私が読んだ本 
(期間:2011.11.1 - 2011.12.31)

 子どもの時から今に至るまで、たくさんの本を読んできました。
 そこで、みなさんが読まれた本を紹介してください。
 元気の出る本でもいいし、楽しい本でもいいし
 役に立つ本でもいいです。
 電子図書のことでもいいです。


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  • [No.595] 明治天皇の伝記を書いたドナルド・キーン 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/16(Fri) 06:12
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    明治天皇は日記をつけなかった。
    天皇の気持ちを表しているのは歌だけなのだ。
    その歌も、天皇の歌は、年始の歌や、梅の香の歌とか、天然の美を詠った歌で、
    自分の喜びや悲しみなど気持ちを詠った歌はきわめて少ない。
    (ヴィクトリア女王は毎日9人の子どもに手紙を書いて、日記もつけていた)

    明治天皇は克己心がきわめて強かった。日本中を訪れた。
    村人たちの出迎えに応え、村長をはじめ人々の歓迎を全身に受けて、
    寝るのは何時も深夜だった。そして早朝に起きて次の日の忙しい
    行事の準備をする。そういう生活を毎日続けた。決して逃げ出さなかった。

    明治天皇は、刺身が嫌いだった。刺身以外は洋食でも何でも食べた。
    ちばん好きなのはアイスクリームだった。花見も嫌いだった。
    風呂が嫌いだった。夏は仕方なく風呂に入っていたが、あとはほとんど
    入らなかったようだ。

    明治天皇は電気が嫌いだった。若いとき火事にあって、前の宮殿が
    焼けたことを覚えていて、なるべく電気は使わず、ロウソクを使っていた。
    自動車も嫌いで、一度も乗らなかった。当時は自動車があったが、
    他の人は乗っても、天皇は最後まで馬車を使っていた。

    明治天皇は贅沢を嫌っていた。軍服は、継ぎを当てて着ていた。
    服にお金はかけなかったが、フランス香水は大好きで三日に一瓶を
    使った。

    日清戦争のとき、大本営が広島に移ったので、兵士を激励するのが
    自分の義務と思って明治天皇は広島に行った。天皇の泊まった家は、
    ごく粗末なバラックで、装飾品は壁の安い時計だけだった。
    もう少しきれいに部屋に移ったらしと言われても「いや、第一線の
    軍人はもっとひどいところで我慢している」と断った。
    侍従たちが「女性がひとりもいないからご不自由でしょう、東京から
    呼んだらいかがですか」と言ったが、天皇は「前線の兵士には
    妻はついていない」と返事して終わった。夏の蚊帳も、天皇は
    「第一線の兵士には蚊帳がないから自分も蚊帳はいらない」と言った。

    明治天皇は15人の女性と関係があった。それは当時の習慣で
    男の子どもを生むことが義務だったから。弱い大正天皇ともう一人の
    次男がいたのだが、次男は亡くなってしまった。それを聞いても
    天皇は「うん」としか言わなかった。皇后は素晴らしい女性で
    皇后との関係は良好だったが、彼女は子供が産めないという
    ことがわかり、側室を回りから勧められたのだった。

    ドナルド・キーン:明治天皇
    http://book.asahi.com/bunko/TKY200712300106.html

    ドナルド・キーン:明治天皇を語る
    http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89-%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/product-description/4106100010


    [No.594] Re: 青い野菜を食べましょう 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/16(Fri) 05:55
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    > 人間も青野菜を食べましょう。
    >   (フジ三太郎旅日記、朝日新聞社)

    フィンランドのアクアビットはジャガイモから作る。
    だから、薩摩のイモ焼酎と近い。

    「サンペイさんの英語はヒヤリングはダメのようだけど
    自分の言いたいことは、なんとしてでも通じさせてしまうね」

    そうそれでいいのです。


    [No.593] 青い野菜を食べましょう 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/16(Fri) 05:54
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    赤い血の流れている動物はどんなことがあっても青い草を食べなければ生きていけない。
    赤い血のもとである「血色素(ヘモグロビン)」の成分は、緑色の葉の中の「葉緑素」にしか存在しない。
    「4つのピロール核」の中に1分子の「マグネシウム」が入っているのが葉緑素。
    血色素は「4つのピロール核」の中に1分子の「鉄」が入っている。
    動物の体の中で、マグネシウムと鉄が入れ替わると、緑の葉緑素が赤い血色素になる。

