私が読んだ本 
(期間:2011.11.1 - 2011.12.31)

 子どもの時から今に至るまで、たくさんの本を読んできました。
 そこで、みなさんが読まれた本を紹介してください。
 元気の出る本でもいいし、楽しい本でもいいし
 役に立つ本でもいいです。
 電子図書のことでもいいです。


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  • [No.584] 大東亜民俗学の虚実 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:48
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    1943年10月 東京・成城の柳田国男の家で座談会が開かれた。
    そこに集まった者やそこにはいなかったが
    柳田の主な研究仲間は以下の通りである。
     台湾の台北帝国大学教授金関丈夫(かなせきたけお)
     朝鮮の京城帝国大学教授秋葉隆
     満州の建国大学教授大間知篤三

    柳田は大東亜民俗学という、日本人学者を中心とした植民地的民俗学を提唱したと、この著者は述べている。
    そして柳田が、雑誌「朝鮮民俗」に日本語と朝鮮語で書かれた論文が混在していることを例に、この研究に置いては、言葉の壁があることに言及している。
    しかし、その国の民俗学を学ぶ者なら、文化とか民俗語彙を重視しなければならないから、日本語以外の中国語や朝鮮語も認めないといけないのではないか
    と著者は述べている。

    柳田国男は、日本の民俗と、外国の民俗を比較するのはまだ時期尚早(しょうそう)であり、
    将来の目標とすべきであると言っている。
    柳田の大東亜民俗学とは、日本を中心に放射状に広がる民俗学であり、
    いわゆる植民地民俗学であると解説する著者。

    それなら、中国の伝統的な、中華思想に基づいた民俗学も同様に
    一種の植民地民俗学とみなせるのではないのか。
    世界地図が、その国が中央に描かれるように、無意識のうちに
    その国の回りをとりまく国々の影響を入れた民俗学とは、自己中心的に
    とらえられがちである。

    ジアのそれぞれの国の民俗学を同列に扱い、客観的に比較しながら研究することは難しいと思う。
    そこには、各民族の歴史観やプライドや政治の思惑が控えているから。


    [No.583] 深田祐介:最新東洋事情 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:22
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    新東洋事情 新新東洋事情などの著作があるから
    最新東洋事情とネーミングしたのだろうか。
    でも1995年版となっている。 この後も出たのかな。

    深田祐介が文芸春秋に発表したものをまとめた。
    ・インドのコンピュータ立国 インド人は頭が良いから
    ・親日的なミャンマー 軍艦マーチで行進する軍隊 でもあいかわらず経済は良くない。
    ・韓国、台湾、シンガポールの活発な経済活動

    中国とのつきあいは要注意というのは経験豊かな著者の貴重なアドバイス。
    この手の話いっぱい聞きます。開放経済の中国、夜は気をつけましょう。

    ベトナムはアメリカとの戦争に勝ったが、武器をソ連や中国からもらったので、
    自国の工業技術は低いまま。社会主義では経済が発展しないとばかり
    開放経済の道を選んだ。

    韓国、台湾の企業が進出してきたのは、産業がまだオートメーション化、コンピュータ化されていないから、オートメーション化やコンピュータ化されてしまった日本より有利。
    日本は労働者をたくさん雇わなくてもよいよう機械化されているから、ベトナムでは韓国や台湾に負けてしまった。

    こわいアジアの病気 私も旅行したら注意しないと。
    腸チフス アメーバ赤痢 狂犬病
    動くみみず腫れ 顎口虫、生の川魚を食べたら虫が血管の中に入ってしまった。
    有鉤絛虫(サナダムシ)
    糞線虫 皮膚から感染
    B型肝炎ウィルス 注射器から感染 煮沸消毒しても死なないウィルス

    こわい。旅行できない。生ものは決して食べてはいけない。 


    [No.582] Re: 中国の悲しい遺産 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:14
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    > > (ベティ・パオ・ロード、金美齢訳、中国の悲しい遺産、草思社)

    今でもはっきり覚えていることがある。
    文化大革命はなやかなりしころ、当時の朝日新聞社長の広岡知男は、「日中友好が言論の自由より大事だ」と大見得を切った。

    この状況下で流された報道は、第二次大戦中の大本営発表と何も違わない。
    中国に幻想を抱き、そこに理想の国家を見る者が輩出しても不思議ではない。
    台湾人である訳者がこの翻訳を引き受けた最大の理由がそこにある。
    国土が広大でも、歴史が悠久でも、人々が幸せでないと何の価値もない。
    この単純な理屈を誰でも考えてほしい。

