自分誌 鵜川道子・8
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編集者
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その時はこのまま親や弟妹達と一緒に暮らす生活が終わるなんて考えもしなかった。残る後一年間の高校生活を我慢してでも進級したかったのだが父が許してくれなかったのが残念であった。浜松の学校は母が若い頃六才下の人達と学んだ女学校であった。昔と今では名前が変わったが校長は三代目の岡本富郎先生である。県立から私学に転校を願い出たのでなかなか難しかったようであるが伯母と母が必死でお願いして入学を許された。
西遠女子学園と云った。簡単に入学できないと誰もが考えていた。でも長野の学校に戻る事も出来ないと覚悟していた。母が幼い頃にお世話になった恩師を訪ねて力になって頂いたので四人で面接に行ったのだった。
校長先生は特別に入学を許可したいがそれには条件があると云われた。それは人と何か違う特技があればとの事、私はこの時咄嗟(とっさ)に「速記が出来ます」と答えていた。「将来速記者になり度いと思って速記を習っています」と口から出た言葉。「その他には?」と聞かれ「ダンスを習っていました」と課外活動の事を伝えた。このまま学校を止めたらどうなるのかと云う切羽詰った気持ちから出た言葉だったかも知れないが思いがけない言葉が口から飛び出したと自分でも本当にびっくりしたのだがそのことで入学が許可されたのであろうか?
・・残る一年間は親から離れて伯母の世話になることとなった。そしてこの一年は思い切り勉強をさせて貰ったといつも心の底から感謝して過ごした。伯母には二人の子供があったが男の子は戦死、女の子は結婚適齢期の26才で戦後結核で亡くなったのだった。私も引揚げてきたばかりの頃その従姉妹に一度会ったことがあったのだ。
伯母は私のことを本当に可愛がって世話をして下さったと思う。高校在学中は授業の他に塾でタイプやソロバンを習って就職の準備もした。卒業後はタイプを生かそうと伯父の世話で浜一織布KK入社したのだが七ヶ月ほど勤務したものの自分の希望とは程遠い会社の雰囲気に負けて退職せざるを得なくなってしまった。
伯父や伯母に本当に申し訳ないと思いつつ… それから長野の実家に帰った時、父の妹で朝鮮で共に暮らした叔母に逢った。現在は東京で住んでいるとの事だった。浜松の高校を卒業して七ヶ月働いたがと現在の心境を話すと、東京へ出て来ないかと快く誘ってくれたのだ。あの頃の私は東京と聞いただけで夢見る乙女の心境になりあこがれを強く抱くようになってしまった。浜松に帰ってから叔母には本当に申し訳ないと思ったのだが東京へ行き度い気持ちを話した。
自分ながら恩知らずの姪だと思われるのではないかと覚悟を決めての事だったが叔母は強く反対もせず東京行きを許してくれた。