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自分誌 鵜川道子・6

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通常 自分誌 鵜川道子・6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/4/1 8:09
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五年生の何月であったか父母は私を母の実家に預けた。浜松の海に近い五島小学校であった。半年位であっただろうか?月日のながさはよく覚えていないが、まだ母の実父母や結婚していない叔父叔母そして従姉妹達もいて十人家族の中の生活であった。母の兄弟である弟と妹はとてもやさしくよく勉強をみてくれて大家族の中の一員となった私は淋しさもなく信州での生活を思えば天国と地獄の差とも思える勿体ない生活に切り替っていた。近所の和子ちゃんと庭でまりつきをしたり校庭で日の暮れる迄遊ぶこともあった。
 庭のさくらんぼがたわわに実ったり柿の木には沢山の実がなり秋祭りに叔母と一緒に出かけて村人(むらびと)の余興を楽しんでいる姿(今ではカラオケ)、その中で一曲だけは妙に忘れられない曲がある。叔母がよく口ずさんでいて私にも教えてくれた歌…「落ち葉散る散る山あいの…」である。こんなことを考えているとやはり半年以上はおばあちゃんの家に世話になっていたのだろうか?おばあちゃんと云えば乳母車である。畑で取れたいろいろな野菜を積んで大勢の子供達(母の兄弟や姉妹達である)の家に行くのを仕事のようにしていた。私もよく叔父や叔母の家へ行き、いとこ達と遊ぶことがあった。おばあちゃんは自分の母親の所へも私を連れて行ったことがあった。かやののおばあちゃんと云ってその頃は百三才と云っていたがあれからどれ位生きていたのであろうか!そんなわけで頬かぶりをして乳母車を押していたおばあちゃんの腰ぎんちゃくの私がそこに居た。
 夜は十人でにぎやかな食卓をかこむ。畑で取れたての野菜、そして伯父が釣って来た魚が毎日のように煮魚となって食卓に上がる。夕食後はゆき子叔母(母の一番下の妹)が勉強を教えてくれるのである。そんな生活が続いていたある日突然のように父が来て私を連れて信州へ帰るというのであった。信州の生活は思い出すだけででも私にとってはつらいことであり、それに引き替え、浜松の五島での生活はどんなに楽しいものであったことかと考えていた。私は勿論帰りたくないと云って駄々をこね叔母の勤めていた役場へ行き泣いてトイレに隠れていたのだが父にとっては母の実家にいつまでも私を預けて置くわけにもいかないという気持ちだったのかも知れない。叔母の説得でやはり父の云う通りにする外はなかった。浜松での生活は私の心の中の良き思い出となり一つ一つが甦って来るのである。この経験がなかったら私の少女時代は無味乾燥の時期であったに違いない。
 父と共に信州の地に戻った私はまた同じクラスに入って級友達と何事もなかったかのように馴染むことが出来た。その頃朝鮮から引き揚げてきたという子供が四人になった。男女二人づゝであった。国語の時間に教科書を読まされたとき、アクセントが違うと何度も何度も注意されたりして人前で話すことがつらくなった時期があった。母は授業参観から帰ってくるともっと大勢の友人と話しをするようにと個人的に云われたそうだが無口という言葉を知ったのもこの頃であった。アクセントが違う違うと笑われたことが無口になる原因であったことは自分ではわかっていたのだが先生は私の無口は性格から来ていると見ていたらしい。そんなことがあってか先生は社会科の時間に朝鮮での生活習慣を出来るだけ沢山発表する様にと四人の子供に宿題を出したのだった。私達四人はノートに発表する事柄を書き出して一人づつクラスの皆んなの前で自分たちの生まれ育ったふるさとの様子を話したのである。それからというもの級友達は四人に対する態度が大きく変化したように感じられた。
 そして、その頃の父は山を開墾した端から序々に野菜の種を蒔いたり、りんごや桃の苗を植えて自分の仕事を相変わらず熱心に作り上げていた。母も暑い時も又、寒い時も大きい荷物を背負って行商に精を出していた。私も或る時一度だけ母について奈良井川の橋を渡って一山越えてお客様の家を訪問したことがあった。 母の働きも家族に食べさせる為の必死の思いがあったと思われた。売った商品は必ずしもお金になるわけではなく豆、野菜、小麦粉や米と物々交換になることもある。主に農家を廻るのでそのようなことになるのは仕方のないことだった。 
 ある時はお茶を持って行くとおせんべいになって帰って来ることもある。それは四人の子供に食べさせる為なのである。その頃のおせんべいとは今のものとは違う。トーモロコシの粉で焼いたおせんべいを持って帰るのである。一斗缶に入っているが量はあっても大変軽いのである。小麦粉は夕食の時皆で食べるうどんに変身する。私は学校から帰ると毎日小麦粉をこねてうどんを作るのである。父は毎日うどんやそばを作れと要求する。六人が食べるための量を六年生の私が作るのは大変だと思ったのかどこから買って来たのかうどんを打つ道具を買って来たので私の仕事は楽になって苦痛に思えなくなっていた。お米はなかなか手に入らない時期であったと思う。父は畑を作るために豚や山羊、兎を飼うことを思い付いたようだ。この動物達の糞を利用して堆肥を作りせっせと畑に運んで土を作っていた、その頃は大八車で急な坂道を引張り上げるようにして石コロを拾い木株を根っこから一つ一つ撮るのだから大変な仕事だと子供乍ら感じていた。大雨が降れば畑の真中に川が出来、土まで流されてしまうこともあった。父もこれには本当に困っていたようだが自分で考え乍ら野菜を作り果樹園を造っていた。 
 私や弟は山羊や兎の餌を取りに学校から帰ると大きいビクと鎌を持って草取りに出かけた。野山にはブヨ(虫)が待ちかまえていて人間の肌を刺しに来るのである。一つ刺されただけでも我慢が出来ない程の痒さであるが、よほどおいしいのだろうか?私達の腕も足もブヨの餌食となってそして翌日になるともう膿をもつのである。薬をつけたり包帯でグルグル巻きになって病院通いをする羽目になってつらい思いをした。栄養失調のため体に抵抗力がなくなっているのだと云われた。あの頃は生きるために一家団結していたようである。

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