自分誌 鵜川道子・9
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編集者
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浜松にずっと居たい気持ちもあったのだが東京へ出て働きたい旨を強く押し通したのである。荷物をまとめ東京の叔母からの手紙を待っていた。しばらくして伯母から住所と地図と東京駅から乗車するバス路線を書いた手紙を貰い受け入れ体制が整ったことを確認してトランクを提げて浜松を後にしたのであった。
浜松の駅で東海道線の電車に乗ろうとした時、同じクラスで一年間仲良く過ごした間渕京子さんと偶然会って聞くと同じ東京に行くところだと云っていた。当時は新幹線はなくゆっくりとお互いに話し合い乍ら東京駅までの時間を楽しんだ。京子さんは小石川の親戚に行くのだと云っていたが、それが最後になるとは考えられないことだった。 本当に若い年令で他界してしまった様である。
丸の内からいまはもうない市川行きの都営バスに乗った。随分道のりがあったが江戸川区役所(八蔵橋)で下車、大杉公園に向って歩き出した。地図を見乍らトランク一丁提げて十月の日ざしがかたむいてる時間帯、一本道をドブ川に添って右に曲がり菊畑の手前に叔母の家の表札を見た。地図の通りであった。門の鍵は開けてあったので玄関を開けて「ご免下さい」と声をかけると叔父が現れた。
はじめて見る叔父の顔、やさしそうな叔父の第一印象、今でもあの姿がはっきりと浮かんで来る。「私、信州の道子です」と自己紹介すると「ああ道ちゃん!上がりなさいよ」と快く出迎えてくれた。手にはホーキとはたきを持っていた。掃除をしていたのだろう「叔母は菊の花を買いに行っているけどすぐに帰って来るから」と座敷に通してくれた。茶色の猫が独りで窓のガラス戸を開けて外に出て行った。初めて東京の土を踏んだ日であった。叔母も菊の花を手にしてすぐ帰って来た。
この時の光景は何十年の月日が流れているのに忘れることが出来ない。それからというもの叔父や叔母と相談してもう一度タイプを習いに行こうと云う気持ちになった。叔父はナスアルミに勤めていたが退職したばかりだと云っていた。叔母夫婦にも子供がなく、叔母が若い頃新宿の文化服装学院を卒業しずっと洋裁の仕事をしていたと云い若い人5,6人で自宅でずっと洋裁の仕事をしていたとのこと、叔父はとてもきれい好きで何かと家事を手伝い乍ら若い頃から小説を書くことが夢であったらしい。よく書斎にこもっていることが多かった。
食事の後によく冗談めいたユーモアを云っていたが何でもよく知っている人で本当に頼れる叔父で安心して心おだやかな生活をさせて頂けたと心から感謝している。 西も東も全くわからない私のためバスで一緒に出かけ東京をガイドしてくれたり本当に親切にして下さったと叔父の気持ちに対して今更乍ら思い出しては感謝しているのである。お陰で少しずつ東京の生活に慣れ日本橋のタイピスト学院で和文タイプを三ヶ月習得することが出来た。日本橋三越前と云う駅前にあるメトロ街に学院があって三越に立ち寄ることもあった。エレベーターの中で高校(長野)の同級生に逢った。彼女はエレベーターガールとして三越に就職していたのだった。見違えるような変身ぶりだったが直ぐに名前を思い出して少しの時間だったが再会の喜びを味わった。東京のしかも三越に勤めるとあんなにきれいになってしまうのかとうらやましく思ったものだったがあの時以来逢ってはいない。タイピストとして働こうと心に決めて三ヶ月真面目に通学しようやく就職先を探す為飯田橋の職業安定所に足を運んだ、昭和30年頃のことである。丁度その頃は大変な就職難の時代であったのだった。一度浜松で失敗しているので大きい会社に就職したいと云う願望が強すぎたようだった。なかなか思うような所がなかった。夢は益々ふくらむ一方だが現実はそう簡単にはいかない。
生命保険会社のタイピストを募集していることを知って応募した。面接の日、本社を尋ねたら何と宮城を一望する所に玄関のある会社である。胸をときめかせて面接に望んだ。こんな東京のド真中でタイピストの仕事が出来たらと考えただけでも胸が高鳴ったのである。4,5日してから合格通知が来て次回は学科試験の日が記るされてあったのだ。本当によかったと胸がわくわくしていた。そして二度目のテストに赴いた。なんと云うことだろう、これも通過した旨の知らせがあったが三次試験は又日を改めて身体検査があると云う。三次試験が通ればあの大きな会社のしかも本社の中で仕事が出来るのだと思えばもうこれ以上の所はないと云う気持ちになっていた。そして第三次試験に臨んだ。しかし、その結果は肺に跡(かげ)(病気の)があると云うことだったのだ。レントゲンは昔の病を暴露したのだ、何と云うことだ。崖っぷちから海の中に突き落とされたような衝撃に襲われた。今迄一生懸命やって来たことは一体何だったのだろう、全てが無に伏してしまった。今更父母の許に戻ることも出来ない。これからどうしよう、又、職業安定所に行く気持ちにもなれなくなってしまった。今更小さな会社に勤めるのはもうこりごりと八方ふさがりのような心境になった。