自分誌 鵜川道子・4
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編集者
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八月十五日が私達にとっては親と離れ離れになるのを中止してくれた最良の日であったことは間違いないと確信している。それからと云うもの学校からは何の連絡もなく、それぞれが我、先にと内地へ引揚げたのである。
上道町からどうやって京城の駅まで親子六人が出かけて行ったのか、父母が家財道具を毎日片付け朝鮮人に手渡し一人一箇の行李(こうり)につめて荷造りし追われるような日々を過ごしつゝ庭に咲いたコスモスやホーズキ、そして黄色の卵のようなナスが玄関前で淋しく私達を送り出してくれた。この家にもう二度と帰って来られないのだからよく見て覚えておきなさいと母が云った。母はどんな気持ちだっただろうかと今更のように思い起こす出来事であった。
京城の駅からは何と貨物列車にそれもギューギュー詰めの更には列車の屋根にまで人が乗っているのだと聞いた。私はすぐ下の弟(一年生)の手を離してはならないと父母に云われ必死で釜山にたどりついた。
釜山に着いた時は一時休憩所のような所で用を足して一息ついたのだが子供乍らに忘れられな不潔さに驚いた。母も乳飲み子の妹を背負っていたのだからどんなにつらい思いをしたことかと思う。そして釜山からは小さい舟に乗りどこかの港に着いたのかよくわからなかったが、知らないうちに父の姿はなく母と四人の子供だけになっていた。トイレもないような小舟であったことは子供心にとても不安で我慢の限界に達し母を困らせたあの時のつらさは経験した者でなくては当低(到底)わからないかも知れないだろう。
それから又大きい船に乗り替えてやっと博多の入港で長野の父の実家までは そんな簡単には帰れなかったのだろう。
博多で宿を見つけてどれ位滞在していただろうか。母と四人の子供がやっと日本の地に足を下ろしてのだ。母は北朝鮮の寒いと所で十年余り生活する中(うち)に体をこわした上に私達兄弟姉妹を次々出産して随分無理をした揚句の引揚げの大事業だったと思われた。父が途中から居なくなったのを不思議に思い乍らも母にはぐれないようにと二人の弟に気を配り汽車に乗り、本当にながいながい車中の旅でようやく長野の祖父母の許にたどり着いたのであった。