    青い野菜を食べていない人の血は、色がどす黒くコーヒー色になり、ドロッとして血液の流れが悪くなる。
    頭も体も悪くなるそうです。

    青野菜をよく食べている人の血は、きれいな鮮血色で、春の小川のようにさらさら流れている。

    ライオンはシマウマを襲う。
    ライオンは賢い。一番柔らかい肛門にかぶりつき、まず腸管を引きずり出す。
    初めのうちは半透明のビニールのような腸管が黄色いが、それは食べないで
    わきに積んでおく。
    やがて、緑色が見えると、ライオンは一息おいて、ガブッとむしゃぶりつく。
    ライオンは青い草に飢えていた。
    そこらじゅうにいっぱい草はあるのだけど、ライオンは食べられない。
    歯がとんがった犬歯なので、草が噛めないのだ。
    全部草切り歯の草食動物が食べているお腹の中の半消化のドロッとした草をすすって補給する。

    人間も青野菜を食べましょう。
      (フジ三太郎旅日記、朝日新聞社)


    [No.592] Re: お酒の本 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/16(Fri) 05:34
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    唐辛子 紋次郎 さん

    >  かれは、もとのゲール語の発音をウシュクボーと書いているし、さんらく亭さんのはウシュク・ベーハだし、開高さんはウイスゲ・ベーハー(「地球はグラスのふちを回る」)になっているし、藤本義一さんの本では、さんらく亭さんと同じになっていました。いずれにしても、ゲール語って、すごく難しそう。(-_-;)
    >
    >  この藤本さんというのが、あっしはてっきり小説家と思っていたのが大間違いで、サントリー宣伝部の人と知って驚きました。道理で、表紙カバーが柳原良平の絵になっていたわけだ。(*^_^*)

    藤本義一 (作家)
    藤本 義一(ふじもと ぎいち、1933年1月26日 - )は、日本の小説家、放送作家。大阪府堺市出身。
    日本放送作家協会関西支部長であり、プロ作家を育成する心斎橋大学総長も務める。夫人はタレントの藤本統紀子。
    私立浪速中学に入学、少年飛行兵を目指して1945年5月に航空機搭乗員養成所に入るが、終戦となる。終戦時には入院していた両親に代わって闇市でレポ屋として家計を支えた。新制浪速高校に進み、立命館大学法学部に入学するが、中退。浪速大学(現大阪府立大学)に入学し、教師を目指し教育学部に在籍、教育実習で現場教師が虎の巻を見ながら授業をしているのをみて幻滅し経済学部へ転部。もともと演劇好きで演劇部・拳法部に入るが、役者より劇作家の方を志し、在学中から数十編のラジオドラマ、その他の脚本を書いており、卒業前年の1957年に執筆したラジオドラマ作品『つばくろの歌』で同年度の芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞。次席が井上ひさしで「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くからその才能は高く評価されていた。
    その後テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、衣笠貞之助の脚本の手伝いもする。川島雄三監督に師事して脚本の手伝いをし、『暖簾』や、木村恵吾、市川崑らの作品も手伝う。1961年に『貸間あり』で共作者となり、駅前シリーズ、悪名シリーズ等の脚本を手がけ、頭角を現していく。
    1965年から始めた『11PM』(日本テレビ放送網・讀賣テレビ放送共同製作)での大阪制作分のキャスターにより、一躍知名度を高める。放送開始から1990年の終了までの25年に渡って毎週2回を担当し、休んだのは3回だけ(あらかじめ特番になった場合による休止は別)だった。
    1974年に上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で第65回直木賞受賞。以後文芸作品からエッセイ、社会評論などの著作を多数発表する。


    藤本義一 (洋酒研究家)
    1927年(昭和2年)、兵庫県神戸市に生まれる。幼少時から詩作に親しむ。戦時中は兵役に採られたが、復員後は古書店の経営を始め、1946年(昭和21年)に詩人の竹中郁の薦めで同人詩誌『航海表』を発刊する。1948年(昭和23年)、こどもの詩誌「きりん」の編集部に就職。当時の編集部には師竹中郁のほか井上靖らがいた。数年後「きりん」が一時的な休刊となり、藤本は同じく雑誌社の太陽社に転職。「太陽」の廃刊に伴い、神戸市の社会教育課に移った後に広告業界に入る。スモカ歯磨とさくらクレパスの編集者を経て、1959年(昭和34年)に株式会社壽屋宣伝部に入社。1965年(昭和40年)に東京に転勤。社内報『まど』に洋酒に関する記事を発表する一方、開高健らとともにベ平連に参加し、反戦運動にも力を注ぐ。 1973年(昭和48年)、サントリー在職中のままワイン相談室長を兼任し、日本ワイン協会専務理事を務めたほか、日蘭学会、蘭学資料研究会、日本風俗史学会の会員なども歴任した。1960年代後半からワインに関する著書を数多く発表し、洋酒の普及紹介に努めた。1999年10月18日、癌のため死去。享年71。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E4%B8%80