    著者は、耐え忍び、諦め、卑屈になっている同胞を見て、「中国人みな等しく、伝統という遺伝子を組み込まれて、永遠にがんじがらめにされている」と書いて
    さらに自分自身について「アメリカ的部分がなかったら、どうして完全な私といえるだろうか。今日あるのは、単に運命のいたずらで、他人より運がよかっただけなのだ」と述べている。
    著者は、中国の風土の中ではなく、アメリカの社会に育った幸せを噛み締めているに違いない。(訳者あとがき)。

    この訳者の名前が目についたのでこの本を読んだのである


    [No.581] Re: 中国の悲しい遺産 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:09
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    > (ベティ・パオ・ロード、金美齢訳、中国の悲しい遺産、草思社)

    著者は、限られた期間に北京にいたのに、どうして文化大革命の被害者(加害者)の経験をかくもたくさん聞き出すことができたのだろうか。

    アメリカ大使公邸には、中国政府がマイクを仕掛けてあると信じ込んでいるにもかかわらず、
    私に平気で録音させてくれた。
    何人かの人が気を遣っていたのは、指導者たちの批判をするときは直接その名前を口にしないということだけだった。
    そういう人たちは、暗号を使った。
    人差指で顎のほくろを指差すと、それは毛沢東のことで、手を腰に当てるとケ小平、「皇太子」と言えばその息子....というぐあいである。

    自分の過去を話してくれた何十人という元紅衛兵の中で暴力をふるったことを認めたのは、二人だけだった。
    そんな過去をあえて認めたのは、正直に言ったほうが友情を深めることができるということのほかに、文化大革命の真実が忘れられてはならないという思いがあったからだった。
    彼らは、知識は、来るべき世代に社会の害悪に対する免疫をつけさせると信じていたのだ。
    また、あの恐るべき時代の全貌を明らかにする本を中国人が書くということは、おそらくありえないだろうと考えていた。
    そんな本は著者が無意識のうちに修正してしまうか、当局が検閲するかのどちらかだ。
    彼らは、それを私に書いてほしいと望んでいた。
    多くの中国人と同じように、回り道が結局は一番いい結果を生むと信じていたからだ。
    もし私が書いた本が外国で読まれるようになったら、必ず翻訳されて中国人が読めるようになるはずだ。
    人民共和国の人民が中国語でその種の本を書いたら、修正されるだけではすまない。

    わずか2名でも隠さず報告した中国人がいたことはすばらしい。少し救われた気持ち。


    [No.580] 中国の悲しい遺産 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:02
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    文化大革命についての本は他にも同時進行で読んだので
    身につまされる思いがした。

    彼らは生まれたときから、常に毛沢東主席だけが、中国と中国人民にとって何が最善なのかを
    知っているのだと信じ込まされてきたのだ。
    自分の頭で考えるのではなく、集団思考するように教育されてきたのだ。
    マルクス、レーニン、なかんずく
    毛沢東の教義をどれだけ強く信じているかが自らの価値の証だと思い込まされてきたのだ。
    閉ざされた世界に住み、偉大なる指導者の手下たちが言うことだけが唯一の情報だった。
    事実、彼らは、アメリカを支配しているのはKKKであるとか、台湾は非常に貧しくて
    バナナの葉ぐらいしか食べるものがないとか、中国はこの世で一番いい国で、世界中の労働者の羨望の的であるなどということを信じていた。彼らは若かったのだ。

    その結果、毛沢東が志願兵を募ると、みなわれもわれもと先を争って志願した。
    毛沢東を崇拝し、大声で毛沢東語録を唱え、大切なものをすべて捧げた。
    そして、天と地をひっくり返す聖戦に身を投じたのである。

    指導者を決して疑わずひたすら従う姿。
    それは戦前の日本を連想する人もいるだろうし、平壌を連想する人もいるだろうし、例のサリン事件を起こした教団を思い浮かべる人もいるかもしれない。
    いかに客観的にものごとを見て自分の頭で考えることが大切なことか。
    (ベティ・パオ・ロード、金美齢訳、中国の悲しい遺産、草思社)


    [No.579] 鎮海の桜 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 16:57
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    竹国友康:ある日韓歴史の旅

