうか。学校までは徒歩で四十分位の所を班登校した思い出がある。学校は楽しい筈の場所だが引揚者という貧しい生活の為、着る物も充分ではなかったが母が浜松の従姉妹達から貰って来るお下がりの洋服で大変助かっていた。信州の田舎ではセーラー服などを着ている友人も居ない頃に母が持って来てくれたセーラー服を夜なべで直してくれたのを学校へ着て行き皆の注目の的になったこともあった。それが子供心にも自慢に思えて勇気が出たのを覚えている。まだあの頃はクラスの女の子達は着物にモンペとそしてはんてんを着て下駄を穿いて通学していた時代であったから皆んなの目から見れば少々うらやましい思いをさせてしまったようである。母は私達子供四人を精一杯愛してくれたと思う。せっせと浜松通いをし帰って来れば品物を背に行商をして家族の食料を稼いでいた。
食事を作るのは殆ど私の仕事であり勉強をする時間もない位であった。五右衛門風呂を炊き乍ら炎の明かりで宿題をするのがせめてもの勉強の時間である。この五右衛門風呂は考えて見ると土蔵の家から出て祖父母の同じ屋敷内にあったにわとり小屋を改造して畳の二間の家に移り住んだ時のことだった。庭に造った五右衛門風呂には小さな豆電球が一つだけつけてあった。板の囲いだけしかない半畳ほどの風呂場であった。祖父母の家は国鉄の洗馬(セバ)と云う駅のそばであった為に母の浜松通いも以前とは違い大変楽になったと思う。学校も徒歩で十五分位の所になり私をはじめ弟達も以前よりらくになっていた。
丁度その頃引揚者にとっては話が持ち上がったとのことであった。山の木を伐採してある土地を開墾すれば三反歩まで自分の土地としてくれることになったと父が話していた。どんなにいい話か知らないが四十才位まで役人のような生活をして来た父がやり通せるかどうかと云う心配が母にはあったと思う。しかし父はその話を受けて立ち上がったのだった。開墾と云うのは誰かに給料を貰うのわけではない。その日その日の収入は一圓だって無いのであるが母も協力する気持ちだったらしい。山に鍬を入れれば赤土と石ばかり、そして大木の切株を一つ一つ根っこから取り除く作業である。父はときどき自分の腕の筋肉を自慢気に見せていたこともあった。山の中腹から下を見下せば蒸気機関車が煙を吐いて走っているのを見て時間を知るのである。そこに唯一人自分との戦いをいどみ毎日黙々と開墾に精を出している父の姿を家族は見ていた。本当に若い頃に経験して来た朝鮮での生活とは全く違う生活がそこにはあった。父も母もお互いに孤独との戦いがあったと今になってはっきりと私自身認識した。