    [No.591] お酒の本 投稿者:   投稿日:2011/12/15(Thu) 23:00
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    この会議室は、やはり本が出てこないとチョット具合が悪いので、タイトルをかえて、こちらへ引っ越しました。李白よ、許せ。(*^_^*)

     あちらでは、ウイスキーの発祥地でだいぶ賑わっていましたので、このウイスキーを電子辞書でひいてみると、whiskeyのところに、米・アイル・カナダでは主にwhiskey、英・豪では主にwhiskyとつづる、とあります。

     もし、ウイスキーにeが入るのか、入らないのかの論争になれば、前者はきっとにやにやしながら、(e)いいウィスキーはこちらでござい、とかいうかも知れませんね。(-_-;)

     司馬遼太郎も「愛蘭土紀行1」でこのウィスキーのスペル談議をやっていました。

     氏は本を書くときに色々調べてみるまでは、ウィスキーはスコットランドが本家と思っていたようです。

     かれは、もとのゲール語の発音をウシュクボーと書いているし、さんらく亭さんのはウシュク・ベーハだし、開高さんはウイスゲ・ベーハー(「地球はグラスのふちを回る」)になっているし、藤本義一さんの本では、さんらく亭さんと同じになっていました。いずれにしても、ゲール語って、すごく難しそう。(-_-;)

     この藤本さんというのが、あっしはてっきり小説家と思っていたのが大間違いで、サントリー宣伝部の人と知って驚きました。道理で、表紙カバーが柳原良平の絵になっていたわけだ。(*^_^*)

     この本のタイトルは「洋酒こぼれ話」。表紙カバーの裏に、佐治敬三さんの「新洋酒天国」の広告がありました。たしか、この本もむかし読んだ記憶があるぞ。中身はマッタク覚えていないけれど……。


    [No.589] Re: 大東亜民俗学の虚実 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 19:00
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    さんらく亭さん
    よいことを教えていただきました。

    > 西宮神社(えべっさん)の近くに「傀儡師の像」があります
    > 人形芝居発祥の地といわれています
    >
    > http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/048d7ca67e3b6fad1bf416da4cbb94a3
    >
    > 西宮といえば、えべっさんと甲子園と宮水が有名ですが、市民でさえこれを
    > 知っている人は少ないようです

    さっそく見てみました。
    >こうして全国の人形芝居のルーツとして隆盛を極めた西宮の傀儡師は
    >残念ながら江戸末期には数件にまで減り
    >明治時代の中頃に最後の傀儡師・吉田小六氏が廃業してからは完全に姿を消す事となりました。

    しかし
    1984年には国立文楽劇場が完成し
    2003年には、「人形浄瑠璃文楽」が「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言された(ユネスコ世界無形文化遺産)
    のだから
    よかったですね。


    [No.588] Re: 大東亜民俗学の虚実 投稿者:   投稿日:2011/12/15(Thu) 18:25
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    男爵さん

    > クグツ 傀儡 
    > こんなに歴史があったとは。
    > 人形浄瑠璃の研究をしている人もいるんでしょうね。
    > 日本の場合、人形を回したり今様を歌ったりして
    > 漂泊した一種の芸能民。


    西宮神社(えべっさん)の近くに「傀儡師の像」があります
    人形芝居発祥の地といわれています

    http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/048d7ca67e3b6fad1bf416da4cbb94a3

    西宮といえば、えべっさんと甲子園と宮水が有名ですが、市民でさえこれを
    知っている人は少ないようです

           さんらく亭@甲子園


    [No.587] Re: 大東亜民俗学の虚実 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 18:03
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    芸能民と遊女と巫女は、朝鮮ではきわめて近い関係のところにいる
    賤視された集団だった。