    釜山の西方の鎮海(チネ)には日本海軍の軍港があった。それで沢山の桜の木が植えられた。
    韓国が日本に併合された時代、日本人も朝鮮人もそれぞれ花見に来て楽しんだ。
    第2次大戦が終わり朝鮮は解放され、桜の大半は日帝の残滓(ざんし)といわれ、
    その多くは切られてしまった。

    ところが、植物学者が、鎮海にあるワンポッナム(日本のソメイヨシノ)の
    原産地は済州島であることを発表して、この桜に対する考え方が変わってしまった。

    それではということで、鎮海をもう一度桜の名所にもどそうと、
    在日韓国人たちに頼んでワンポッナムの苗木を送ってもらった。
    中には、鎮海にあった女学校の同窓会で韓国をおとずれた日本人も
    そこで頼まれて、日本に帰ってから桜の苗木を送った人もいる。

    実はワンポッナム(ソメイヨシノ)の原産地は済州島であることを
    1923年に論文としてに発表したのは
    京大教授小泉源一であった。

    韓国の植物学者がこの論文を根拠に
    日本原産ではなく済州島原産であると広めたのだった。

    小泉説に疑問をいだいたのが竹中要であった。
    竹中は済州島に行って
    問題の桜の木があることを確認したがわずか1本しかなかった。

    竹中はこの桜が雑種ではないかと推定した。
    その根拠、ソメイヨシノは実ができにくい(種子ではなく挿し木で増やす)、
    ソメイヨシノ他の桜より生育が早い(雑種強勢)

    戦後に竹中は国立遺伝学研究所の創設に関わり、細胞遺伝部長になる。
    1962年に竹中は、ソメイヨシノは、エドヒガンとオオシマザクラの雑種である説を発表した。
    エドヒガンとオオシマザクラの開花時期は異なる。

    言い伝えによる江戸の染井の植木師の庭で自然交配してできたのではなく、
    両種の分布が広く重なっている地帯から江戸に持ってきたのではないかと推定する。
    そして両種が自生している伊豆半島南端が原産地であると推定し、
    現地で自然合成でできたと思われるソメイヨシノ数本確認した。

    この竹中説はDNA鑑定法で正しいことが証明された。

    さて韓国の学者はどう考えているかというと、ある学者はサンポッナム(ヤマザクラ)系とオルポッナム(エイシュウザクラ)の雑種であるといい、
    別の学者はサンゲポッナム(ミヤマザクラ)が片方の親ではないかと言っている。


    [No.578] Re: 人を殺すマンガ 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 14:19
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    映画では高倉健演ずる
    スナイパー(狙撃手)ことデューク東郷の出生の秘密
    には諸説があって
    いずれも謎のままに終わっている。

    英独仏露そのほか世界のどこの地方の
    どの民族の言葉でもあやつれる
    語学の天才。

    インターネットにも強い。


    [No.577] Re: 李白からウィスキーへ(^_-)/ 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 14:13
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    さんらく亭さん みなさん  こんにちは

    > 蒸留という技術は4世紀ごろにアラブ人が発明したもので彼らは香水を作るため花びらを潰して蒸留したのを6世紀に訪れたアイルランドの修行僧がその技術を祖国に持ち帰り酒造りに応用したという。

    > ウィスキーという語は、ゲール語(アイルランド人の母国語)の「ウシュク・ベーハ」(生命の水)が12世紀にイングランドに征服されて転訛して「ウィスキー」になったもの。

    北欧なら (生命の水)アクアビット

    15世紀の『ストックホルム市財政報告書』にアクアビットに関する記録が見られ、これが現存する最古のアクアビットの記録といわれている。これによれば、当時のアクアビットはヨーロッパ大陸から輸入したワインを蒸留して製造していたとあり、現代では一般にブランデーとよばれるものであったと想像できる。

    その後、16世紀末に穀物が使われるようになり、18世紀には新大陸産のジャガイモが主な原料となって、現代と同様のアクアビットが生産されるようになった。

    アクアビットの語源は、ラテン語のAquavitaeであり、ゲール語の「ウイスキー」、ロシア語の「ウォッカ」と同様に「生命の水」の意である。

    製法 [編集]ジャガイモを酵素や麦芽で糖化した後に発酵させ、蒸留する。これにキャラウェイ、フェンネル、アニスなどの香草で風味を付け、さらに蒸留する。多くは樽熟成をさせずに製品化されるが、ノルウェーの「リニエ(Linie)」など、まれに樽熟成させる銘柄もある。

