自分誌 鵜川道子・3
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自分誌 3
母は幼い四人の子供の面倒を見乍ら近くに畑を借りて菜園を作った。勿論韓国は冬などとてもそんなことは出来ない。でも夏になるとキューリやトマト、トーモロコシ、カボチャ、なす等…母の手造りの野菜で助かっていたのではないかと思う。今にして思えば母の実家は浜松の農家であったこともありきっと内地をなつかしんで畑をやっていたのだと思う。
母はよく鷺(ろ)りょう津(しん)の市場に行って来ると云い往復二,三時間以上もかかる所まで歩いてお使いに行ったりもした。妹は一,二才の頃だったのでしっかりとおんぶして行くのであるが四,五才の気かん坊の弟はいつも私がみることになっていたので家の近くでばかり遊んでいたように思う。その為、友人などとの交流があまりなかったのが少々残念に思われるがそれでも山に行って花をつんだり木登りしたり小川でどじょうを取ったりすることなど楽しい思い出は今でもはっきりと頭に残っている。
新しい学校の教室では、学校を心から愛する気持ちが旺盛な為か皆でピカピカに磨きをかけていた。が子供にはあまり縁のない戦争の話がだんだん聞かれる様になって来ていた。日本がアメリカやイギリスと戦争をしていると云う話である。
父親が仕事先の出張から帰って来る度に話をする様になっていた。学校では軍歌ばかり教える様になり何となく身近かに感じる様になって来て町内会でも子供会でも慰問袋を作ったり慰問団として兵隊さんの宿舎のような建物を尋ねて歌や遊技等をしたこともあったが年令的には未だ十才にも満たない私であったのでどちらかと云えば今で云うイベントと云う位の考えしかなかった様である。
しかし昭和二十年の四月となり四年生に進級し矢澤先生から原岡先生に変わった途端教室が足りなくなって又山の上の分校に午前と午後の二部制の授業が行われるようになった。一学期が終わり夏休みに入る前、集団疎開の話があって母は自分の着物をほどいて三組ぐらいの標準服(上衣、モンペ)を作って支度をしたりリュックに入れ出かける用意をし始めていた。私は集団疎開なるものがどんなものなのか知る由もなく、先生や親達ののことを聞いてそれに従ってのことであったが今思えば危機一髪どんな所に行っていたのだろうかと思われてならない。