    日韓の芸能、シャーマニズム、祭礼などの交流や影響関係を
    指摘する学者は少なくないという。

    横溝正史の獄門島
     この中国筋にはカンカン叩きという筋のものがある。
     四国の犬神、九州の蛇神、それとは少しおもむきが違うが、
     普通の者と交わりができぬものとしてある。
     いわれを話すと、なんでも陰陽師安倍清明が、中国筋へくだって
     来たとき、供のものがみんな死んでしまった。
     そこで晴明は、みちばたの草に生命を与えて人間として、
     これをお供にしてご用をはたした。
     さて京へ帰るとき、もとの草にもどそうとすると、
     そのものどものいうことに、せっかく人間にしていただいたのだから、
     このままでおいてくださいと頼んだそうだ。
     そこで晴明もふびんに思い
     そのまま人間にしておくことにした。
     だがもとをただせば草だから、晴明は祈祷の術を教えて、
     これをもって代々身を立てよといい聞かしたという。
     それで、その筋のものを草人、一名カンカン叩きといって、代々祈祷
     をわざとしている。
     根が草のことだから、人交わりはできぬというので
     普通の人は忌み嫌う。
     お小夜はその筋のものだというが、嘘かほんとかわしは知らぬ。
      (犬神筋〉犬の霊を神としてまつる家筋のこと。
       犬神筋は、自分が好ましくないと思う者に犬神を憑(つ)けて、
       病気や死に至らしめることができると信じられている。
       ひとたび犬神をまつると、末代までその(筋の)家から離れることがなく、
       しかも縁組を通じて広がると信じられたので、犬神筋との婚姻はきらわれた。

    伊豆の踊り子も身分の卑しい旅芸人なのだと
    土地の人が主人公の学生に教えるのも、こういう伝統があるからだろうか。


    [No.586] Re: 大東亜民俗学の虚実 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:57
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    クグツ 傀儡 
    こんなに歴史があったとは。
    人形浄瑠璃の研究をしている人もいるんでしょうね。

    朝鮮の楊水尺と日本のクグツ、朝鮮のムーダンと日本の巫女
    それらの同源性は学問的に興味がある。

    広大、社堂はクグツ集団と同じような漂白の芸能集団
    男社堂(男寺堂)は芸能と男色を、女社堂は歌舞や売春や占トを行うなど、クグツとクグツ女(遊女)ときわめて似た関係にあった。
    男女の社堂が夫婦として移動することも少なくなく、
    芸能民と遊女と巫女は、朝鮮ではきわめて近い関係のところにいる
    賤視された集団だった。

    日韓の芸能、シャーマニズム、祭礼などの交流や影響関係を指摘する学者は少なくないという。

    偶人(人形)を使う傀儡子の芝居は、
    中国の漢末(2世紀)になると葬礼からはなれ宴会で楽しまれた。
    今でも、北京、四川、広東のものが有名である。
    ついマリオネットを連想する。

    日本の場合、人形を回したり今様を歌ったりして
    漂泊した一種の芸能民。

    大江匡房「傀儡子記くぐつき」
    寛治年間(1087‐94)以降の成立。
    傀儡子(傀儡)は、元来は人形を操って生計を立てる芸人を指していたようだが、同時に歌舞、売春などもする遊女のようなものであった。

    彼らは水草を追って移動する流浪の徒であり、男は弓馬を使って狩猟し、
    人形を舞わせ手品めいたこともする。
    女は厚化粧をして歌ったり舞ったり時には媚を売る。
    生活は不安定であるが、流浪生活ゆえ課役徴税は受けない。
    夜は百神を祭って鼓舞する。


    [No.585] Re: 大東亜民俗学の虚実 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/15(Thu) 17:52
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    そうそう
    この本は 川村湊:「大東亜民俗学」の虚実、講談社選書メチエ80
    です。

    李能和は朝鮮巫俗考を漢文で書いた。
    他の人の説明によれば、一民族の民族主義(ナショナリズム)は、
    常にインターナショナリズム(国際主義)との関わりにおいて形成されるべきものであることを証明したようなもの。
    漢文は東アジアにおける国際語なので、ナショナリズムを主張するためには、
    国際語の漢文で書くことが必要と考えたらしい。
    つまり、岡倉天心や新渡戸稲造が、英語で民族主義的な著作を書いたようなもの。

    これに対して、日本の国学は、漢意(からごころ)を否定し、和魂(やまとだましい)を強調したので、
    本居宣長などはつとめて漢字を使わず、大和言葉を使った和文脈の文体を工夫した。
    だから、今の韓国においても、漢字を使わず、ハングル文の氾濫が見られるのだ。

    崔南善「薩満教答記」  薩満教(シャーマニズム)
    この本は同じ朝鮮巫俗を扱いながら、ハングル文で書かれた。
    朝鮮固有の民族的宗教として今また民間信仰の主柱となった巫俗は、
    実は東北アジアの全国民間に共通する信仰として、
    学者たちがシャーマニズムと呼ぶ原始宗教の一種なのである。

    なるほど モンゴルも満州族もそうだ。
    日本の卑弥呼に認められる巫女の伝統も、恐山のイタコもみなこの系統。

    中国の儒教・道教的な文化に対する、薩満教(シャーマニズム)を
    見直すことで、自分の民族の独自性を究明すること。
    これは日本にも、朝鮮にも、モンゴルにも必要なことかもしれない。


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