    主要銘柄 [編集]デンマーク
    オールボー
    スウェーデン
    O.P.アンダーソン
    スコーネ
    ヘル・ゴーズ
    ハランズ・フレーデル
    ノルウェー
    ギルド
    リニエ
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88

    新宿の靖国通り、なら24時間営業の居酒屋もありますね。
     大阪にもありますか。


    [No.576] 李白からウィスキーへ(^_-)/ 投稿者:   投稿日:2011/12/15(Thu) 11:21
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    男爵さん みなさん  こんにちは

    >  ウイスキーが歴史上はじめて文献に登場したのは、1405年のアイルランドである。
    >  このときウイスキーは修道士たちによって製造されていた。
    >  スコットランドでも1496年に記録が残っているが、実際はウイスキーはこれより数百年も前からあったものと考えられている。
    >
    > 蒸留技術はアラビア人が広めたのです。

    ウィスキーの発祥地がアイルランドというのは定説です。

    蒸留という技術は4世紀ごろにアラブ人が発明したもので彼らは香水を作るため花びらを潰して蒸留したのを6世紀に訪れたアイルランドの修行僧がその技術を祖国に持ち帰り酒造りに応用したという。また一説には432年にアイルランドにキリスト教を布教した修道僧の聖パトリックによって蒸留技術が伝わったという説があります。
    因みに聖パトリックはこの国の守護聖人として奉られ3月17日は全世界のアイリッシュ系住民によって聖パトリックスデーとして記念日になっています

    ウィスキーという語は、ゲール語(アイルランド人の母国語)の「ウシュク・ベーハ」(生命の水)が12世紀にイングランドに征服されて転訛して「ウィスキー」になったもの。

    日本に来ているアイリッシュウィスキーも数種類ある中で私がいちばん好きなのは
    なんといっても「タラモアデュー」です。これを書いたら急に飲みたくなりました。

      真っ昼間から殺生でっせ〜〜〜


               さんらく亭@甲子園


    [No.575] 聖徳太子の本 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 11:04
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    斑鳩の塔に雲流れて わが回想の聖徳太子 主婦の友社 1979

    玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎図」
    この「捨身飼虎図」は、ブッダの前生物語で
    薩た王子(「た」は土篇に「垂」)が飢えた虎の母子に自らの肉体を布施するという物語を静止画像をいくつか組み合わせて描かれてある。
    つまり、この図は「異時同図法」の典型的な例としても知られ、王子が衣服を脱ぎ、崖から身を投げ、虎にその身を与えるまでの時間的経過を表現するために、王子の姿が画面中に3回登場する。

    敦煌石窟をはじめシルクロードのいくつかの石窟に
    このモデルとなる絵が描かれてある。

    しかし、法隆寺の玉虫厨子を見ただけでは、絵は不鮮明でとうてい鑑賞できるものではない。


    聖徳太子の妃は何人かいた。
     菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)
      敏達天皇と推古天皇の子。聖徳太子のいとこであり妃だが、結婚後まもなく逝去したと思われる。
         この本では、蛸は魚編の字となっている。

     推古天皇の娘に対して、蘇我馬子も太子に自分の娘をめあわせた。
     刀自古郎女(とじこ の いらつめ)も、聖徳太子の妃。父は蘇我馬子、母は物部氏の女と伝えられている。

     いちばん太子の愛を受けたと思われる膳大郎女
     膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は聖徳太子の妃。

    推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日(621年))

    実は聖徳太子にはもう一人の妃がいた。橘大郎である。
    彼女は膳大郎女と太子を相次いで失い、一人残されたのである。
     橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)は、聖徳太子の妃。父は敏達天皇の皇子・尾張皇子で、推古天皇の孫に当たる。聖徳太子との子に白髪部王、手嶋女王の二人。

    膳大郎女に嫉妬を燃やしたであろう橘大郎女は
    聖徳太子が死ぬと、推古天皇に願い出て、釆女に天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう、天寿国繍帳とも言う)を作らせた。
    これは、聖徳太子の死を悼んで、死後に行ったとされる天寿国の様子を描かせたものと言われる。現存する日本最古の刺繍である。

    橘大郎女は刺繍の天寿国に、彼女は太子と並んで自分自身の姿をもはっきりと描かせたのではないかと、この本の著者は推定しています。


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